第9章:父の背中

それから2週間後。


母親から電話があった。


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「お父さんの精密検査の結果が出たの」


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母親の声は、落ち着いていた。


でも、その奥に、疲れがあった。


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「どうだった」


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「やっぱり、認知症だって。まだ初期だけど、進行する可能性が高いって」


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俺は、息を止めた。


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「そうか」


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「来週、また病院に行くの。治療の方針を決めるって」


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「一緒に行く」


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「ありがとう。お父さんも、あなたに来てほしいって言ってた」


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俺は、驚いた。


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父親が、俺に来てほしいと言った。


初めてだった。


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「わかった。必ず行く」


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「ありがとうね」


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母親は、電話を切った。


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翌週の土曜日。


俺は、また実家に向かった。


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新幹線の中で、俺はずっと考えていた。


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父親のこと。


自分のこと。


家族のこと。


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この2週間、俺は少しだけ変わった。


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毎晩、颯太と10分だけ話す時間を作った。


仕事が遅くなっても、帰ってから颯太の部屋を覗いた。


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寝ていることも多かった。


でも、颯太の顔を見ることができた。


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それだけで、違った。


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実家に着いたのは、午後2時だった。


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母親が、玄関で待っていた。


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「お疲れ様」


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「父ちゃんは?」


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「二階。部屋にいるわ」


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俺は、頷いた。


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「病院は?」


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「3時から。もうすぐ出なきゃ」


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「わかった」


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俺は、階段を見上げた。


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父親と、また会う。


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前回の口論以来、初めてだった。


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父親の部屋の前で、俺はノックした。


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「入れ」


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父親の声。


前より、少し弱くなった気がする。


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俺は、ドアを開けた。


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父親は、窓際の椅子に座っていた。


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外を見ていた。


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俺が入っても、振り返らなかった。


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「父ちゃん」


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俺が声をかけると、父親はゆっくりと振り返った。


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その顔は、前より痩せていた。


頬がこけて、目が落ち窪んでいる。


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「来たか」


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「ああ」


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俺は、父親の隣に立った。


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沈黙。


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「検査の結果、聞いた」


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「……ああ」


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父親は、また窓の外を見た。


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「認知症だって」


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「そうだ」


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「どう思う?」


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俺が聞くと、父親は少し笑った。


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苦笑だった。


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「まあ、予想はしてた」


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「怖くないのか」


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俺が聞くと、父親は首を横に振った。


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「怖いさ」


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父親は言った。


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「自分が自分じゃなくなっていく。お前のことも、お袋のことも、忘れていく。そんなの、怖いに決まってる」


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その声には、諦めがあった。


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「でも、仕方ない」


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父親は続けた。


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「これが、俺の人生だ」


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俺は、何も言えなかった。


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「この前、お前と口論したろ」


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父親が言った。


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「ああ」


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「あの時、俺は思ったんだ」


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父親は、俺を見た。


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「お前に、俺と同じ道を歩いてほしくないって」


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「……」


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「でも、お前は俺と同じになってる」


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父親の目には、悲しみがあった。


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「それが、一番つらかった」


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俺は、胸が苦しくなった。


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「でも」


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父親は続けた。


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「お袋から聞いたぞ。お前、最近、颯太と遊ぶ時間を作ってるって」


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俺は、驚いた。


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母親が、父親に話していたのか。


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「少しだけだけどな」


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俺は言った。


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「毎日10分。それだけだ」


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「10分でいい」


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父親は言った。


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「10分でも、毎日続ければ、積み重なる」


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父親は、立ち上がった。


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少しふらついた。


俺は、父親の腕を支えた。


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「大丈夫か」


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「ああ」


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父親は、窓の外を見た。


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「なあ」


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父親が言った。


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「俺は、間違えた」


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「……」


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「お前が子どもの頃、もっと一緒にいてやればよかった。もっと、話を聞いてやればよかった」


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父親の声が、震えた。


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「でも、俺にはできなかった」


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「父ちゃん……」


---


「お前には、できる」


---


父親は、俺を見た。


---


「お前は、俺より賢い。俺より、家族を見てる」


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「そんなこと……」


---


「いいや」


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父親は、言い切った。


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「お前は、俺とは違う。同じになろうとしてるかもしれないが、まだ違う」


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その言葉が、重かった。


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「父ちゃん、俺……」


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俺は言いかけた。


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でも、言葉が続かなかった。


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何を言えばいいのか、わからなかった。


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「俺、父ちゃんを許せない」


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やっと、それだけ言った。


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父親は、何も言わなかった。


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「運動会にも来なかった。参観日にも来なかった。俺が話しかけても、疲れてるって無視した」


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俺の声が、震えた。


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「全部、覚えてる。許せない」


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父親は、黙って聞いていた。


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「でも」


---


俺は続けた。


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「でも、父ちゃんの気持ちは、わかる」


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父親が、俺を見た。


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「父ちゃんも、苦しかったんだろ。毎日働いて、疲れて、でも休めなくて」


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「……」


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「家族のために働いてた。でも、家族と過ごす時間がなかった」


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「……」


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「父ちゃんも、辞めたかったんだろ。でも、辞められなかった」


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俺は、父親の目を見た。


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「俺も、同じだから。わかる」


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父親の目から、涙が一筋流れた。


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俺は、初めて見た。


父親が泣くところを。


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「すまなかった」


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父親が、小さな声で言った。


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「お前に、つらい思いをさせた」


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「……」


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「俺は、父親失格だった」


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「そんなこと……」


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「いいや」


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父親は、言い切った。


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「俺は、父親失格だった。でも、それでもお前は育った。お前は、立派な大人になった」


---


父親は、俺の肩に手を置いた。


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重い手。


温かい手。


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「だから、ありがとう」


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その言葉が、胸に沁みた。


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「父ちゃん」


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俺は言った。


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「俺、父ちゃんを許せない。でも、父ちゃんの息子でいることは、やめられない」


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「……」


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「父ちゃんの影を背負って生きていく。それが、俺の人生だ」


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父親は、小さく笑った。


---


「そうか」


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そして、俺の肩を叩いた。


---


「お前は、お前の道を行け」


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「……ああ」


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「俺と同じになってもいい。でも、俺よりマシになれ」


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父親の声には、力があった。


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「俺みたいに、後悔だらけの人生にするな」


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「わかった」


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俺は頷いた。


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病院に行った。


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3人で。


俺と、母親と、父親。


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医師から、治療の方針を聞いた。


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薬物療法。


リハビリ。


生活習慣の改善。


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父親は、黙って聞いていた。


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でも、その目には、諦めはなかった。


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「やってみます」


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父親は、医師に言った。


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「できることは、やってみます」


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母親が、父親の手を握った。


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俺も、父親の肩に手を置いた。


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3人で、病院を出た。


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夕方、実家に戻った。


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リビングで、3人でお茶を飲んだ。


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「お父さん、これから大変になるけど」


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母親が言った。


---


「私も、頑張るから」


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「迷惑かけるな」


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父親が、苦笑した。


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「迷惑じゃないわよ」


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母親は、首を横に振った。


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「ずっと一緒にいるって、決めたんだから」


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父親は、何も言わなかった。


---


でも、その目には、感謝があった。


---


「俺も、できることは手伝う」


---


俺は言った。


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「毎週は来れないかもしれないけど、月に一回は来る」


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「無理すんな」


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父親が言った。


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「お前には、お前の家族がいる」


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「父ちゃんも、俺の家族だ」


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俺は言い返した。


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父親は、少しだけ目を見開いた。


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そして、小さく笑った。


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「そうか」


---


それだけ言った。


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夜、俺は自分の部屋で過ごした。


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ベッドに座って、スマホを見た。


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美咲からLINEが来ていた。


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「お義父さん、大丈夫?」


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俺は、返信した。


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「うん。治療が始まる。大変だと思うけど、やってみるって」


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すぐに返信が来た。


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「そっか。あなたも、無理しないでね」


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「ありがとう。明日、帰る」


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「颯太が待ってるよ」


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その言葉が、嬉しかった。


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窓の外を見た。


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夜空。


星は見えなかった。


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でも、空はそこにあった。


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俺は、深呼吸をした。


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父親との時間。


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それは、重かった。


でも、必要だった。


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俺は、父親を許せない。


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でも、父親を理解した。


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父親も、苦しんでいた。


父親も、後悔していた。


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それでも、家族のために生きてきた。


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不器用に。


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でも、必死に。


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俺は、父親と同じにはなりたくない。


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でも、父親の息子であることは、変えられない。


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父親の影を背負って生きていく。


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それが、俺の運命だ。


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でも、父親より、マシな父親になりたい。


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颯太のために。


美咲のために。


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そして、自分自身のために。


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俺は、スマホを置いた。


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そして、ベッドに横になった。


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明日、東京に帰る。


家族のもとに帰る。


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父親の影を背負ったまま。


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それでも、前に進む。


---


それが、俺にできる唯一のことだ。


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俺は、目を閉じた。


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(第9章・了)


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