第4話 マリアの沈黙
試合後、メキシコ国歌をみんなが合唱する中、ホアンがオレたちに部屋の外に出てくるよう手招きをした。文字通り、足の踏み場もない観客席を何度も抱きつかれながらようやく抜け出すと、試合中、ホアンの腕につかまっていた妹マリアを改めて紹介してくれた。「十一歳くらいだと思う。親のいない自分たちは誕生日すら正確にわかっていない」とホアンは笑った。ホアン自身は十五か十六くらいだろうか…。
「How are you?」と北さん。何だか照れている。
「¿QUE PASA? (ケパソ?)」とオレはにわか仕込みのスペイン語で。やはり照れている。
「…」寡黙な天使は語らない。
引き続き照れるおっさん2人。
マリアは初めて出会ったときと同様、小さい顔に不釣合いに大きなヘッドホンをしたまま、オレたちに最高の微笑を向けてくれた。
いい大人2人が十歳くらいの少女の前で照れているのだ。それ自体恥ずかしいが、仕方ない。マリアの微笑みはそのまっすぐで透き通ったブルーの瞳を介して、周りの全てを溶かし包み込んでしまうほどの魅力があったのだ。
ホアンのつたない英語とオレのつたない理解力でわかったことは、(たぶんそういうことだと思うのだが)マリアは、耳は聴こえているのだが言葉を発することはなく、周りとのコミュニケーションがうまく取れないということだった。自閉症のようなものかもしれない。そしてなかなか他人にはなつかない筈なのだが、オレのことは最初から気に入ったようだと。天使に好かれたのだ。初対面でおにぎりを奪われたオレに神のご加護があらんことを。
後日、ホアンの顔なじみのメキシカンのファーストフード店でオレ用にブリトーのカスタムオーダー(ビーン抜きのライス多め、皮がウェルダン)を聞いてくれるようにコネをつけてくれたり、再度のボクシング観戦に招待されるなど(今度は樽ごと持って行った。結果的にはペイパービューの視聴料より高い出費になってしまったが)、何度か会ううちにオレはホアンという少年をひとりの友人として認めるようになっていた。
「メキシコではどうしてたんだ?」友達になった気軽さで思わず聞いてしまった。自分たちの年齢すら分からないと笑って答えたホアンに自分より年上のような雰囲気を感じて油断してしまった。「答えなくていいよ」と質問を取り消すことも余計に不自然に思い躊躇しているオレに対して、ホアンはメキシコでの過去は語らずに、ロサンゼルスでの今を話し始めた。
1年ほど前、ホアンとマリアは2人で国境を越え、この国にやって来た。自閉症の妹を抱えてホアンはひとりで踏ん張った。しかしこの国で不法移民の未成年であるホアンにいい仕事はなかった。他のアミーゴたちもやはり自分たちの家族を養うことや国への送金で余裕などあるわけがなく、何とか2人が路頭に迷うことだけは避けられるよう、誰かのアパートの1室を間借りさせているのが精一杯だった。2人に福利厚生など適応されるはずもなく、稼ぎは定番の空き缶集めやホアンが日雇いでやる建築現場の手伝いなどで得るだけで、その仕事すらたまにしかなかった。
しかしそんな状況でもホアンは英語のクラスに通っていた。不法移民だろうがなんだろうが、定員さえ超えなければ受け入れてもらえる、タダで英語を教えるアダルトスクールというものがLAには多数ある。昼間の仕事をしているアミーゴを収容し、午前中早い時間と夜の遅い時間、スペイン語に支配されたロサンゼルスを救うための税金投入で運営されている。仕事がない日に学校へ通う、片道1㌦25㌣のバス代はホアンにとってはかなりの痛手だろう。
それでもホアンに言わせると「自由をかなえる国」だという。「Free Country!」と鼻で笑う奴らと、いまだに「自由の国」を信じる奴。オレはどちらにも属していないが、ホアンに1票投じたい。
「レストランでの皿洗いはどうだろう?」
思わず、ホアンにそう持ちかけていた。
「グラシアス」
ホアンは目を閉じて、オレに向かって手を合わせた。
― そんなことしなくても、何とかするよ ―
口には出さずに、オレは固く心に決めたのだった。
「まあ北君までそう言うんやったら、大丈夫やろ。ランチどころかディナーも結構忙しくなってきたし、とりあえずやらせてみよか。」
重い体に軽い決断。これも体重0.1㌧近いチーフの特徴だ。ホアンの状況に心を動かされたオレの熱心な働きかけとは全く関係なく、北さんの一言と、皿洗いや掃除担当のアミーゴ不在の不便さによって、ホアンの堺屋での日々が始まった。
日本町で働きたいアミーゴは多いそうだ。彼らからすれば日本人は勤勉で辛抱強く、さらに賢く謙虚なので、一緒に働きやすいらしい。日本人の南米移住者が培った評判だろう。頭が下がる。近頃「褒められ」欠乏症のオレは、単純に自分が褒められた気分でひとり喜んでいた。(所詮1億分の1くらいの恩恵だが)
ここ日本町では彼らに対する日本人の差別意識もあまり無い。ただ日本町に暮らす日本人とっては、遠く日本からこんなロサンゼルスくんだりまでやってきて、さらにその南からやって来たエネルギーの塊のような人種は自分たちからかけ離れた人間だという意識なのだろう。全く違って当たりまえという感覚が元からある為に、今更差別しようという思考にならないのではないだろうかと思う。日本人からするとお隣の韓国や中国の方がずっと近く、さらに顔かたち、肌の色もほとんど違いがないために余計に差別的な意識が芽生えてくるのではないか…と。同じ家に住んでいる家族のちょっとした違いが目に付いて腹が立ってくる…そんなことではないだろうか。
初日からホアンはマリアを連れてやってきた。ホアンはアダルトスクールでも建築現場でもどこでもマリアを連れて行くようだった。自閉症だから、彼女をアパートに独りでおいて置けないということなのだろうが、オレも深くは聞かなかったし、ホアンもあまり語りたくないようだった。
これにはチーフも閉口したようだ。だがマリアも店の中をうろつくわけではなく、ホアンの仕事が終わるまでここ3階レストランフロアの堺屋前のベンチでずっと例のヘッドホンで何か聴きながら座っているだけで、問題は無かった。
いや、問題はあった。このフロアの人たちだけでなく、このショッピングモールで働く人たちほとんどが老若男女問わず、彼女の例の微笑みにノックアウトされてしまったのだ。誰にでもあの微笑を向けてしまうからだ。ただしランチを奪われるという尊い洗礼を受けたのは依然オレだけだったが。
ホアンはオレの期待にこたえて(?)本当に真面目に良く働いた。休まないのはもちろんのこと、時間に対して非常に正確で全く遅れないのだ。
たいしたことでないように聞こえるかもしれないが、ここロサンゼルスの渋滞当然の車社会で、ましてや悪名高きRTDのバス移動で一度も遅れないアミーゴを見たのは初めてだった。バスの乗り合わせがこれまでのところ、たまたま良かっただけかもしれないが、スーパーマーケットでのレジの並び運すら悪いオレからすればそれだって立派な能力だ。職を斡旋した(?)オレの鼻も高い。
最近何でもかんでもSelf-esteem(自己評価)につなげてしまうのはホアンばかりが褒められて、誰もオレのことを褒めてくれないからだろう。ここで難しい英単語を入れてみたのもそういう心理からだ。うーん…。
マリアのファンがどんどん増殖している。それにあわせて彼女の元にプレゼントを届ける輩もいて、兄のホアンにとっては嬉しいような、気がかりなような状況らしい。
まだ十一歳くらいの少女にプレゼントをせっせと届ける日本の男たちの病気は、既にアニメの美少女キャラを見て世界中の人たちは承知していると思っていたのだが、ホアンはまだそのあたりの事情に気が回るような暇な日常を送っていないので、オレが説明しておいた。
「ファンクラブを結成してグッズでも売るか!」
言葉が足りなかったかも。それどころか、これが大事件に発展するとは思ってもいなかった。
能天気で、浅はかなオレ。Self-esteem急降下。うーん…。
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