不眠症のあの子は、あたしの声がないと眠れないらしい。
ころね
第1話 放課後の理科室と、不機嫌な眠り姫
「――あはは! マジで? それウケるんだけど!」
あたしの笑い声が、教室の空気を振動させる。
時刻は午後三時過ぎ。ホームルームが終わった直後の教室は、解放感という名の熱気で満ちていた。
机を動かす音、鞄のチャックを開ける音、誰かがふざけて廊下を走る足音。
それら全ての雑音が、あたしにとっては日常のBGMだ。
「そらー! 今日、駅前のクレープ行かない? 新作出たらしいよ!」
「あ、宇都宮さん! 次の体育のチーム決め、一緒に入ってくれない?」
「そらちゃん、この間のノート見せてー!」
四方八方から飛んでくる声、声、声。
あたし、宇都宮そらは、その全てに対して完璧なレスポンスを返す。
「クレープ? いいねえ、行きたい! ……あーでもごめん、今日ちょっと野暮用あるんだよねー。また誘って!」
「体育? おっけー、あたしで良ければ! 足引っ張ったらごめんねー?」
「ノート? はいはい了解了解! 汚い字で良ければどうぞ!」
笑顔。手振り。声のトーン。
全てを「クラスのムードメーカー・宇都宮そら」というイコライザに合わせて調整する。
あたしの周りには、常に人がいる。
太陽のように明るく、誰にでも平等で、悩みなんて一つもなさそうな女子高生。
それが、この学校におけるあたしのアバターだ。
「……ふぅ」
一瞬だけ、息を吐く。
笑顔の筋肉を維持したまま、肺の中の空気を入れ替える。
(……うるさいなあ、もう)
心の奥底で、もう一人のあたしが呟いた。
周囲の笑い声が、高周波のノイズのように鼓膜を刺す。
みんなが嫌いなわけじゃない。
ただ、あたしの聴覚は、人よりも少しだけ「解像度」が高すぎるのだ。
他人の感情の機微、建前と本音の不協和音、空気が軋む音。
それらが全部、情報として頭に入ってきてしまう。
だから、あたしは夜を愛している。
——世界からノイズが消え、静寂だけが支配する深夜二時。
そこだけが、あたしが本当の「あたし」に戻れる場所だ。
『……こんばんは。SORAです。今夜も、眠れないあなたの耳元へ……』
マイクに向かって囁くとき、あたしの声は昼間とは別人のように低く、深くなる。
ASMR配信者『SORA』。
登録者数はまだそこまで多くないけれど、コアなファンがついている「寝かしつけ専門」の配信者。
それが、あたしの本当の顔。
誰かの耳を甘やかし、脳を溶かし、眠りへと誘う。
その瞬間だけ、あたし自身も救われている気がするのだ。
「――宇都宮、ちょっといいか?」
思考の海に沈みかけていたあたしを、現実の音声が引き戻した。
担任の教師だ。
「あ、はい! なんですか先生?」
反射的に「陽キャスイッチ」が入る。
「悪いんだが、このプリント、第二理科室に届けてくれないか? 月城がそこで自習してるはずなんだが、渡し忘れててな」
「月城さん……ですか?」
その名前に、あたしの脳内データベースが検索をかける。
月城栞(つきしろ しおり)。
同じクラスの女子。
席は窓際の一番前。
成績は学年トップ。容姿端麗、黒髪ロングの美少女。
けれど、その美しさは人を寄せ付けない「絶対零度」の美しさだ。
休み時間は常に一人で本を読んでいるか、あるいは机に突っ伏して寝ているか。
クラスの女子グループからの勧誘も、「時間の無駄です」の一言で切り捨てたという逸話を持つ、孤高の存在。
通称、『氷の女王』。
「……うーん。まあいっか! おっけーです、任せてください!」
あたしはプリントの束を受け取り、軽快にウインクしてみせた。
先生は「助かるよ、宇都宮はいつも元気が良くていいな」なんて言って去っていく。
元気、か。
まあ、そう見えているなら成功だ。
「じゃ、行ってきまーす」
友達に手を振り、あたしは教室を出た。
廊下に出た瞬間、ボリュームを絞ったように音が遠ざかる。
放課後の校舎特有の、気だるげな静けさ。
上履きが床を叩くペタ、ペタ、という音だけが、やけに大きく響いた。
(第二理科室、か)
本校舎から渡り廊下を越えた先にある、特別教室棟。
普段はあまり人が寄り付かない場所だ。
なんでそんなところで自習してるんだろ。
教室でやればいいのに。
……あ、そっか。教室だとうるさいからか。
その点に関しては、あたしも彼女に共感できるかもしれない。
渡り廊下を歩きながら、窓の外を見る。
西の空が、オレンジと紫のグラデーションに染まり始めていた。
夕暮れ時。
昼と夜の境界線。
世界の色が変わるこの時間が、あたしは嫌いじゃない。
特別教室棟は、ひんやりとした空気に包まれていた。
古い校舎特有の、埃と木の匂い。
階段を上がり、廊下の突き当たりにある「第二理科室」のプレートの前で足を止める。
中からは、物音一つ聞こえない。
本当にいるのかな?
「失礼しまーす……っと」
あたしは努めて明るく声を上げながら、重たい引き戸をガララッと開けた。
その瞬間。
視界に飛び込んできた光景に、あたしは思わず息を呑んだ。
「…………」
そこは、黄金色の世界だった。
西向きの大きな窓から、強烈な夕日が差し込んでいる。
空気中を舞う埃が、光の粒となってキラキラと輝き、理科室全体を幻想的な空間に変えていた。
ビーカーやフラスコが、夕日を反射して複雑な光の模様を壁に描いている。
そして、その光の中心。
窓際の一番奥の実験台に、彼女はいた。
月城栞。
彼女は、実験台に突っ伏していた。
腕を枕にして、顔を横に向けている。
サラサラとした黒髪が、机の上から肩にかけて流れるように広がり、夕日の色を吸い込んで艶やかに光っていた。
長い睫毛が落とす影。
通った鼻筋。
薄く開いた唇。
その造形は、まるでガラス細工のように繊細で、触れれば壊れてしまいそうな危うさを孕んでいた。
(……綺麗)
思わず、そんな単語が脳裏をよぎる。
クラスで遠巻きに見ている時は「冷たい人」という印象しかなかったけれど。
こうして無防備な姿を見ると、その美しさは暴力的なまでの説得力を持っていた。
けれど。
あたしの目は、すぐに別の「違和感」を捉えた。
「……ん……ぅ……」
彼女の眉間に、深い皺が刻まれている。
寝ているはずなのに、安らぎがない。
指先が、無意識に実験台の端を強く掴んでいる。
呼吸が浅い。
リズムが乱れている。
そして何より――目の下の、クマ。
透き通るような白い肌だからこそ、そのどす黒い影は残酷なほど目立っていた。
コンシーラーで隠そうとした跡があるけれど、時間が経って浮き出てしまっている。
あれは、ただの「昨日夜更かししました」レベルじゃない。
慢性的な、それもかなり長期にわたる睡眠負債の蓄積。
(……うわ、これは重症だ)
あたしの中の「SORA」が、冷静に分析を開始する。
自律神経が悲鳴を上げている。
体は休息を求めているのに、脳が覚醒し続けてシャットダウンできない状態。
いわゆる「過覚醒」の症状だ。
彼女は今、眠っているんじゃない。
気絶に近い状態で、意識を手放しているだけだ。
「……月城さん?」
あたしは足音を忍ばせて近づいた。
起こすべきか迷ったけれど、プリントを置いて帰るだけというのも、なんだか寝覚めが悪い。
それに、このまま変な体勢で寝続けたら、体を痛めそうだ。
声をかけると、彼女の肩がビクリと跳ねた。
まるで捕食者に気づいた小動物のような、過敏な反応。
ゆっくりと、彼女が瞼を持ち上げる。
焦点の合わない瞳が、ぼんやりと宙を彷徨い、やがて逆光の中に立つあたしの姿を捉えた。
その瞬間。
彼女の瞳に、鋭い光が宿る。
「氷の女王」の防衛システムが、再起動した音があたしには聞こえた気がした。
「……誰?」
低く、掠れた声。
寝起き特有の甘さは微塵もない。
そこにあるのは、明確な拒絶と警戒心。
「あ、ごめん! 起こしちゃった? 宇都宮だよ。同じクラスの」
あたしは「いつもの笑顔」を貼り付けて、一歩踏み出す。
「先生に頼まれてさ、プリント届けに来たの。……はい、これ」
プリントの束を差し出す。
栞は、気だるげに体を起こした。
制服の袖口から覗く手首が、折れそうなほど細い。
彼女は乱れた前髪を無造作にかき上げると、あたしを睨むように見上げた。
「……そこに置いておいてください」
「え、受け取ってくれないの? 手渡ししたかったなー、せっかく来たんだし」
「……必要ありません。そこに置けば、物理的に私の所有物になります」
「うわ、理屈っぽい!」
あたしは苦笑しながら、言われた通り実験台の端にプリントを置いた。
普通なら、ここで会話は終了だ。
「じゃあね」と言って帰ればいい。
彼女もそれを望んでいる。全身から「話しかけるなオーラ」が出ている。
でも。
あたしは帰らなかった。
いや、帰れなかった。
目の前の彼女が、あまりにも「ギリギリ」に見えたからだ。
今にも崩れ落ちそうなジェンガみたいに、危ういバランスでそこに存在している。
放っておけない。
それはあたしの「陽キャとしてのお節介」なのか、それとも「配信者としての職業病」なのか。
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