第7章:妻の鏡①
新幹線の中で、俺は何度もスマホを開いては閉じた。
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妻に何を言えばいいのか、わからなかった。
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「帰るよ」
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たった三文字のLINEを送るのに、20分かかった。
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既読はすぐについた。
返信は、一言だけ。
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「わかった」
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いつもなら、「気をつけて」とか「何時頃?」とか、何か付け加えてくる。
でも、今日は「わかった」だけ。
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俺は、スマホを閉じた。
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窓の外を、灰色の景色が流れていく。
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俺は目を閉じた。
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家に着いたのは、午後八時過ぎだった。
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玄関のドアを開けると、いつもの匂いがした。
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夕飯の残り香と、洗剤の匂いと、どこか甘い匂い。
子どもの匂いだ。
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「ただいま」
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声が小さかった。
自分でも、びっくりするくらい小さかった。
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リビングから、美咲が出てきた。
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「おかえり」
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美咲の声も、小さかった。
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俺たちは、お互いの顔を見なかった。
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「ご飯、食べた?」
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「新幹線で駅弁食べた」
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「そう」
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それだけ。
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美咲は、リビングに戻った。
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俺は靴を脱いで、洗面所に向かった。
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手を洗いながら、鏡を見た。
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疲れた顔が映っていた。
父親に似た顔。
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俺は、目を逸らした。
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リビングに入ると、美咲はソファに座っていた。
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テレビはついていたが、音は消されている。
画面の中で、誰かが笑っている。
でも、音がないと、笑顔も虚しく見える。
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「颯太は?」
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「寝た。8時前に」
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「そうか」
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俺はソファの端に座った。
美咲との間に、一人分のスペースがあった。
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沈黙。
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テレビの画面が切り替わる。
時計の秒針が、かすかに音を立てている。
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俺は何か言おうとした。
でも、何も出てこなかった。
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喉の奥に、言葉が詰まっている。
でも、どの言葉を選べばいいのか、わからない。
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「ねえ」
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美咲が先に口を開いた。
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俺は、美咲の方を見た。
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美咲は、テレビの画面を見たまま、言った。
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「お父さん、どうだった?」
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どうだった。
その質問に、どう答えればいいのか。
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「……元気そうだったよ」
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嘘だ。
元気じゃなかった。
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でも、本当のことを言う勇気がなかった。
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「そう」
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美咲は、それ以上聞かなかった。
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また、沈黙。
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俺は、自分の手を見た。
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膝の上に置かれた手。
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父親の手に似てきた気がする。
節が太くなって、爪の形が変わって。
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いつの間に、こんな手になったんだろう。
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「ねえ」
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また、美咲が言った。
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今度は、美咲は俺の方を見ていた。
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「あなた、最近、お父さんに似てきたね」
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心臓が、一瞬止まった気がした。
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「……何が」
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「全部」
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美咲は、静かに言った。
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「働き方も、話し方も、黙り方も」
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俺は何も言えなかった。
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言い返す言葉がなかった。
なぜなら、本当だから。
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「俺は父ちゃんとは違う」
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絞り出すように言った。
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でも、自分でも、その言葉が嘘だと分かっていた。
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美咲は、少しだけ笑った。
悲しそうな笑い方だった。
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「あなたがそう思いたいのはわかる。でも、私には見える」
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「何が」
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「颯太があなたを見る目。あなたがお父さんを見る目と、同じになってきてる」
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俺は、息を止めた。
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颯太。
俺の息子。
まだ3歳の、小さな息子。
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あいつが俺を見る目が、俺が父親を見る目と同じ?
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「どういう意味だ」
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声が震えた。
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「遠いの」
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美咲は言った。
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「颯太があなたを見る目が、遠い。手を伸ばしても届かないものを見るみたいに、あなたを見てる」
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俺は、言葉を失った。
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颯太は、俺のことが好きだと思っていた。
帰ると「パパ」って駆け寄ってくる。
休みの日には、一緒に公園に行く。
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俺は、良い父親じゃないかもしれないけど、少なくとも、颯太には愛されていると思っていた。
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でも、美咲は言う。
颯太の目が、遠いと。
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「いつから」
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「わからない。でも、最近特に」
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美咲は、膝の上で手を組んだ。
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「あなたが帰ってこない日が続いた後、颯太がね、『パパはお仕事だから』って言うようになった」
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「……それが、何か」
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「言い方。諦めてるの。3歳の子が、もう諦めてる」
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俺は、頭を抱えた。
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俺も、同じだった。
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子どもの頃、父親が帰ってこない日が続くと、母親に聞くのをやめた。
「父ちゃんはお仕事だから」って、自分に言い聞かせた。
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聞いても無駄だから。
期待しても無駄だから。
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颯太も、同じことをしている。
3歳で。
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俺と同じ諦めを、もう覚えている。
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「俺は……」
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言葉が出てこない。
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「俺は、颯太のために働いてる」
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「知ってる」
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「家族を守るために」
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「知ってる」
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「だから……」
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「だから、何?」
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美咲の声は、冷たくはなかった。
でも、優しくもなかった。
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ただ、事実を聞いている声だった。
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「だから、仕方ないだろ」
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俺は言った。
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言ってから、後悔した。
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この言葉、父親が言っていた言葉と同じだ。
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母親が何かを言うたびに、父親は言っていた。
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「仕方ないだろ」
「俺だって好きで働いてるわけじゃない」
「家族のためだ」
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俺は、同じ言い訳をしている。
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美咲は、何も言わなかった。
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ただ、俺を見ていた。
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その目が、俺の中を見透かしている気がした。
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「……ごめん」
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俺は言った。
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「今のは、違う。そうじゃない」
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「じゃあ、何?」
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美咲は聞いた。
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「あなたは本当は、何がしたいの?」
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何がしたい。
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その質問に、俺は答えられなかった。
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何がしたいのか。
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わからない。
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ただ、目の前のことをこなしている。
プロジェクトを回して、部下を管理して、クライアントに頭を下げて、数字を追いかけて。
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それが、俺の仕事だ。
それが、俺の人生だ。
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でも、本当にそれがしたかったのか?
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「わからない」
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俺は正直に言った。
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「何がしたいのか、わからない」
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美咲は、少しだけ表情を緩めた。
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「やっと、本当のこと言った」
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俺は顔を上げた。
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美咲は、悲しそうに笑っていた。
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「あなた、いつも『大丈夫』って言う。『何とかなる』って言う。でも、私にはわかる。あなたが全然大丈夫じゃないこと」
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俺は、何も言えなかった。
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バレていた。
全部、バレていた。
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「実家で、お父さんと何かあったんでしょ」
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美咲は言った。
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「帰ってきてから、ずっと様子がおかしい。何があったの」
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俺は、天井を見上げた。
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何があったか。
どこから話せばいいのか。
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「喧嘩した」
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「お父さんと?」
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「うん」
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「何を」
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「……わからない。最初は、父ちゃんの体調のことを話してて。でも、途中から、何の話をしてるのかわからなくなった」
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俺は、実家での出来事を思い出した。
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父親の顔。
父親の声。
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「だったらお前もわかるだろ。辞められねえことくらい」
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「父ちゃんが言ったんだ」
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俺は言った。
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「俺と自分は同じだって。辞められないって」
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美咲は、黙って聞いていた。
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「俺、父ちゃんみたいになりたくなかった」
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声が震えた。
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「子どもの頃から、ずっと思ってた。あんな風にはならないって。家族を後回しにして、仕事ばっかりして、何のために生きてるのかわからないような、あんな大人にはならないって」
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言葉が、止まらなかった。
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「でも、気づいたら、同じになってた」
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「……」
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「父ちゃんと同じように働いて、同じように家に帰らなくなって、同じように『仕方ない』って言い訳して」
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「……」
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「颯太が俺を見る目が変わってきてるのも、気づいてた。でも、見ないふりしてた。認めたくなかったから」
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俺は、膝の上で拳を握った。
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「怖いんだ」
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その言葉が、口から出た。
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言うつもりはなかった。
でも、出てしまった。
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「このまま父ちゃんと同じになっていくのが、怖い」
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「颯太が、俺を見る目が、もっと遠くなっていくのが、怖い」
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「でも、どうすればいいのか、わからない」
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俺は、両手で顔を覆った。
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涙が出そうだった。
でも、泣きたくなかった。
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美咲の前で泣いたら、何かが崩れてしまう気がした。
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でも、涙は止まらなかった。
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手の隙間から、涙がこぼれた。
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声は出なかった。
ただ、肩が震えて、涙が流れた。
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美咲は、何も言わなかった。
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ただ、隣に座っていた。
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しばらく、俺は泣いた。
声を殺して。
実家で泣いた時と、同じように。
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違ったのは、隣に誰かがいたこと。
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やがて、美咲の手が、俺の背中に触れた。
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温かかった。
強くはなかった。
ただ、そっと触れているだけだった。
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「ねえ」
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美咲が、静かに言った。
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俺は、顔を上げた。
美咲の顔が、涙で滲んで見えた。
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「あなたは、お父さんじゃないよ」
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美咲は言った。
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「同じになりたくないって思ってる時点で、もうお父さんとは違う」
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「でも……」
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「お父さんは、そんなこと思わなかったでしょ。自分が正しいと思ってやってきたんでしょ」
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俺は、頷いた。
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父親は、迷わなかった。
少なくとも、俺にはそう見えた。
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「でも、あなたは迷ってる。怖いって言ってる。それって、お父さんとは違うってことだよ」
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俺は、美咲の言葉を噛み締めた。
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本当にそうだろうか。
俺は、本当に父親と違うのだろうか。
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「でも……」
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俺は言った。
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「でも、結局、俺はたぶん父ちゃんと同じになる。同じように働いて、同じように家族から離れて、同じように……」
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「だったら」
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美咲が、俺の言葉を遮った。
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「だったら、今、変えればいい」
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俺は、美咲を見た。
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美咲は、真っ直ぐに俺を見ていた。
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「全部変えなくていい。少しずつでいい。今日、一つだけ変えればいい」
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「何を」
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「颯太を、起こしてきて」
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美咲は言った。
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「今から、一緒に遊んで。10分でいい。あの子、今日ずっとあなたの話してた。『パパ帰ってくる?』って、何度も聞いてた」
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俺は、立ち上がれなかった。
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足が動かない。
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美咲の言葉は聞こえている。
「颯太を、起こしてきて」
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簡単なことだ。
二階に上がって、颯太の部屋に入って、起こすだけ。
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それだけのことが、できない。
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「でも……」
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俺は言った。
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「もう寝てるし、起こしたら可哀想じゃ……」
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言い訳だ。
自分でもわかっている。
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俺は、颯太に会うのが怖いのだ。
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颯太の目が、遠くなっているという美咲の言葉。
それを確認するのが、怖い。
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もし本当に、颯太が俺を見る目が変わっていたら。
もし本当に、俺が父親と同じ過ちを犯していたら。
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それを認めなきゃいけなくなる。
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美咲は、俺を見た。
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責めるような目じゃなかった。
ただ、静かに見ていた。
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「10分だけ」
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美咲は言った。
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「10分だけでいいから。あの子、今日ずっと待ってたの」
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俺は、拳を握った。
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父親なら、どうしただろう。
父親は、こんな時、何をしていた?
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何もしなかった。
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父親は、俺が待っていても、帰ってこなかった。
父親は、俺の部屋に来ることはなかった。
父親は、「仕事だから」の一言で、すべてを片付けた。
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俺は、同じことをするのか。
「もう寝てるから」の一言で、逃げるのか。
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俺は、立ち上がった。
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足が震えていた。
でも、立った。
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「……行ってくる」
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美咲は、何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
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(第7章・前半 了)
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