第8話 非常階段 其の一 猫のお仲間
「どうもごちそうさまでした」
高見沢家の玄関で、大樹が礼を言うと、美代子は顔をほころばせた。
「どういたしまして。由衣の勉強見てくれて、里芋もたくさん、ありがとうございます。これを機に、ちょくちょくいらしてくださいね」
「大樹、行くわよ」
由衣がサンダルを履き、大樹の手を取って玄関ドアを開けた。
「どこ行くのよ?」
「コンビニ」
由衣は一言返すのみ、頭を下げる大樹を引っ張って出ていった。
「また大樹君のとこに入りびたるんでしょ! 長居しちゃダメだからねー」
「まったくー」
美代子がぼやきながらダイニングに戻って来た。
「由衣がまた何かやらかしたか?」
対して由衣の父親、高見沢
「いえ、もっと居て欲しかったのに由衣がね…… 大機君がいるとなんとなく気分が良くなるのよね」
「うん、まだ飲めないのが残念だが、今日の酒は旨い」
「確かに。由衣が茶化して笑いが絶えないが、それだけでは説明出来ない」
康太も同意し、由衣の次兄・
「彼は、心地よく感じるよう相手を観察して感情を捕え、言葉ではなく、表情や仕草でコミュニュケーションを取っていると思う」
康史は二十四歳、背が百八十センチ超の、知的な印象を与える整った顔立ちの青年である。大学院電子工学科修士課程を終えた康史は、この春、経済産業省に入省した。現在、研修中で配属先は未定である。
美代子が首を捻った。
「でも、大樹君は子供っぽくて空気読むのが苦手。たまに変なこと言って由衣がフォローする。矛盾しない?」
「それは、彼の振る舞いは本能的なもので、彼自身意識してないからじゃないかな。人類は言葉を発達させた反面、そういった能力を退化させてしまったと、何かの論文で読んだ覚えがある」
康太が何度も頷いた。
「なるほど! 犬猫同様、一緒に居ると癒されるってことだ」
美代子は傍に寄って来た寛太を抱きかかえた。佐藤家の飼い猫だった寛太は高見沢家に引き取られた。
「そういうことね! お前、お仲間ができて良かったねー。さっきは大樹君ばっかりにスリスリしていたもんねー」
なんともはや、大樹は”猫のお仲間”にされてしまった。
しばし、話題が変わりながら宴会が続き、皆、酔いが回った。
「わしは、サヴァンだろうが大樹君に偏見は持ってないぞ。むしろ由衣はいい相手を見つけたと思ってる。それだけに心配なんだか、間違いが起きなきゃいいが」
「大樹君に限ってそれはないわ」
美代子は不定するが、それは対象が違う。康太が確かめた。
「いや、父さんは由衣の方を心配しているんだろ?」
「そうだよ」
宗一は当たり前のように言ってのけた。
「父さん、大丈夫さ。仮に由衣が迫っても、彼は何とかしてその場を逃げる」
「兄貴、その光景を想像すると笑っちまうんだが。ブッ」
康史が吹き出して皆がそれぞれイメージを膨らませていると、由衣がぶつくさ言いながら帰って来た。
「寝ちまいやがんの…… はあー…… 大樹はガキ……」
「アハハハハ」
「なによっ! みんな笑い出してー」
五月も半ばが過ぎた。大学の帰り、例の如く大樹のアパートに立ち寄った由衣は、大樹の様子がいつもと違うことに気付く。
大樹はスケッチブックに音を立てて何かを描き殴っていた。
由衣が後ろから覗いた。
「この男の人、今日、食堂で見たよね。背が高くイケメンだけど、なんか引っかかるもんがあったなー」
「由衣もそう感じたんだ」
大樹は描いたばかりのイラストをスケッチブックから切り離し、丸めてゴミ箱に捨てた。
「どうして捨てちゃうの?」
「気分が悪くなるから」
翌日、深夜から明け方にかけての激しい風雨は治まり、朝日で新緑が輝く。
大学に着いた由衣と大樹は、通い慣れた建物の周りに規制線が張られ、警察官が立っているのを目にした。
由衣は、大勢の野次馬の中に上田美穂と橋田和也を見つけ、大樹の手を引いて駆け寄った。
「美穂、何があったの?」
「あら、由衣。大変なことが起きたの。なんでも医学部三年の沢木さんって女子学生がね。建物から転落して亡くなったのよ。それで警察が捜査中なので今日は全科目休講だって」
「えーっ! 事故? 自殺? それとも……」
腕を組んで眺めていた和也が振り向いた。
「まだ分からないって」
大樹は規制線ギリギリまで近付き、身を乗り出してあちこち眺め回した。さらに建物の裏手に向かったので、由衣は美穂と和也に肩をすくめて見せ、仕方なく着いて行った。
そこにも規制線が張られて警察官が立っている。先程と同様に大樹は身を乗り出し、建物を中心に辺りを見回した。
「君、それ以上近づいてはダメだよ」
警察官に注意されたが、大樹は非常階段の下の芝生の辺りをじっと眺め、僅かに頭を下げる。そして察官官の方に顔を向けて礼をした。
警察官が敬礼を返すと、由衣は大樹の手を引いた。
「もういいでしょ」
二人が大樹のアパートに帰ると、大樹はすぐにスケッチブックに色鉛筆で二枚のイラストを描き上げた。一枚は、赤いフレームのメガネをかけた弾ける笑顔の沢木さんのポートレート、大樹の記憶に残る映像だ。もう一枚は、大樹がじっと眺めていた建物の裏手、非常階段とその周辺の光景である。
腕を組んで机の上のイラストを眺めている大樹の両肩を、由衣が揉んだ。
「お疲れ。もしかして亡くなった沢木さん?」
「うん」
「食堂とかで見かけて覚えているのでしょうけど、その人が、どうしで沢木さんってわかったの?」
「彼女が持っていたノートの表紙に(医学部 沢木愛)って書いてあった」
「ふーん、そんなことまで覚えているんだ。で、こっち絵の非常階段の辺りを、大樹はじっと眺めていたよね?」
「うん、この辺に沢木さんが倒れていたと思う」
大樹は非常階段の下の芝生に指を置いた。
「なんでわかるの?」
「芝生の具合」
「なんで描いたの?」
「後で役に立つかも知れないから」
由衣は何のことか理解できなかった。だが、それ以上聞くのは止めた。聞いても益々混乱するか、いらぬ心配を抱えることになるからだ。
夕刻、テレビに次のニュースが流れた。
本日午前六時頃、埼玉医療大学構内で医学部三年の
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