ボクは椿を離せない
@malumiee
第1話 ボク
ツバキは、ボクが暗闇の中で立ち止まっているとき、いつもボクの光となって道を照らし、世界に咲く花がどんなに美しいもので、それをどうやって探せばいいのか、教えてくれた。
もし、ツバキがボクからいなくなってしまったら、ボクはどうやって生きればよいのだろうか。
いや、生きることなんてできるのだろうか。
「おはよう」
コーヒーを片手に新聞を読んでいる父さんは、目覚めたばかりで、まだ目がよく開かないボクの方をチラッと見て微笑んだ。
「おはよう」
ボクも父さんに微笑み返した。
「ねえ、おまえそれで間に合うの?」
『おまえ』とは、母さんが父さんを指すときに使う言葉だ。
「うん、これを飲んだら行くよ」
父さんは顔色一つ変えない。
それが当然かのように。
父さんは鞄を持って、玄関に向かった。
時計の針の音が部屋にこだまするように、『行ってきます』と言い、家を後にした。
「ボクも早く学校行かないと」
本当は、今からゆっくり準備しても、まだ時間が余るほどだった。
「ああそう。気をつけて」
母さんは、ボクに振り向くこともなく、洗い物をしていた。
「うん、行ってきます」
ボクはどうすればいいのか。どうすればよかったのか。
あの家から離れると、心臓に込めていた力が抜ける。
その隙を突いて、取り止めのない考えがまた、心臓をぐっと掴んだ。
朝はいつも、憂鬱という沼にボクを引きずり込む。
気がつくと、ボクは自分の前にある景色よりも、左、右と、交互に出てくる足ばかりを見ている。
「よっ」
「うわ、びっくりした」
ボクは背中を強く叩かれて、一気に沼からこの世界に引き戻された。
「ごめんごめん。でもおまえ、ぼうっとしすぎだろ」
「ツバキには関係ないだろ、別に」
「なんだよ、本当は嬉しいくせに」
ツバキはボクの頭をくしゃくしゃっとした。
ボクはついツバキに甘えて、ツバキを突っぱねてしまう。
ツバキと初めて出会ったのは、中学1年の入学式だった。
ボクは教室の自分の席で、ただじっと、机に刻まれたキズを見つめていた。
突然、教室の雑音が大きくなった。
顔を上げると、みんなはある一点を見つめている。
その視線をたどると、引き込まれるような美しさを持った、圧倒的な雰囲気を纏っている人間が、あった。
それが、ツバキだった。
ボクはツバキから目が離せなかった。
ツバキがなぜか、こちらへ向かってくる。
「......何?」
ツバキはボクと目を合わせて眉をひそめ、少し微笑んだ。
「ああ......、いや」
ボクの止まっていた脳みそは、急に動き出した。
そして、なんの締まりもなく口が開いて、頼りない目をした自分を想像し、すぐにツバキとの時間を終わらせたくなった。
「俺、席前みたい。ツバキって言うんだ」
「ああ、そうなんだ。よろしく」
「うん、よろしく。ねえ、名前は?」
それからボクとツバキは、中学3年生になった今も、弁当を食べるときも、移動教室のときも、帰るときも一緒だった。
いつもツバキの隣にいるボクは『もしツバキだったら』と、考えるようになった。
ツバキがテストで98点をとったとき、ボクは32点だった。
ツバキが体育でシュートを決めたとき、ボクは体育館の隅で膝を抱えて座っていた。
でもツバキは、どんなときでもボクに手を差しのべて、一緒に笑ってくれた。
だからツバキとどんなに一緒にいても、ボクは傷つかなかった。
「あ、ツバキじゃん」
ボクの苦手な代表的な人種の1人、サトクガが手を振ってこちらに歩いてくる。
サトクガは、人よりも階段を一段でも高く上がっていたいような人間だ。
多分サトクガにとってツバキは、階段を何段上っても、一緒の高さには追いつけない存在だと分かっているのだろう。
だからせめて、自分の見えるところに置いておきたいと思っているのだろう。
もしくは、ツバキと一緒にいることで、自分もツバキのようになれるとでも思っているのか。
サトクガはボクのことを、何段も下にいるような眼差しを向けてくる。
ボクも負けじと、そんなあいつを引きずり下ろすような眼差しを向けた。
「なんか、お前の顔怖いぞ」
ツバキがサトクガよりも先に気づいてしまった。
「そうかな?」
ツバキがボクのことを見ておかしそうに笑っていたから、ボクも思わず笑ってしまった。
「なあツバキ、俺らトウ先生に呼ばれてんじゃん」
サトクガは、ボクとツバキの空気を断ち切った。
「あ、そうだった」
「早く行かねーと。ほら、行くぞ」
サトクガはツバキの腕をぐっと掴み、校舎へ向かって行った。
「分かったって。ごめん、また教室で」
ツバキの身体は、サトクガに主導権を握られていた。
それを目の当たりにした一瞬で、喉が詰まって上手く息が吸えなくなった。
「うん、また後で」
そう言いかけたとき、ツバキたちはもう行ってしまった。
ボクの声はきっと届いていないだろう。
ツバキはボク以外にも、たくさん友達がいる。
ボクはツバキだけを、友達だと思っていた。
でもボクは、ツバキとの間に特別な何かがあると感じていた。
ツバキはボクに最初の一口をくれるし、放課後はツバキからボクの方に寄ってくる。
ツバキの一部として、ボクがいる。
それでボクは満たされた。
なのに、どれだけツバキで満たされても、ボクはどんどん苦しくなっていく。
息を吸っても肺に穴が空いたように、空気が漏れて、肺が空気で満たされることはない。
酸欠で頭がクラクラする。
ツバキのこと以外、考えられなくなっていく。
黒板近くのドアから教室に入ろうとすると、みんなの視線が一気に集まる。
だから、いつも後ろのドアから気配を消して入る。
誰とも挨拶なんて交わさない。目も合わせない。
必死に自分の身体に透明の膜を張って、ボクはボクを守っている。
教室にいると、ボクは独りだということが、冬の冷たい風が肌を刺すように分かった。
昔から、どこにいても居心地が悪かった。
どこか1つでも、ボクがボクでいることを許してくれる場所が欲しかった。
もしかすると、場所のせいではないのかもしれない。
本当は全部ボクのせいで、ボクがみんなを不快にさせているのかもしれない。
クラスメイトも、母さんも。
母さんはいつも不機嫌だ。
特に父さんには、過去に1度でも好き同士だったとは思えないほどに、鋭い嫌悪感を向けている。
ボクはそれを感じるたびに、透明な膜を身体に張って、まるで水の中にいるみたいに聴覚を鈍らせる。
ここはなぜ、こんなにも荒々しい世界なんだろう。
みんな、平気で笑っている。
ボク、だけ?
ボクがヘンなのか。
もっと、ボクが普通だったらーーーー。
「おーい、また暗い顔してんな」
「......っ、そんなこと......」
ツバキは俺の頭をコツンと叩いた。
「なんかあった?」
「え......」
まっすぐな目でボクを見ているツバキ。
ボクを覆っていた膜は、ツバキの優しい声で簡単に溶けていった。
「ツバキはさ、なんでいつも、そんなにすごいの?」
「え?どういうこと?」
ツバキは綺麗な顔をくしゃっとさせて笑った。
こんな顔されて、落ちない人はいないだろう。
「俺、すごいかな?」
「うん、すごい。ボクもツバキみたいになりたいと思うよ」
切実だった。
今にも引きちぎれそうな心臓に気づかないようにして、笑顔を作ってみせた。
「............俺は、そのままでいいと思うけど」
ツバキは何も驚くことなく、いつものように笑ってみせた。
ボクはホッと肩に入っていた力が抜け、肺は空気で満ちていった。
「うん......、ありがとう」
ボクは嬉しさを隠すあまり、口元が引きつって、またキモくなっていたかもしれない。
そんな考えがよぎって、余計にまごついてしまい、ツバキから目を逸らした。
「何だよ。俺まで照れるじゃん」
ツバキは手に顎をのせ、窓の方に顔を逸らした。
ボクの目は窓から陽の光に照らされるツバキの横顔に止まった。
顎のライン、耳の形、伏目がちの目、長いまつ毛、スッと通った鼻筋、唇。
本当に絵になる綺麗な顔立ちをしている。
ボクはどんどん早く脈打っていく心臓を抑えるように息を呑んだ。
「ツバキ」
「ん?」
ボクが名前を呼ぶと、ツバキはボクの方を向く。
ツバキだけがボクの居場所でいてくれる。
また、ツバキから離れられなくなった。
「ただいま」
ボクは玄関の扉を閉めた。
「おかえり」
「えっ......」
母さんが、ボクに返事をした。
こんなのいつぶりだろうか。
「何?とぼけた顔して」
「いや......」
母さんはいつもと変わりない様子でソファに座り、テレビを観ていた。
ボクもいつも通り、自分の部屋に行こうとした。
「今日さ、父さんの誕生日だからケーキ買って来た」
「えっ、そうだっけ」
「え、そうじゃなかったっけ?」
「急にどうしたの?」
母さんが家族サービスなんて、記憶では小学校の低学年くらいで止まっていた。
「いや、別に」
何だか母さんの話し方はフニャフニャしていた。
「あ、お酒飲んだでしょ」
母さんのそばにボクに隠すように置いてあるビール缶が見えた。
「これはまあね。ボーナスがちょっと多かっただけ」
母さんはもう隠すことなく、ビールをぐびっと飲んだ。
母さんは、ビールとお金でこんなにも気分良くなるのだと思うと、自分が煮詰まって考えていたことが少しだけ蒸発して軽くなった気がした。
『............俺は、そのままでいいと思うけど』
ふと、ツバキが言ったその言葉を思い出した。
そのままでいいーーーー。
ボクがそのままでいても、人は勝手に変わって、勝手にこの世界を生きていくんだ。
ツバキはまた、小さくて息の詰まるボクの世界を少しだけ涼しく、温かくした。
「お酒もほどほどにしたほうがいいよ。父さん来るときにはケーキ食べれなくなるし」
「はいはい。早く帰って来ないかな」
「ハハッ」
「何笑ってんの」
「何でもないよ」
ボクは母さんのいつもと違うヘラヘラした話し方がすごく可笑しくなった。
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