第13話 天使のヘッドホン

「¿Qué quiere usted hacer?(どうしたい?)」

 ホセを前にして、アミーゴ大将パンがホアンに聞いた。


 ここはアミーゴ州アミーゴ市アミーゴ町の中心、アミーゴ大将パンのアパート。オレ、ホアン、パンが取り囲むようにホセを後ろ手にくくり部屋の真ん中に跪かせていた。

 エンリケがねこバス風スクールバスをジャパニーズマフィアの出入りのごとく、住宅街の空き家に突っ込ませた時、ここのアミーゴと違って仲間意識の薄いホセの一味はそのまま奴だけ置いて散り散りに逃げてしまった。もともとホセが寄せ集めた急造メンバーばかりで、あのアジトの辺りでしのいでいる単なるチンピラ連中だったのだ。ホセが幼い兄妹を脅して持ってこさせた北さんの車を掠め取ったところでホセの話に乗っかって仲間になったらしい。


 ― ホセがロサンゼルスに来るかもしれない ―


 ホアンはその強迫観念でマリアを片時もアパートに一人で置いておくことはせず、常に神経を尖らせていたのだった。英語の学校へも建築現場へも、そして堺屋にも彼女を連れてきていたのはそのためだった。

 ホアンがホセに対して抱いていたイメージ、〝強大な悪の権化〟もふたを開けてみれば単なるチンピラだった。しかしそのチンピラはこの兄妹にとって途方もない闇だった。そしてここロサンゼルスでも、マリアを誘拐し、ホアンの自分に対する恐怖心を利用し、車を持ってこさせたのだ。挙句にマリアを返さないホセに抵抗して車を取り返そうとしたホアンを、そのまま引きずり回し、あんなひどい怪我を負わせたのだった。それでもホアンは自分に歯向かうことなどできないだろうとホセは高をくくっていた。


 パンは黙ってホセを睨んでいるホアンの横でじっと待っていた。

 ホアン自身にこの男の裁定を委ねたのだろう。ホアンはその私設裁判所で後ろ手にくくられて跪いているホセの前にじっと立っていた。

 ホセは落ち窪んだ暗い穴ぼこでホアンの顔を見上げていた。この状況にあってもこいつは自分に対して反抗などするわけが無いとも言いたげな、にやけた表情を浮かべながら。そして沈黙に焦れたように何か言おうとホセが口を開いた瞬間、ホアンはその硬いこぶしでいきなりホセの顔を殴った。


「UGH―――――!」


 痩身で背の高いホセの顔は百六十センチ足らずのホアンの右フックにちょうどあわせたかのような高さにあった。ホセは最初の一発で吹っ飛ばされて部屋の壁まで転がった。直後、その最初の一発がスイッチだったかのようにホアンは転がったホセに飛び掛って馬乗りになり、上から奴の顔といわず胸から腹からとにかく殴り続けた。


「グギギーカアアー――――――――――――!」


 突如この世のものとは思えない異様な叫びを発した。オレの知っている無邪気なホアンの顔は既になく、憎しみに目を赤く血走らせて異様な叫びを辺り一帯に響かせながら、爆風で飛ばされたガラスの破片のように周りのものを突き刺し続けた。そう、ガラスの割れる音が継続しているようなおぞましい破壊音。奥の部屋に寝かされていたはずのマリアが耳を塞ぐようにして、頭を抱えてドアの傍でしゃがみこんでいた。この世の音、全てから逃げ出すように。しかしそのホアンの「音」は聴覚ではなく、彼女の記憶に刺さっていった。殴る音とは関係なく、その「音」に共鳴するように体を震わせるマリア。ホアンはホセをこのまま殴り殺すだろう、オレはそう確信した。

 ホアンが壊れていく「音」だった。


 「ホアン!」


 止めようと動いたオレをパンが制した。そして、その奇妙な音を発しながらレンガのような重いパンチを、既に気を失い、サンドバッグのような肉の塊となったホセに落とし続けようとするホアンを止めたのは…マリアだった。


 ホ…アン…。


 マリアがいつのまにか立ち上がり、ホアンの腕に手をかけていた。


 ホアン…。


 オレとパンの目が合った。彼も驚いたようだった。マリアがホアンを止めようと言葉を発したからではない。マリアの口は依然として閉じられ一言も発した様子はない。にもかかわらず、オレの耳にもそしてパンにも、彼女の厳かな叫びが聴こえたのだった。いや、聴こえたというより、眉間の辺りから頭蓋骨内に響かせた微かな振動のようだった。


 ホアン。


 ホアンは突然バッテリーが切れたおもちゃのように動きを止め、ゆっくり振り返った。地獄を映していたホアンのレンズの焦点がマリアの顔に合わされていく。ホアンは力なく跪きマリアにすがるように彼女を抱きしめ、狼が咆哮するが如く天を仰いで号泣した。


 天使の呼びかけにホアンは地獄から戻ってきた。


 ホアンの壊れる様子を目撃し、それを誰よりも恐れたのはマリアだった。彼女は自分を愛してくれた唯一の人間が悪魔のように変わって行くのを見て、そんなことが2度と起こらないよう、あの「音」を遠ざけようと思ったのだ。あの「音」さえ聞こえなければホアンは大丈夫だと。あの地獄のような場所からホアンが自分を助け出してくれた時に発した、心を突き通すような「音」。それが〔聞こえなくなる〕=〔ホアンが壊れない〕と考えたのだろう。

 自分のことよりも、ホアンのことが心配だったのだ。ホセの元を逃げ出した後にようやくたどり着いた町。そこでも幼い2人を覆いつくそうとする闇をホアンが振り払おうとするたびにマリアは自分を救ってくれた時、ホアンの身に起こった悪夢を思い起こし恐怖したのだった。しかしその町でたまたま拾ったヘッドホン、それをマリアが被っていればホアンが変貌してしまうことはなかった。偶然だったろう。しかし彼女にとってそれがホアンを守るための道具となった。彼女にとって、あのヘッドホンはもちろん聴くためのものなんかではなく、「音」を遮断し、ホアンが悪魔に変わらないようにするための御守りだったのだろう。


 聞く者全員の胸を押しつぶす悲しみに満ちたホアンの咆哮を、天使はその小さな手でやわらかく包み込み消し去ってしまうと、春の木漏れ日のような光の中にふわりと飛翔して行った。

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