第26話 中華料理店 其の一 醤油ラーメン

「おいしいー!」

 ラーメンの汁を一口含んだ由衣と大樹は思わず声を上げると、

「ほんと! やったー!」

 宮川友美みやがわともみは飛び上がって手を叩いた。

 友美は由衣の小学校と中学校のときの同級生。二人は仲が良く、今でもときどき誘い合って買い物に出かける。

 友美の両親は中華料理店を営み、商店街から離れていて立地は良くないが、醤油ラーメンが美味しいとの評判で、そこそこ繁盛していた。

 そこへ突然の不幸が訪れた。二週間前、友美の母が階段から転落して頭を強く打ち、亡くなったのだ。

 店を切り盛りしていた妻が突然いなくなり、友美の父の落ち込み様は酷く、廃業を考えた。

 そこで友美は自分が母の代わりに働くからと父親を説得し、通っていた料理学校を辞め、父親を励ましつつ必死になって準備し、本日、営業再開にこぎ着けた。

 大学の後期が始まり、最初の土曜日が営業再開初日で、由衣は大樹を誘ってこの店に入った。客足が遠のく午後二時、客は由衣と大樹の二人だけだ。

 ラーメンを食べ終えた由衣が友美に聞いた。

「友美、さっき、あんなに喜んでさ。友美がスープ作ったの?」

「違う違う! 仕込み手伝ったけど、いつもの通りお父さんよ」

「じゃあ、何でさっきあんなに喜んだの?」

「それは…… まあ、あとでね」

 友美は厨房にいる父親にチラッと視線を向けた。


「オヤジ、いつまでそんなまずいラーメン作ってんだ。てっきり店やめるって思ってたのによっ!」

 ゲスっぽい声を放ち、男が店の奥の扉を開けて出てきた。友美の兄、慎一しんいちである。

「お兄ちゃん、お客さんの前でなんてこと言うのよ!」

 友美が怒気を含んだ声を上げるが、父親は聞こえない振りをしているのか、黙々と料理の下準備をしていた。

「ラーメンとっても美味しかったわよ。以前と変わらず、いや、前よりスープの味に深みが増しています」

 由衣が口に出すと、大樹も同意した。

「僕もこんなに美味しい醤油ラーメンは今まで食べたことがありません」

 慎一はせせら笑った。

「アハハハ、舌の肥えてねえガキが褒めても意味ねえんだよ」

「あたしの両親も兄達も美味しいって言っているし、父の友人でホテルオーロラの料理長も美味しいって言ったとのことです」

 由衣が反論すると、慎一はイラついた顔を見せた。

「そうかよっ! あそこにいるのがボケねえうちに、せいぜい食っておくんだな」

 慎一は厨房の父親を顎で指し、捨て台詞を放って店の出入り口に向かった。

 友美は慎一の後ろ姿を睨み付ける。

 店を出た途端、「この野郎!」と慎一の怒鳴り声が聞こえた。

 友美は、由衣達の傍に来て頭を下げた。

「お騒がせしてごめんなさい」

 由衣は軽く首を振り、代金を渡しながらこっそり言った。

「いいのよ。さっきの件、理由がわかったような……」

「由衣には隠せないわね」

「でも、今の怒鳴り声は誰に対して? 大丈夫?」

「たぶんカラスにフンをかけられた。前からあいつ、カラスを目の敵にしていて、投げた石がたまたま当たって殺したこともあった。それ以来、カラスはあいつを着け狙っているの」


 友美と慎一は血が繋がっていない、慎一は友美の父、敬一けいいちの病死した前妻の連れ子だ。敬一が四十九歳のとき、当時三十九歳の友美の母と再婚した。一年後、友美が生まれた。現在、友美の父は六十九歳、慎一は三十一歳、友美は十九歳で、友美の母は享年五十九歳だった。

 高校卒業後、友美は料理人を目指して料理学校に通っていたが、今後は厨房と客席を行き来する多忙な毎日を送ることになる。

 慎一は大学で応用化学を専攻し、関西の化粧品メーカーに就職した。二十八歳のとき結婚したが、婚姻前から続いている二股がバレて一年も持たずに離婚。その後、長い間、薬品等の購入費を会社に割増請求して私腹を肥やしていたのが発覚した。会社は外聞を憚って刑事告発を見送り、慎一は解雇された。

 実家に帰った慎一は、職を探すでもなく、店を継ぐ気もなく、フラッと家を出て夜遅く帰ったり、帰らなかったり、不規則な毎日を送っていた。


 慎一と入れ替わりに爽やかな感じの背の高い若い男が入って来た。

「いらっしゃいませ」

 友美が一瞬、目を輝かせたのを由衣は見逃さなかった。

「お店が再開して嬉しいです。いつものお願いします」

 男は席に着きながら丁寧に頼み、友美は頭を下げた。

「ありがとうございます。承知しました」

 友美は厨房に向かって声を掛けた。

「醤油ラーメン一丁」

 男は汁を一滴も残さずに食べ終え、代金をテーブルに置いた。

「美味しかったです」

 男は一言洩らし、つかの間、友美に顔を向けて清々しい笑みをごぼした。

 友美が店を出るまで男の後ろ姿を見送ると、由衣が声を掛けた。

「ねえ、今の人、松風しょうふう旅館の息子さんでしょ? お母さんのお葬式で見かけたような気が」

「そうよ。由衣は気にならかったみたいだけど、小・中学校ではカッコ良よくて凄い人気だったじゃん。こっちに帰ってから週一回は店に寄ってくれる。母の葬儀にも来てくれた」

「好きなんでしょ?」

「ええ、まあ」

 友美は頬を赤く染めた。

 男は天池蒼真あまいけそうま、二十一歳、隣町で両親が営む旅館の長男で、群馬県の温泉ホテルで働いていた。この春、父親が軽い脳卒中を患ったのがきっかけでホテルを辞め、今は両親と一緒に旅館経営をしている。

「きっかけがないのね?」

 友美が頷くと、

「自分で作らなきゃ。チャーシューや煮卵、サービスするとか」

 由衣はしたり顔で応え、大樹に顔を向けた。

「大樹、男ってそういうことしてもらうと、すっごく嬉しいもんよね? ん! …… このガキンチョ!」

 大樹は居眠りをしていた。


 友美は由衣の向いの席に着き、義兄の話を切り出した。

「あいつ、父に料理不味いとか、ボケて味音痴になったとか、そのうち食中毒起こすぞとか、いろいろ酷いこと言っているの。母がいるときは返り討ちにあうから、言わなかったけどね。で、さっきは味落ちてないって確信して喜んだの。多分あいつ、店を廃業させたようとたくらんでいる。父をボケさせて、できないまでも本人にそう思わせて。蓄えは多少あるから、アパート建てるとか、なんか魂胆があると思う」

 由衣は声を荒げた。

「腹立たしいわねっ! その通りよ。きっと」

 由衣の声で目を覚ました大樹は、すぐに事態を把握した。

「お母さんが亡くなったのは、どういう状況だったのですか?」

 友美は、大樹に引き締めた顔を向ける。

「あたしは、そのときは料理学校に行ってました。母は洗濯物を二階のベランダに干し終え、階段を降るときに踏み外して転落したそうです。父が救急車呼んで病院に運ばれたんだけど、相当強い衝撃だったようで、あたしが病院に駆けつけて六時間後に亡くなりました。警察の話では、母は、大きな洗濯籠を抱えてて下が見えなかったのではないかって。でも、母は十年以上毎日やっていて慣れているはず。納得できないんです」

 友美の目は涙で光っていた。

「お兄さんは、そのとき家に居ましたか?」

義兄あには、母が階段から落ちる前に、外出したと父が言ってました。でも、戻ってきたと思います。父が裏口の鍵を掛けたのに、帰ってきたら掛かってなかったと言ってましたから」

「悲しいこと思い出させてしまって申し訳ないです。できれば、お母さんが転落された場所とベランダを確認したいのですが?」

「母が亡くなって二階はまだ散らかったままだし、あたしの下着が干してあるし、今日のところは……」

「問題ありません」

 友美が困惑した顔を見せると、由衣は肩をすくめた。

「この子、天然だから人が恥ずかしいと思うこと理解できないの。ごめんね」

「この子って、由衣って大機君のお姉ちゃんみたい」

「あら! つい…… この子、とっても頭が良い反面、社会常識がね」

「また言った! アハハハハ」

「あっ!」

 大樹は口を尖らせていた。

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