第5話 消えたマリア

「IRASSHAAA―I―MASE!」


 ようやく聞けるようになった中国広東省出身、北京大学卒業の秀才、劉さんの「いらっしゃいませ」。日本語はかなり流暢なのだが、抑揚なく間延びしながら突然「しゃーーーい」で切る癖と、さらに「ませ」に妙なアクセントがある。

 声が小さいと当初注意されたために、今ではオレたちの数倍もあろうかという大きな声で入ってくる客を圧倒しているが、本人はいたって大真面目にお客様をお迎えしているのである。オレとしては、これはこれで特徴があって、尚且つどこかの居酒屋のような店員一斉、右へ習えの揃った掛け声よりはずっとマシだと思うのだが、ロサンゼルス在住三十数年の三重子さんからするとこれが許せないらしい。


「劉さん!いらっしゃいませ、ってちゃんと一気に言わないと変でしょ!」


描いた吊り眉毛をさらに吊り上げて怒声を上げながら、テーブルからテーブルへお盆片手に移動し、テーブルのお皿や丼をちゃっちゃと片付けていく。


「おい、アガットルぞー!」裏のキッチンから北さんの低く単調な、しかしこのくそ忙しい時には特に人を落ち着かせる声が飛ぶ。

「うぃーっ」と表のカウンター内のチーフが揚げもんを揚げながら、いつも通りの頭のてっぺんから足の先まで落ち着いた風采と、ゆったりとした受け答えで、表で動き回るウエイター・ウエイトレスに代わって返事をする。

 2人とも忙しくなればなるほど、それと反比例するような落ち着いた口調になり、さらに口調に反比例して何十人ものオーダーをこなす速度が上がってくる。さすがだなー、と感心している暇もなく、表のカウンターやテーブル席は一杯となった。

 三重子さんの怒号と劉さんの調子はずれの「IRASSHAAA―I、MASE!」が響きわたる中、それを縫うように華麗なウエイターテクニックでオレが、テリヤキチキン、カリフォルニアロールといったアメリカンジャパニーズフードを運んでいく。


「はい、次ロースかつ、ドス。UDON、ウノ」チーフだ。ウエイターが忙しいのを見て、カウンターで客のオーダーを取ってくれたのだろう。

「はい、UDON、ウノ。ロース、ドス」とオレ。

「ハイ、カシコマリマス!」とホアン。


 三重子さんはいい顔しないが、今堺屋ではスペイン語ブームである。メキシカンはホアンしかいないのだからスペイン語を話す必要は全くないのだが。

 客の嵐が去った。ムーチョ、カンサード。(訳:たいへん疲れた)

 昼のたった1時間ちょっとの間にどうしてこんなに集中する必要があるのだろうかと、真剣に怒りたくもなるのだが、チップをもらって生活する身。忙しいことで文句は言うまい。お客様は神様です。商売繁盛、笹持ってグラシアス!


 その日、レストラン堺屋ではランチの新記録を打ち立てた。105人。これまでランチタイムで最も客の入った日が73人だったので、大幅増の新記録となった。ホアンが来てくれたことでキッチンの回転が良くなり、このような結果になったことは言うまでもない。


「今日はかなりいったんちゃうか、チップも結構あるやろ!」


 オレが売上とチップを集計しているところに、チーフがやってきて声をかけた。

 関西人であるチーフが関西弁そのままにお金の話をすると、芝居がかってやけにはまる。大阪弁の特性なのか、チーフの目にマンガのように〔$〕マークが一瞬見えてしまうほどがめつく聞こえるのだが、あまりにぴったりで不快感がない。

 それに対して「それほどでもないでしょ。いうほど忙しくなかったしね」と三重子さんが否定する。彼女は店が忙しかったと認めるのはウエイトレスとしては敗北だと思っている節がある。これまで彼女が「忙しかったねー」という同僚の問いかけにそのままうなずいたことを一度も見たことが無い。


 みんなががやがやと談笑しているところへ、ようやく皿洗いとキッチンの掃除を終えたホアンが「ソーデスカ。ハイ」とわけも分からず耳で覚えた日本語で相槌を打ちながらやって来た。皿洗い用のユニフォームだと騙してオレがあげた野球帽をかぶっている。まかないには手をつけずにそのままオレたちのいるテーブルの横を通り過ぎて、店の外へ出て行った。マリアを呼びに行ったのだろう。

 北さんが笑いながらホアンの後姿にツッコミを入れる。「何言うとんねん。」

 ランチタイムとディナーの合間、まかないを食べながらのつかのまの休憩時間。いつも通りのオレの好きなレストラン堺屋の昼休みの風景である。


「ホアン、いい子じゃない」


 当レストラン最年長のウエイトレスである三重子さんが嬉しそうだ。東京生まれの東京育ち、気風のよさと竹を割ったような性格、それでいて面倒見がいい、NHK朝の連ドラのキャラクターのような昭和一桁代生まれの女性である。彼女が認めるようになればここでの仕事は安泰だろう。良くも悪くもここ堺屋では彼女が正しいのだ。


「あの子、本当に妹想いで一生懸命だからね。あんな子今時珍しいよ、ね?」三重子さんが劉さんに相槌を求めた。

「そうですね!」劉さんが期待通りの頷きとともに肯定する。

 この2人、仲がいいのか悪いのか、異議も同意も2人のキャッチボールはぴたりとはまる。

「まあ、珍しく北くん推薦やからなあ」

 またもやオレのことはチーフの頭から消えているらしい。

「マリアもこのフロアの人たちだけじゃなくてショッピングモール全体のアイドルみたいになってるしね。よかったんじゃないの、ここで働けて。でも学校に行ってないよね、彼女は?」

 三重子さんがわかりやすく眉間に皺を寄せ、気の毒そうな表情を浮かべてオレの方に振り向いた。

「みたいですね」

 マリアに関しても、ホアン自身があまり語りたがらないので、オレも詳しい状況は聞いていない。

「ホアンも本当に大変ね。国じゃ食べられないからこっちに来たんだろうけど、子供だけでしかもマリアもああいう状況じゃ…」

 オレは、三重子さんがホアン兄妹を養子にしようかと言い出すのではと内心期待していた時、店のドアがドンと大きな音を立てて開いた。


「アートォ!」


 ホアンが戻ってきた。

 ホアンがオレを呼ぶ時は語尾に『ォ』がついて強調され、オレの親父が日本名でオレを呼ぶときの調子そっくりで閉口するのだが、その時の『ォ』音はさらに強調されてオレに飛んできた。


「アートォー! No, Maria! She is gone!」


 マリアが行方不明になった。


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