第2話 ツバキ
「じゃあ数学係、放課後までに全員のノート集めて職員室までよろしくな」
先生はそう言い残して、数学の授業を終えた。
「ねえ、この問題、何だっけ。寝てて聞いてなかったから見せてくんね?」
隣の席のノギがボクに言ってきた。
ノギは調子のいいやつだ。
だか不思議と、嫌な気はしない。
むしろ、色んなところに行って、知らない人にまで助けてもらえる才能さえあると思う。
「またかよ。いいけど。どこ?」
ボクはノートを開いてノギに見せた。
「うわ、マジでありがとう。今度なんか奢るわ」
「言ったな」
ノートを写すノギを見ながら、今まで本当に奢ってくれたのは何回だったか、指を折りたたんで数えた。
多分、10回くらいあった中で5回くらいだろう。
「みんな、そろそろいい〜?持っていくよ」
ツバキの声が教室に響いた。
ツバキは数学係だった。
係決めで、数学係は男子全員がなんとなく嫌がった。
なぜなら、数学係は女子とペアだったからだ。
係で活動するのは学期で分かれていたので、そんなに長い時間一緒にいるのは、親しい人の方がいいと、みんな考えることは同じだった。
そんな中、ツバキは気を使って自分から数学係に名乗り出た。
数学係をやる男子が誰か分かった女子は、嫌だと言っておきながら、心のどこかできっと悪くないと考えていただろう。
女子は話し合いやジャンケンなどをして、数学係になったのは、アケビさんという女子だった。
アケビさんは、他の女子とは違って落ち着いた雰囲気で、ふわふわっとした、いかにも男子にモテそうな人だった。
「ツバキくん、女子の分はもう全員あるみたい」
「そっか。じゃあ、持ってちゃおう」
2人は集めたノートを整理している。
「なあ、まだ終わらない?もう行っちゃいそうだけど」
ボクはノギを見たが、まだノートは埋まらなさそうだった。
「うん、ごめん。あとちょっと」
ツバキの方を見ると、もう教室を出ていくところだった。
2人はなんだかお似合いだ。
ツバキはアケビさんのことをどう思っているのだろう。
ボクでもアケビさんのことは、とても可愛いと思った。
だからきっと、ツバキも少しは可愛いと思っているはずだ。
ツバキに彼女ができたら、ボクは一人でいることが増えるだろう。
お弁当を食べるときも、帰るときも、遊ぶときも。
そんなの、嫌だーーーー。
「よし、できた。ごめん、待たせたな。出してくるよ、お前の分も」
ノギは勢いよく椅子から立ち上がった。
「ちょっと待って、俺も行く」
今から行けば、きっと2人のところに追いつくはずだ。
ボクはノギを置いて走り出した。
アケビさんと話すツバキはどんな顔をしてるのだろう。
ボクといるときと違ったらーーーー。
同じでも、嫌だ。
遠くに2人が並んで歩いているのが見えて立ち止まってしまった。
ツバキがアケビさんに微笑んで、アケビさんが持っていたノートを半分もらっていた。
アケビさんも一緒に笑っている。
アケビさんは、ツバキが何か話すのをツバキのことを見上げながら聞いている。
ツバキはアケビさんの恍惚とした視線に気づいていないようだった。
「あ、いるじゃん」
ノギはそう言ってボクを追い越して2人に近づいて行った。
この光景から今すぐにでも逃れたかった。
ツバキはいつか、アケビさんのような視線を誰かに向ける。
その誰かは、きっとボクではない。
そのことが現実味を帯びて、もう目も耳も塞ぎたくなった。
「渡してきた」
ノギがボクのところに小走りで来た。
「ああ、ありがとう」
「てかさ、あの2人、デキてそうじゃね」
ボクの視線をなぞって、ノギが言った。
「え、なんで」
ノギの言うことは聞きたくないけど、聞きたかった。
「なんでって......、なんか空気?が違った気がする」
「どういう風に?」
「なんとなく、2人だけの雰囲気があるっていうか」
そんなの、ボクとツバキにだってあるはずだ。
「そんなの、誰でもそうじゃない?」
ボクは思わずぶっきらぼうに言ってしまった。
「なんか、怒ってる?」
「いや、別に......」
「............そっか」
Cはボクから離れるように、一歩後ずさりした。
「......うん............」
ボクは人前で不機嫌になる人が1番嫌いだ。
そして、こんな風に口を閉ざして、あからさまに態度に出す人も。
自分がどんどん嫌なやつになっていく。
嫌いになっていく。
ボクの身体を覆っていた溶けたはずの膜は、また硬くボクを覆っていくのが分かった。
「チッ」
ボクはちらっと横目で母さんの方を見た。
「ハア〜〜......」
母さんは自分の箸を用意し忘れていたようで、キッチンの方に戻って行った。
「誰か気づいたら持って来るとかさ、してよそれくらい」
ボクと父さんに聞こえるように言っているみたいだった。
「ごめん」
父さんは母さんの方に顔を向けた。
「ハア......」
父さんの謝罪の言葉は、何の意味も持っていないようだった。
ボクは黙々と夕食を食べることに集中した。
大丈夫。ボクが何もしなくても。
ボクはどちらの敵でも、味方でもないつもりだった。
ただ、この関係をこのまま見届ければいいのだと、一口を噛み締めるたびに自分に言い聞かせた。
「今度の懇談会、おまえが行けよ。こっちも仕事で疲れてるんだけど」
「......うん、今度っていつ?」
「チッ、おまえそんなこと聞いてんじゃねえよ」
「ああ、ごめん。あとで予定表見るよ」
父さんは味噌汁をすすった。
「ちゃんと行って聞いてこいよ」
母さんは汚いものを見るかのように、顔を歪ませて父さんを見た。
「うん、分かった」
父さんは何も変わらない様子で、食事を食べ進める。
「本当に分かってんのか?おまえ、ほんっとに話通じないからな」
母さんは持っていたお椀を大きな音を立てながらテーブルに置いた。
気がついたらボクは息を止めていて、苦しくなっていた。
急に呼吸が始まって、息が乱れた。
父さんは『ごちそうさま』と小さく呟いて食器をまとめて洗い場に持って行き、自分の部屋に行ってしまった。
父さんが、可哀想だ。
なんでいつも、母さんはそんなふうにするのだろう。
父さんが何も言い返さないから、母さんはずっと父さんを傷つけ続ける。
ボクに言われているわけではないのに、ボクは勝手に傷ついて、勝手に苦しんでいる。
これも、ボクが勝手に思い描く家族像とは違うからなのだろうか。
「ごちそうさまでした」
ボクは食器をまとめて洗い場に持って行ったあと、自分の部屋に行こうとした。
すると、父さんの部屋の扉が開いていた。
中を覗くと、父さんが深いため息をつきながら顔をしかめているように見えた。
父さんはボクが見ていることに気がついた。
「ん?どうした」
父さんはさっきまでの顔が嘘のように、いつもの優しい顔に戻った。
「なんでもないけど」
父さんはさっきのことを何も気にしていないみたいに振る舞ったように見えた。
ボクはそんな父さんに無性に胸がムカムカしてきた。
「父さんさ、なんで言い返さないの?」
母さんみたいな言い方になってしまった。
「言い返すも何も、会話は言い返したりしないものだよ」
父さんだって、本当は分かってるくせに。
「会話?母さんが父さんにめちゃくちゃ言ってただけだろ」
ますます母さんみたいになっている自分が嫌で嫌で仕方なくて、どうにもできない気持ちと共に、全身に熱が溜まっていくのが分かった。
「............母さんも疲れてるんだよ」
「でも、昔からそうじゃん。物に当たったり、ボクたちに当たったり」
「............」
父さんは黙ってしまった。
きっと父さんは、母さんにするみたいにボクにも言い返すことを放棄したんだ。
ボクの中にある熱はどんどん溜まっていく。
ダメだ。これ以上、何も言っては。
「父さんがそんなふうだから、ボクもこんなんなんだよ」
「えっ?」
父さんは目を丸くして、ボクの言っていることがまるで分かっていないようだった。
「この家にいるのも、帰って来るのもずっと嫌だったし、ボクがこんな性格なのも、こんな親だからだろ」
こんなこと、言うはずじゃなかった。
「.............ごめんな」
父さんは眉を下げながら、かすれた声で言った。
「もういいよ」
ボクは、喉がキュッと締まって、目頭が熱くなるのを感じ、自分の部屋に逃げ込んだ。
電気をつけず、暗闇に目が慣れないまま、ボクはベットに横になった。
何も見えない暗闇にいると、自分だけが違う世界にいるみたいだった。
ボクは母さんも、父さんも嫌いだ。
そして自分も嫌いだ。
ボクの小さな世界は、雨がかからないように、風で飛ばされないように、どれだけ必死に守っても、すぐに壊れてしまう脆いものだった。
そんな世界なんて、守る価値もないものだからなのかもしれない。
本当は、この世界にボクは必要ないのかもしれない。
ツバキだったらーーーー。
ツバキはきっと、この世界に必要とされ、みんなに求められている人だ。
ツバキみたいになれたら、ボクはこの世界で誰かに雨や風をしのいでもらいながら、生きることができるのに。
ボクは込み上げてきたものをぐっと飲み込んで、目を閉じた。
いつもの集合場所で、ボクはツバキを待っていた。
今は誰とも明るく話せる気分ではなかった。
「ハア」
朝から深いため息をついた。
「おはよう」
ツバキが言った。
「おはよう」
でもいざツバキの顔を見ると、さっきまで心にあった重いしこりが、少し軽くなった気がした。
いつもの通学路を2人で歩く。
「お前、今日の放課後暇?」
ツバキがボクに言った。
「え、あ、うん。暇だけど」
「じゃあさ、サッカーしに行かね?」
ツバキはサッカーのクラブチームに入るほど、サッカーが得意だった。
「サッカーか......」
ボクはスポーツの中で、球技がほとんどできない。
一緒にスポーツをしたら、相手はイライラして一生ボクとはやりたくなくなるだろう。
「大丈夫だって。ボール蹴って走るだけだし」
「蹴って走るだけって......」
「え〜〜......」
ツバキはそう言いながら、耳たぶを触った。
ツバキが何かをよく考えているときの癖だった。
「じゃあ、普通にゲームするとかは?」
「それなら、いいよ」
ツバキは今日もボクの世界を満たしてくれる。
「そういえば、ツバキ今日どうしたの?」
「どうしたって、何が?」
ツバキは学ランではなく、上だけジャージを着ていたからだ。
ボクはツバキのジャージを指差した。
「ああ、これね。朝、目玉焼きのソースこぼしちゃってさ」
「え、大丈夫だった?」
「うん、めちゃくちゃ怒られたけどね」
ツバキはジャージでも様になっている。
ボクがそんな着方をしたら、ただのちんちくりんなのに、ツバキはとても格好良かった。
「じゃあ、放課後。約束な」
ツバキはいつもの優しい笑顔をボクに見せた。
「うん、分かった」
憂鬱だったボクの1日は、ツバキの一言で華やかな色で彩られるだろう。
やっぱりツバキは、昨日までの真っ暗なボクの世界を温かい光で照らし、救ってくれる。
今日の体育の授業は、テニスだった。
ボクの苦手な球技だ。上手くできるはずがない。
毎回ペアになる相手をイライラさせて終わる。
誰ともペアになりたくないが、整列したときに前後になった人同士でペアを組むため、お互いに我慢するしかなかった。
今日はボクのペアは休みみたいだった。
ラッキーだ。
隅の方で適当に時間を潰そうと思っていた、そのときだった。
「お、今日一緒だな」
ノギがボクの方に寄ってきた。
「え、なんで?」
「俺も相手いなくてさ、一緒にやろうぜ」
ノギはボクの肩に腕をぐっと回してきた。
「痛いっ......」
「早く行こうぜ、コート埋まっちゃうし」
「分かったから、離せって」
ツバキならまだしも、誰かと一緒にやる気分じゃなかった。
でもまあ、ノギでよかった。
イライラさせても、ノギならなんだか気にならない。
「はあ〜〜......、腹減った」
ボクがずっと考えている横で、ノギは自分の食べたいものの話を始めた。
ノギはボクが話を聞いているかはひとつも気にしない様子で、ただ自分の話したいことをずっと喋っている。
「ハハッ」
ボクはそれがすごく、可笑しくなった。
「なんで笑うんだよ」
ノギは少し驚いて、おかしな奴を見るみたいにボクを見た。
「なんでもない」
ふと視線を逸らすと、遠くからツバキが少しこっちを見ていた。
でも、いつものツバキとは少し違うように見える。
ボクを突き放すような、困ったように呆れた目をしていたように見えた。
「......ツバキ?」
何度か瞬きをしているうちに、いつもの優しい笑顔のツバキに戻った。
「ツバキ、がどうした?」
ノギはツバキとボクを交互に見た。
「いや、なんでもない」
気のせいだろうか。
ツバキはみんなと違って、今まで絶対にボクのことを違う生き物に接するようには振る舞わなかった。
なのに、さっきのツバキからはみんなと同じそれが、感じられた。
ツバキを見ていると、ツバキのところに駆け寄ってくるサトクガが視界に入ってきた。
サトクガは他の人も連れてきて、ツバキもそのグループにすぐに溶け込んでいた。
すごく、楽しそうだ。
ツバキはサトクガに何か言われて、考えているみたいだった。
ボクも、自分の耳たぶを触った。
やっぱりツバキは、ボクとは違う世界で生きているんだ。
ツバキは優しいから、ボクはつい勘違いしてしまう。
ボクがツバキに向ける思いは、ツバキよりもいびつで、甘くて、重い。
やめよう。
自分が情けなくて、苦しくなるだけだ。
「なあ、お前、なんかツバキみたいだな」
ノギは、首まで詰まったボクのジャージを指しながら言った。
「えっ、たまたまだよ」
自分の心の中をノギに読まれているようで、ボクは咄嗟に、今にも溢れ出てしまいそうな感情を体の深いところに押し戻した。
恥ずかしいあまり、今すぐにここから逃げ出したかった。
「お前ら、いっつも一緒にいるから似てきたんじゃね?」
「そんなことないよ、全然。早く行くぞ」
ボクは短い手足を速く動かして、コートの方へ向かった。
ホームルームが終わっても、ツバキはボクのところに来なかった。
ボクは教室を見回して、ツバキを探した。
すると、ツバキはアケビさんと話していた。
嫌な予感がする。
お願いだから、ツバキ、ボクを遠ざけないで。
背中に冷や汗が流れるのが分かった。
ツバキが話を終えこちらに来るようで、ボクは慌てて視線を逸らした。
「なあ......、本当に悪いんだけど、今日のゲームする約束、また今度にしてもいい?」
「えっ......」
分かっている。これは別にツバキが仕組んだことではない。
「ほんとごめん。なんか、数学係で早くやらないといけないことあるみたいで」
でも、そうだとしても、運までも、ボクの味方はしてくれない。
しょうがないことだ。
ほら、大丈夫って言わないと。
「うん、分かった」
ボクは何も隠そうとせず、今の感情のまま、うなだれた。
「マジでごめん、ありが......」
「ていうか、もうこれからこうやって遊ばなくてもいいよ。一緒に帰らなくていいし、弁当ももう一緒に食べなくていい」
ツバキは、目を丸くしてボクのことを見つめていた。
昨日の父さんみたいに。
アケビさんもすごく驚いた顔をしてボクを見ていた。
「えっ?別に、そんなこと言ってないじゃん」
「だから、ツバキがじゃなくて、ボクが、ボクがもういいって言ってんだよ」
ああ、ボクはもっと1人になっていく。
「もう嫌なんだよ。こうやって振り回されるのも、期待するのも」
ツバキは真っ直ぐにボクを見ていた。
「......分かったよ。じゃあ、明日からもう誘わないし、無理して俺といなくていいよ」
ツバキは眉間にシワを寄せ、ボクを鋭く見たあと、教室から出て行った。
アケビさんも、この状況にどうしていいか分からない様子で、目を泳がせていたが、ツバキを追いかけて行った。
ツバキはどんなときでも、周りに人がいるんだ。
ボクは思わず、鼻で笑ってしまった。
きっとアケビさんは、ツバキを優しく励まし、慰めるのだろう。
そしてツバキは、アケビさんにいつもの優しい笑顔を向ける。
ツバキと、アケビさん。
2人はどこまでも前に進むことができるだろう。
ボクとツバキだったら、前か、後ろか、どこか分からないところに当てもなく進み、途方に暮れるだけなのだろう。
ボクはツバキと、どこに進めるか分からない、もしかするとどこにも進めない道かもしれない、そういう道を一緒に進みたい。
でもそれは、ツバキがそれを選ばない限り、できないことだ。
そしてツバキは、きっとそれを選ばない。
ボクはいつも、自分が抱きたい感情と、そうでない感情がごちゃごちゃに混ざる。
ボクがおかしいのだろうか。
この世界で生きるということは、多分、持つことが正しいとされる感情と、間違いとされる感情がある。
ボクはいつも、自分の考えとは裏腹に、間違った感情を、相手に伝えてしまう。
間違えてばかりだ。
正解が分からない。
それでもただボクは息をして、苦い空気でも、まずい空気でも、吸うことしかできない。
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