第7話 残像 其の三 瞳の中
入学から一月近く、新入医学生らは入学時のウキウキした気分はとうに吹き飛び、みっちり詰まった講義と、しばしば課されるレポートに目が回るような毎日を送っている。
いや、一人だけ違った。大樹である。彼は講義中ノートを取らず、ボーッと黒板を眺め、ときたま鋭い質問を投げ、ときには若い講師を困らせた。大樹は講義の内容と使用される資料を全て記憶し、理解していた。
由衣は大学の帰りに大樹のアパートに立ち寄る。大樹は帰宅すると、その日、印象に残った光景や人物のイラストを描く。由衣はまず洗濯籠や押し入れに洗濯物がないか点検する。そして、大樹に確認しながらノートを整理する。二人の日課だ。
いつも一緒に行動する由衣と大樹、二人はクラスの誰もが、付け入る隙の無いカップルと見なした。それでも社交性の高い由衣の周りには女子学生が集まり、たわいのない世間話で盛り上がる。
大樹の周りにも学生が集まる。講義で理解できなかった事や聞き逃した事、レポートの相談など、彼に聞けば丁寧に答えてくれる。そんな打算的な理由だけではない。彼の傍は、まったり出来て居心地がよいと誰もが感じていた。
そんな二人だから、昼食時は自然と二人の座る席にクラスメイトが加わる。
連休の谷間の今日、取り分け仲の良い、実家が長野県安曇野市で現役入学の
「土曜日さ、由衣んちの近くで事件があったでしょ?」
と美穂が質し、続けて和也がスマホに表示された写真を見せた。それはSNSに投稿されたものである。
「でさ、福光、救命処置しているの、お前じゃない? 傍にいるのは高見沢さんでしょ?」
由衣は事も無げに答える。
「近くじゃなくて一駅先よ。二人で映画を見に行ったの。この写真、確かにあたし達」
「やっぱり! 何があったの?」
二人は興味津々の様子で答えを待った。
「あの……」
由衣は横の大樹の太ももを軽く叩いて制した。
「映画館のチケット売り場に並んでいたら、外から騒ぎ声が聞こえて、出たら人だかりの中に男が倒れていた。二人で救命処置をしたの」
美穂と和也は顔を見合わせ、美穂が続けた。
「何で倒れていたの?」
ニュースでは、毒物・薬物による心臓発作とは、発表されていない。
「あの……」
大樹がまた答えようとしたので、由衣はまた大樹の太ももを軽く叩いた。
「それは、わかんない」
由衣はしらを切った。まだ不確実なことなので話したくなかったのだ。
「あの……」
由衣はまた太ももを叩いたが、大樹は、今度は止めなかった。
「他に写真や動画はありますか?」
「俺が見たサイトでは顔が映っているのは無かったな」
「大丈夫、顔がくっきり見えるのは無かったわよ」
和也と美穂は、大樹が自分の顔が映ってないか気にしていると勘違いした。
「全部送ってくれますか?」
「わかった。見たのは全部送るよ」
「あたしも送るから。クラスのみんなにも言っとくね」
「福光はアカウント持ってないのか?」
「はい、一つも」
由衣は首を捻った。今時、SNSをやらない若者は珍しい。あまりやらない自分でさえ、アカウントは幾つか持っている。大樹は無口だと思っていたが、そうでもない。何か言いたそうに口が曲がることがよくある。
帰り道で由衣は大樹に質した。
「ねえ、なぜSNSやらないの?」
「誤解されるようなこと、書き込みそうだから」
「思った通り。でも、ストレス溜まるから、あたしにはもちろん、あたしが居るときは、誰にでも言いたいこと言いなさいね。フォローするから」
「わかった。ありがとう」
しかし、考えが甘かった。その後、由衣は苦労することになる。
事件から一週間経った振替休日の月曜日、歩行者デッキで死亡した江口氏は、何者かにパラチオンを注射されたと、ニュースに流れた。
パラチオンは国内では販売停止された農薬で、強力な神経毒と周知されている。注射されると中枢神経系に重大な影響を与え、心臓発作や呼吸不全を引き起こす。
その日の午後、由衣と大樹は大樹のアパートで昼食後のひと時を過ごしていた。最近の二人は休日で外出しないとき、昼食は大樹のアパートで済ます。たいてい由衣が残り物を持って来るか、簡単な料理を作る。
「お兄ちゃんの話だと、捜査難航しているみたい。大樹の描いた男、犯行前にも後にも、防犯カメラに映ってなかったって。大樹の絵、信用できないって言う捜査員もいるらしい」
不機嫌な顔を見せる由衣に大樹は上の空、黙々と美穂と和也が送ってくれた写真と動画をパソコンで見ている。
「僕達の画像ばかりで、肝心なものはなかった」
「腹立たしい。もう協力することないわ…… えっ! 肝心なものって何よ?」
「被害者の後ろにいた男」
大樹はうつむき加減で軽く首を捻る。目の焦点は定まらず、何か必死に考えている様子だ。
由衣は後ろから大樹の肩を両手でそっと包み、首を回し込んで視線を送る。
「大樹、もういいのよ。大樹は責任を感じることないんだからね」
大樹は由衣の目を見詰め、二人の顔は少しずつ接近する。
「あっ!」
由衣が目を閉じると、大樹は大急ぎで机の中からA3ノートを取り出す。
キスする展開と思い込んでいた由衣は、腹を立て「このガキンチョ」と呟いた。
大樹は凄い勢いで色鉛筆を走らせ、見る見るうちに男の上半身が描き上がった。黒のニット帽に黒のジャケット、マスクを付けて目が笑っていた。
「えっ! こいつ見た」
由衣が声を立て、大樹が振り返る。
「いつ、どこで?」
「AEDを持ってきて大樹に声かけたときよ。下りのエスカレーターに乗ってマスクして嫌らしい目付きで一瞬こっちを見た」
「やっぱり…… こいつ被害者の後ろにいた男だよ。耳タブの形が一緒」
「耳たぶの形が同じって…… さすが! 犯行後に服装を変えたのね。大樹はいつどこで見たの?」
「由衣と同じだよ。由衣の瞳に映っていた」
「えぇぇ―! あたしの目に映った光景を記憶していたってこと?」
「うん」
「アハハハハハ…… ごめん、凄すぎてつい笑っちゃいました」
大樹の描いた絵は由衣がスマホで撮影し、康太に送った。
康太は捜査一課長に苦言を添えて転送した。
(犯人は犯行の前後で服装を変えている。福光大樹君の絵は信用に値する。くれぐれも粗略に扱わないように願います)
警察は犯行現場周辺の防犯カメラの記録を調べ直した。結果、歩行者デッキの下のタクシー乗り場付近を歩く、大樹の絵とそっくりの服装の男を見つけた。さらに事件当日の大宮駅西口のデパート付近の防犯カメラに、マスクを外した同じ服装の男を発見した。
男の人相から二年前に窃盗容疑で逮捕した男と同一と判断された。男は、
警察は岩崎の自宅アパートに急行し、任意同行を求めた。岩崎は事件現場近くに行ったことは認めたが、江口氏の殺害は不定し、一旦解放された。
二日後、岩崎に再度任意同行を求め、取調官は音声データ付きの事件現場周辺の動画を流した。死角になっているので岩崎と江口氏は映ってなかったが、「イテッ」と「思い知れ! ざまあ」という音声が流れた。「イテッ」は江口氏、「思い知れ! ざまあ」は岩崎が発した声だった。
厳しく追及され、岩崎は自白した。
さらに翌日、岩崎の供述から岩崎に殺人を依頼した人物、
鎌田と被害者の江口氏は、同じ会社に勤務していた。
その会社は、中国、韓国、東南アジアから食品・食材を輸入販売する商社である。鎌田は輸入担当部長で、江口氏は経理担当の主任だった。
康太は防犯カメラが集音装置付きだと気づいた。科捜研で二台の防犯カメラの録音データを音声処理し、喧騒の中から江口氏と岩崎の音声を抽出・増幅した。抽出に必要な岩崎の声は先日の取り調べから、江口氏の声は会社のテレビ会議記録から得たものだ。
鎌田の供述は以下である。
二年前に江口に輸入代金横領の証拠を握られた。以来、度々金銭を要求された。江口は他の社員の弱みも握って金を脅し取っているらしい。役員に昇進の話も出ており、一生脅され続けるのが我慢できず、江口の殺害を決意した。
共謀して横領をやった輸入先の担当から、国内では入手困難なパラチオンを手に入れ、報酬二千万円で江口の殺害を岩崎に依頼した。
岩崎は自分の部下だった。二月前、飲み屋で偶然会った。三年前、岩崎は住所を偽り、通勤手当を不正受給していたのが江口にバレてしまった。大した額じゃないと庇ったが、交通費や備品購入でも不正を指摘され、表向きは自己都合にしてもらったが首になった。同僚の彼女も江口に取られ、アルバイトで食い繫いでおり、今も江口を恨んでいる。
そこで大金を示し、よければ会社に戻るのも、取引先への紹介も可能だと誘った。人混みの中で実行すれば目撃されにくい。まずは江口の行動を探り、適切な場所と時間と防犯カメラの位置を把握して報告するように指示した。
報告を受けて実際に見に行き、決行する場所と日時を決定した。パラチオンと注射器を岩崎に渡し、万一目撃されたときに備え、マスクを着け、犯行直前・直後に俺が用意する服装に変えろと言った。
決行の日、駅の個室トイレで着替えを用意して岩崎を待った。岩崎と交代後、カフェで見張り、江口の到着をトイレで待つ岩崎に知らせた。その後、モールのトイレで着替えを用意して連絡を待った。岩崎との連絡はチャットでやった。
実行役の岩崎は次のように供述した。
大金を手に入れながら江口に復讐できるので鎌田の話に乗った。鎌田から前金の二百万を貰った。鎌田が人込みの中でやればバレないと言ったので、江口を付け回して適切な場所を探した。
江口は休日の十時前、歩行者デッキの人混みを通って手作りパン屋に行く。そこで周りの防犯カメラを確認した。以上を鎌田に報告して決行する場所と日時が決まった。
鎌田にマスクをして指示通りに服装を変えろと言われた。犯行前と後、鎌田はトイレで俺の着替えを用意して待機し、入れ替わって着替えた。
チャットで連絡を取り合った。鎌田はケツを拭いたペーパーをトイレの床に散らかし、関係ねえ奴が入らないようにしていた。出る前に片づけろと言われたが、臭くて閉口した。
呼び鈴が鳴って大樹がドアを開けると、米田刑事がいきなりまくし立てた。
「いやー、またまた大変お世話になりました。これ山形のお袋が送ってきたんだ。受け取ってくれ。あと捜査協力の謝礼が出るぞ。今回のと前の分。なーに大した額じゃないから遠慮しないで。俺は福光さんの絵、信用できないなんて言ってないよ。最後まで福光さんを信用しろって主張したんだよ。しかしまあ、後から送ってきた絵は凄かったねー。眉の脇のホクロまで正確に描いてあった。これからもよろしくなんて事件を期待するようで言えないが、ほんとにありがとう。じゃあ、これで」
米田刑事は、里芋がぎっちり詰まった段ボール箱を大樹に押し付けた。
「ありが……」
大樹が礼をする間もなく、米田刑事は助手席に乗り込み、車は発車してしまった。
「あれ! もう行っちゃったの?」
大樹は由衣に困り顔を見せた。
「捜査協力の謝礼が出るって。どうしよう?」
「学費や生活費の足しにしなさい」
「うん、そうする。こっちはもらってくれる?」
「あらまあ! 里芋がこんなにいっぱい。食べきれないよね。そうだ! 今晩、うちで一緒にご飯食べればいいじゃん…… あれ? そんな顔しないのー! みんな気さくだから、ちっとも気をつかうこと無いし」
連休明けの最初の土曜の朝、二人は、先日、見られなかった映画をこれから見に行く。朝食前の出来事だった。
朝日がテーブルを照らし、大樹は眩しさに目をしょぼつかせ、由衣が持ってきたクロワッサンを食べている。
両手で頬杖を付き、そんな大樹を眺めている由衣は、例の悪い癖が抑え切れない。
「ねえ、オッパイ触ってみる?」
「ウッ!」
大樹はパンを吹き出しそうになって頬を膨らませ、顔全体が忽ち真っ赤になった。交感神経の活性化でアドレナリンが分泌され、血管が拡張して顔面紅潮になった。解っているが、どうにもならない。
「アハハハハ、冗談よ。大樹もアッチの面では普通の男の子ね。安心した」
「フウー…… 冗談でも、そういうことは口にしないでください」
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