第1章:すれ違いの始まり
第1話:最後の冬
キーボードを叩く音が、静かな文芸部室に響いていた。
カタカタカタカタ——リズミカルな打鍵音が、まるで音楽のように部屋を満たしている。僕の指は休むことなく動き続け、頭の中に広がる物語を次々と文字に変換していく。
時計を見ると、午後五時を過ぎていた。外はもう薄暗くなっていて、部室の窓から見える空は灰色に染まっている。十二月の冬空は、いつも重苦しくて、まるで僕の心を映しているようだった。
「……よし」
僕は小さく呟いて、最後の一文を打ち込んだ。
画面には「第十五章 完」の文字が表示されている。これで本文は完成だ。あとは推敲と誤字脱字のチェックをすれば、二十作目の小説『勇者パーティーを追放されたけど』が完成する。
中学三年生の冬。受験勉強の真っ最中だというのに、僕は小説を書くことをやめられなかった。いや、正確に言えば、やめたくなかった。小説を書いている時だけは、現実の煩わしさを忘れられたから。
「桜井くん、まだいたの?」
ドアが開いて、顧問の田中先生が顔を覗かせた。
三十代半ばの国語教師で、温厚な性格の持ち主だ。僕が文芸部で遅くまで執筆していることを、いつも温かく見守ってくれている。
「はい、今ちょうど書き上げたところです」
僕は立ち上がって、軽く会釈をした。
「そうか。でも、あまり無理するなよ。受験もあるんだから」
「大丈夫です。勉強の方も順調ですから」
それは嘘ではなかった。僕の成績は学年でも上位に位置していて、第一志望の都立高校への合格は十分射程圏内だった。記憶力と集中力には自信があったし、何より小説を書くことで培った文章力が、現代文や小論文で役立っていた。
「ならいいんだが……桜井くんの作品、今回も楽しみにしてるよ」
田中先生は優しく微笑んで、部室を後にした。
僕は再び椅子に座り、画面を見つめた。『勇者パーティーを追放されたけど』——追放系と呼ばれるジャンルの作品だ。主人公が仲間から追い出されるも、実は最強の力を持っていて、追放後に本領を発揮する。そんなストーリー。
小学六年生から書き始めて、これで二十作目。でも、まだ一度も商業デビューできていない。コンテストに応募しても、いつも一次審査か二次審査で落とされる。最高でも佳作止まりだった。
才能がないのかもしれない——そんな考えが、最近よく頭をよぎる。
***
部室を出て、昇降口へと向かう。
廊下はもう誰もいなくて、僕の足音だけが静かに響いていた。窓の外では、グラウンドでサッカー部が練習している姿が見える。彼らの元気な声が、冬の空気に溶けて消えていく。
「あ、桜井くんだ」
突然、後ろから声をかけられた。
振り返ると、同じクラスの女子生徒が二人、楽しそうに笑いながらこちらを見ていた。一人は佐藤さん、もう一人は山田さんだったと思う。
「こんにちは」
僕は軽く会釈をした。
「ねえねえ、星野さんって桜井くんの幼馴染なんだよね?」
佐藤さんが、目を輝かせながら尋ねてきた。
星野さん——星野瑠璃。僕の幼馴染で、小学校からの親友だった。いや、「だった」という過去形を使うのは正しくないのかもしれない。今でも一応は友達のはずだから。でも、最近は何だか距離を感じる。
「ええ、まあ」
僕は曖昧に答えた。
「すごいよね、星野さん! この前の演劇コンクールで最優秀賞取ったんでしょ? しかも主演で!」
山田さんが興奮気味に言った。
「新聞にも載ってたし、もう次世代のスター候補だって! テレビとかにも出るのかな?」
「さあ……僕にはよく分かりません」
僕はそう言って、会話を切り上げようとした。
でも、彼女たちは話を続ける。
「いいなあ、幼馴染なんて。私も星野さんと友達になりたい!」
「でも星野さん、最近すごく忙しそうだよね。お昼休みもいつもどこかに呼ばれてるし」
「そうそう、この前なんてテレビ局の人が来てたらしいよ!」
二人の会話を聞きながら、僕は複雑な気持ちになっていた。
瑠璃が輝いている——それは嬉しいことのはずだ。幼い頃から一緒に夢を語り合ってきた彼女が、着実にその夢に近づいている。本来なら、心の底から祝福すべきことだった。
でも、僕の胸の奥には、もやもやとした感情が渦巻いていた。それが何なのか、はっきりとは分からない。ただ、瑠璃の活躍を聞くたびに、胸が締め付けられるような感覚があった。
「じゃあ、僕はこれで」
僕は二人に軽く頭を下げて、その場を離れた。
***
昇降口で靴を履き替えていると、またしても人の気配がした。
今度は誰だろうと思って顔を上げると、そこには見知った顔があった。中学の演劇部部長で、生徒会副会長も務める優等生——高橋先輩だ。
「やあ、桜井くん」
高橋先輩は爽やかな笑顔で声をかけてきた。
「今日も遅くまで執筆かい?」
「はい」
「相変わらず熱心だね。その情熱、見習いたいよ」
先輩の言葉には嫌味な響きはなかった。純粋に僕の姿勢を評価してくれているのだろう。でも、次に続いた言葉が、僕の心を軽くえぐった。
「星野も本当に頑張ってるよ。今日も放課後、演劇部で特訓してたんだ。あの子の演技は本当に素晴らしい。見ていて引き込まれるんだよね」
「……そうですか」
「君も星野の幼馴染として、誇らしいだろう?」
誇らしい——確かにそうだ。
でも同時に、苦しくもあった。瑠璃はどんどん高みへと登っていく。一方で僕は、まだ地べたを這いずり回っている。その格差が、僕の心を少しずつ蝕んでいた。
「はい、誇りに思っています」
僕は努めて明るい声で答えた。
「そうか。じゃあ、僕は戻るよ。君も風邪引かないようにな」
高橋先輩は手を振って、校舎の中へと戻っていった。
僕は一人、昇降口に立ち尽くした。外はすっかり暗くなっていて、街灯が点々と灯り始めている。冬の冷たい空気が、僕の頬を撫でた。
ふと、あの日のことを思い出す。
雪が降る夜、展望台で交わした約束。瑠璃の温かい手。きらきらと輝く瞳。「二人とも夢を叶えたら、その時は」という、あの言葉。
あれから三年。僕たちは確かに夢を追いかけている。でも、その速度があまりにも違いすぎた。瑠璃は光の中を走り、僕はまだ影の中でもがいている。
このままじゃいけない——そう頭では分かっていた。
でも、どうすればいいのか分からなかった。
***
家に帰り着くと、玄関から甘い香りが漂ってきた。
母が夕食の準備をしているようだ。リビングからは、テレビの音と妹・つむぎの笑い声が聞こえてくる。温かい家庭の音。それが、少しだけ僕の心を癒してくれた。
「ただいま」
「おかえり、漣!」
真っ先に反応したのは、つむぎだった。
中学一年生の妹は、相変わらず元気いっぱいだ。リビングから飛び出してきて、僕の鞄を持ってくれる。
「今日も執筆? 新しい小説、完成したの?」
「ああ、今日で一応書き終わった」
「すごーい! また読ませてね!」
つむぎは、僕の小説の一番のファンだった。
毎回新しい作品を書くたびに、真っ先に読んでくれる。そして必ず、「面白かった!」と言ってくれる。それが、僕にとって何よりの励みになっていた。
「つむぎ、お兄ちゃんの邪魔しないの」
キッチンから母の声が聞こえた。
「邪魔なんかしてないよー!」
つむぎは口を尖らせて、リビングへと戻っていく。
僕も後を追って、リビングのソファに座った。テレビでは、芸能ニュースが流れている。何気なく画面を見ていると——
「次は、今注目の新人女優、星野瑠璃さんです」
アナウンサーの声に、僕は思わず姿勢を正した。
画面には、瑠璃が映っていた。演劇コンクールで最優秀賞を受賞した時の映像だ。舞台の上で、堂々とした演技を披露する瑠璃。その姿は、まるで別人のように輝いていた。
「星野さんは弱冠十五歳にして、すでに演技派として高い評価を得ています。今後の活躍が大いに期待される、次世代のホープです」
瑠璃のインタビュー映像が流れる。
「夢は、たくさんの人に感動を届けられる女優になることです。まだまだ未熟ですが、一生懸命頑張ります」
画面の中の瑠璃は、謙虚に、でも自信に満ちた表情で答えていた。
その姿を見ていると、胸が苦しくなった。あまりにも眩しすぎて、直視できない。まるで太陽を見上げているような、そんな感覚だった。
「瑠璃ちゃん、すごいね!」
つむぎが目を輝かせて言った。
「お兄ちゃんの幼馴染なんでしょ? 会えるの?」
「……最近は、あまり会わないよ」
僕は画面から目を逸らして答えた。
「そうなんだ。でも、お兄ちゃんもすごいよ! だって、もう二十作も小説書いてるんだもん!」
「書いてるだけじゃ意味がないよ。商業デビューできなきゃ」
「でもきっと大丈夫! お兄ちゃんの小説、すっごく面白いもん! 絶対いつか、瑠璃ちゃんみたいに有名になるよ!」
つむぎの言葉は、純粋な励ましだった。
でも、それが逆に僕の心を重くした。妹の期待に応えられていない自分が、惨めに思えたから。
「ありがとう」
僕は無理やり笑顔を作って、つむぎの頭を軽く撫でた。
***
夕食後、自室に戻って机に向かった。
パソコンを開き、今日完成させた『勇者パーティーを追放されたけど』のファイルを開く。推敲作業を始めようと思ったけれど、なかなか集中できなかった。
さっきのニュース映像が、頭から離れない。
輝く瑠璃。称賛される瑠璃。夢に向かって確実に歩を進める瑠璃。
一方で僕は——
スマートフォンを手に取り、メールアプリを開いた。瑠璃とのメールのやり取りを見返す。最後にメールを交わしたのは、一週間前だった。
『漣、元気? 最近忙しくて、なかなか会えないね。ごめんね』
瑠璃からのメール。短くて、でも気遣いが感じられる文面だった。
僕の返信は、もっと短い。
『こっちも忙しいから大丈夫。お互い頑張ろう』
素っ気ない返事。今思えば、もっと違う言葉をかけるべきだったのかもしれない。でも、あの時の僕には、それしか書けなかった。
瑠璃との距離が、少しずつ開いていく。
それは物理的な距離だけじゃない。心の距離も、確実に離れていっている気がした。彼女は光の世界へ、僕は闇の中へ——そんな風に、別々の道を歩き始めているような感覚があった。
机の引き出しを開けて、一枚の写真を取り出した。
小学六年生の冬、雪が降った日に撮った写真。展望台で、僕と瑠璃が並んで笑っている。二人とも幸せそうで、未来への希望に満ちていた。
「約束、守れるのかな……」
僕は写真を見つめながら、小さく呟いた。
あの日交わした約束。二人とも夢を叶えて、その先で——でも、このままじゃ僕は瑠璃に追いつけない。いや、追いつくどころか、どんどん差が開いていくばかりだ。
焦燥感が、胸を締め付ける。
でも、諦めるわけにはいかない。まだ二十作目だ。これからもっともっと書いて、いつか必ず認められてみせる。瑠璃と肩を並べられるくらい、いや、それ以上の高みに登ってみせる——
そう心に誓って、僕は再びパソコンに向かった。
キーボードを叩く音が、静かな部屋に響く。一文字一文字、想いを込めて打ち込んでいく。これが僕にできる、唯一のことだった。
外では、冬の風が木々を揺らしている。
遠くで、救急車のサイレンが鳴っていた。
そんな音を BGM に、僕は深夜まで執筆を続けた。明日も、明後日も、この先もずっと——諦めない限り、道は続いている。
そう信じて、僕は文字を紡ぎ続けた。
次の更新予定
星降る夜の約束~約束の向こう側へ~ グリゴリ @yokaranumono
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