第9話 ホアンの過去
堺屋の入っているショッピングモール近くの日系人鍼灸師に三重子さんが頼み込み(ねじ込み)、ホアンを(無理やり)入院させた。夜、店を終えた後、クリニックまで戻り、ホアンの横に付いていようかと提案したが、入院を捻じ込まれた筈のその医者のプロレスラーのような馬鹿でかい体躯といかつい風貌に似合わない優しい笑顔での「任せなさい」という一言に妙に納得して、その日は帰ることにした。
翌日、オレと三重子さんは堺屋のランチのシフトの前に再度そのクリニックを訪れた。鍼灸用の幅の狭い治療台を2つあわせて無理やりベッドをつくり、ホアンはうつぶせになって寝かされていた。火傷に塗る軟膏薬をシップのような布につけて肩からお尻、肘や足の踵の方まで貼ってあった。左脇腹が大きな古傷の跡で皮膚が引きつっているのが見えた。
「大丈夫なの!」
無理やり入院をねじ込んだ三重子さんだが、その鍼灸師を叱るように尋ねた(詰問した)。
「患者の前でそんな大きな声出しちゃまずいでしょ。ほんとに無茶苦茶なんだから…」
明らかに不満の顔を覗かせながら、それでもその医者はでかい体を起用に動かしつつ丁寧に背中の薬布を取り替えていった。
「キャッシュで払ってんだから、ちゃんとしなさいよ」
尚もお説教口調の三重子さんだが様子を見て安心したのか、オレに目配せをしつつ、ホアンの寝かされているその治療室を医者と一緒に出て行った。
「Juan, are you all right?(ホアン、大丈夫か?)」
大丈夫なはずは無いのだが、とりあえずそう声をかける以外思いつかなかった。返事は無かったが、そのままオレのつたない英語で話し続けた。
「We all have been worried about you and Maria(お前とマリアの事、みんな心配してたんだぞ)…特に北さんは自分の車のこともあったけど、お前のこと信じてポリスにも話してない。だけど何があったのか教えてくれ。特にマリアのこと、みんな心配で…」
マリアの最後の目撃情報や例の日系のおじさんのことなども含めて、ここ数日の状況をゆっくり、ホアンに理解できるようにと話しかけてみたが、ホアンはうつ伏せでちょうど鍼灸の治療用ベッドの顔を嵌める穴に顔を突っ込んでいたので、起きているのか寝ているのかも分からなかった。
仕方なく立ち上がって、出て行こうとするとホアンの嗚咽する音が聞こえた。もれ出てきた音は声となり、同時にぽたぽたと床に落下する涙の音が静かに重なった。
そのままホアンは顔を上げずに話し始めた。
「It was Jose…He is here…ホセが来やがった、ホセが…」
呻くようにホアンが言った。
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物心ついた時、ホアンは既にストリートで自分の食い扶持を稼いでいた。見よう見まねで覚えた置き引きのような狩猟方法を身につけていたのだ。この世に父親だとか母親だとか、ましてや家族だとかいうものが存在することすら知らなかった。そのうち、ひとりの大人の男がホアンの前に現れてこう言った。
「お前はオレのガキだ」
酒臭い息と首筋の皴に埋め込んだような垢を妙に記憶している。その日からホアンはその男の息子(手先)となった。
そんなことが悪いことだと知ったのは、初めて狩りに失敗して顔の大きさが2倍くらいになるまで殴られたある冬の夜だった。ねぐらに戻ったホアンに男はさらに追い討ちをかけた。「稼ぎのねえ様な奴はどっか行け!」壁まで吹っ飛ぶほど腹を蹴られた。それでもその男から離れようとは思わなかった。逆にこの男に褒められたいという気持ちが湧き上がってきて、それまで以上に狩りの腕前を磨いていった。
「おい、母親が欲しいだろ」ある日男がそう言った。
女も男と同じ臭いを持っていた。
「あら、かわいい子じゃない。ホセにこんな隠し子がいたなんて知らなかった」
男の名がホセだと知ったのはその時で、自分の名がつけられたのもその時だった。
「この子名前なんていうの?」
「しらねえよ」
「じゃあJUANにするよ、ホアン。いいでしょ。」
その女、フェドラがホアンの母親となった。ホアンが7歳か8歳くらいの時だった。
数年後、暖かさがホアンの寝泊りしている地獄の底まで届いてきそうな春の日の夕暮れ、ホセが一人の少女を連れて帰ってきた。
「8つか9つくらいだろうが、ここで働かせて数年したら売れるだろ」
フェドラは少し嫌そうな顔をしたが、それでもホセが持って帰ったテキーラに機嫌を直したようだった。
「早めにどっかやってよね」
マリアはまさに掃き溜めに鶴だった。
神様が自分の元に天使を遣わせたのだとホアンは思った。マリアの愛らしい表情を見ているだけで、充分だと思った。そしてマリアがずっといてくれればいいと願った。しかしその幸福な時間は長くは続かなかった。
「このガキおかしくねえか?」
この頃ホアンの稼ぎがいいため、さらに酒びたりになったホセがマリアの様子に異常を感じたようだった。
「そうなのよ、いつも何を考えてるのか分からないような感じで、呼んでも返事もしないのよ。でもホアンが話しかけると何かしら反応するようだけど」
「くそー、不良品つかまされたな」
ホセが溶けたような前歯を覗かせて悔しがった。
ある晩、ホアンがいつものように獲物を抱えて家に戻るとホセとフェドラが空になった酒瓶を何本もテーブルの上や床に転がしたまま、にやけた顔で酒臭い息を吐きながらこういった。
「マリアが売れたぞ!あんなのを特に欲しがるような御仁が結構いるもんだぜ」
「あたしだって売れないのにねー」
ホアンが家の真裏にある売春宿へ駆け込むと、見知らぬ男がマリアの上に覆いかぶさっていた。
そこからのホアンの記憶は途切れ途切れだ。
気が付いたら自分の足元にその見知らぬ男が血まみれで転がり、自分のわき腹に酒瓶が刺さっていた。ガラスの割れる音が永遠に続いているかのような音が何処からか聞こえている。マリアを抱えるように連れ出し、その後どこをどう逃げたのか全く覚えていない。
次の記憶はメキシコ北部の国境近くの町でマリアと2人、狩りを続けてストリートで暮らしていた。まだ15歳くらいのホアンと10歳そこそこのマリア。その町でも彼らを利用しようとする輩がいたが、ホアンは勇敢にマリアを守り続けた。マリアのあのヘッドホンはその頃拾ったものらしい。
数ヵ月後、ホアンはストリートで貯めた現金でトラックの荷台に隠してもらい、マリアと2人で国境を越え、天子の町へと向かったのだった。
そこに天国があると信じて。
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もう昼をとっくに過ぎていた。いつのまにか三重子さんは店へ行ったらしい。
オレは怒りとも悲しみとも付かない今まで味わったことの無い感情をどうしていいのかわからず、ホアンの横でうなだれたまま、ホアンと同様に涙やら鼻水やらぽたぽたと落とし、床に水溜りをつくっていた。
「そいつが現れたんだな。ここに」
何とか搾り出すようにホアンに尋ねた。
オレは店までの短い距離を、ゆっくりと確実に一歩一歩踏みしめるように歩いた。そうしないとあまりに現実離れした、突拍子も無いストーリーに体ごともって行かれそうになっていたからだ。ホアンの話はオレの中で咀嚼して感情の中にカテゴライズするにはまだこれから何十年も必要だろう。
「とにかく、マリアを救うんだ」
それだけを自分自身に対して命令すると芯が固まったような気がした。
もう既にランチタイムは終わっていて、薄暗い店の中、全員がオレを待ってくれていた。オレはホアンから聞いた話をかい摘んで全員に話し、そして北さんに言った。
「あの日、北さんと最後に店で出くわした時、ホアンは車を持って来いと脅迫されていたようです。そうしないとマリアをそのまま連れて行くと。それで…」
「わかった。それでどうしたらええ?」
北さんはオレの言葉を最後まで言わせないように途中でそう切り返した。
「まだどうしたらいいのかわかりません。もちろんマリアを取り戻すのが第一ですが、ポリスに通報したところで、ホセは自分の娘だと主張するだろうし、万が一捕まったとしてもそれくらいではすぐに釈放されてホセもマリアも強制送還されるのがオチでしょう。ホアンが言うには、ホセがメキシコに戻らずに、ここでもうひと稼ぎしようとまだロサンゼルスのどこかにいるらしいんです。とりあえずホアンの住んでいるアパートのアミーゴ連中にホセの話を聞いてこようと思います。」
そう話しつつ、オレは理由も無くマッカーサー公園の干からびた池の底に死体が転がっている画を想像していた。
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