第6章:口論の後


翌週の土曜日。


俺は、また実家に向かった。


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父親の精密検査の日。


母親と一緒に、病院に付き添うことになっていた。


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新幹線の中で、俺はずっとスマホを見ていた。


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会社からのメール。


クライアントからの問い合わせ。


部下からの報告。


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すべてが、重かった。


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今週も、地獄だった。


新しいプロジェクトが始まって、また終電の日々。


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美咲とは、ほとんど話していない。


颯太の顔も、ろくに見ていない。


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俺は、何も変えられていなかった。


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実家に着いたのは、午後2時だった。


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母親が、玄関で待っていた。


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「お疲れ様。ありがとうね」


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「父ちゃんは?」


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「二階。準備してる」


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俺は、頷いた。


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「病院、何時から?」


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「3時。もうすぐ出なきゃ」


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俺は、階段を見上げた。


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父親と、また顔を合わせる。


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前回の口論以来、初めてだった。


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病院は、実家から車で20分だった。


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俺が運転した。


助手席に母親。


後部座席に、父親。


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車内は、静かだった。


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誰も、何も話さなかった。


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バックミラーで、父親を見た。


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父親は、窓の外を見ていた。


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その横顔は、疲れていた。


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前回より、さらに痩せた気がする。


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病院に着いた。


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待合室で、3人で座った。


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母親が、受付に行った。


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俺と父親、2人きり。


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沈黙。


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重い沈黙。


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「仕事は、どうだ」


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父親が、唐突に聞いてきた。


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俺は、少し驚いた。


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「……相変わらず」


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「そうか」


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それだけ。


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また、沈黙。


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「お前、顔色悪いぞ」


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父親が、言った。


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「父ちゃんもな」


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俺が言うと、父親は少しだけ笑った。


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「そうだな。似た者親子か」


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その言葉が、胸に刺さった。


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似た者親子。


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俺は、父親に似たくなかった。


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でも、似ている。


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働き方も、壊れ方も。


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母親が戻ってきた。


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「もうすぐ呼ばれるって」


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「わかった」


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父親は、頷いた。


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しばらくして、父親の名前が呼ばれた。


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「一緒に来るか?」


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父親が、俺に聞いた。


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「いいの?」


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「お前も聞いといた方がいい」


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俺は、頷いた。


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3人で、診察室に入った。


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医師は、50代くらいの男性だった。


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穏やかな口調で、説明を始めた。


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「検査の結果ですが」


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医師は、モニターを見せた。


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「脳に、軽度の萎縮が見られます」


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俺は、息を止めた。


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「萎縮?」


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母親が、聞いた。


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「はい。加齢によるものもありますが、進行が少し早いようです」


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「それは……」


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「認知症の初期段階の可能性があります」


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その言葉が、重かった。


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認知症。


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父親が。


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俺は、父親を見た。


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父親は、何も言わなかった。


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ただ、じっと医師を見ていた。


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「確定診断には、もう少し検査が必要です。ただ、物忘れや見当識障害が出ているとのことなので、早めに対処した方がいいでしょう」


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「治るんですか?」


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母親が、震える声で聞いた。


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「進行を遅らせることはできます。完全に治すことは今の医療では難しいですが、適切な治療と生活習慣の改善で、症状の悪化を防ぐことは可能です」


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母親は、ハンカチで目元を拭った。


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診察室を出た。


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廊下で、3人で立ち止まった。


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「お父さん……」


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母親が、父親に声をかけた。


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「大丈夫だ」


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父親は、そう言った。


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でも、その声には力がなかった。


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「帰ろう」


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父親は、歩き出した。


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俺と母親は、その後ろを歩いた。


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父親の背中が、小さく見えた。


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車で実家に戻った。


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車内は、また静かだった。


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でも、行きとは違う沈黙。


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重くて、苦しい沈黙。


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実家に着くと、父親はすぐに二階に上がっていった。


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「お父さん、夕飯は……」


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母親が声をかけたが、父親は答えなかった。


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ドアが閉まる音がした。


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母親と2人、リビングに残された。


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「どうしよう……」


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母親が、小さな声で言った。


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「お父さん、ショックだったと思う」


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「……うん」


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「私も、どうしたらいいか……」


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母親の目から、涙が溢れた。


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「大丈夫だよ、お母さん」


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俺は、母親の肩に手を置いた。


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「まだ初期段階なんだろ。進行を遅らせられるって、医者も言ってた」


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「でも……」


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「俺も、協力する。できることは、する」


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母親は、頷いた。


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でも、涙は止まらなかった。


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夕方、俺は父親の部屋の前に立った。


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ノックする。


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返事がない。


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もう一度、ノックする。


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「……入れ」


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小さな声。


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俺は、ドアを開けた。


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父親は、ベッドに座っていた。


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窓の外を見ていた。


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「父ちゃん」


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俺が声をかけると、父親は振り返った。


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その目は、空虚だった。


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「夕飯、食べないのか」


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「食いたくない」


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「少しでも、食べた方がいいよ」


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「いらん」


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父親は、また窓の外を見た。


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俺は、父親の隣に座った。


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沈黙。


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「父ちゃん、大丈夫だから」


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俺は、言った。


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「何が大丈夫だ」


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父親は、低い声で言った。


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「俺は、壊れていく。頭が、壊れていく」


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「まだ初期だって。治療すれば……」


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「治らない」


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父親は、言い切った。


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「医者も言ってたろ。進行を遅らせることはできても、治すことはできないって」


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「……」


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「俺は、これから少しずつ、自分がわからなくなっていく。お前のことも、お袋のことも、忘れていく」


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父親の声が、震えた。


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「そんな人間になって、何の意味がある」


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俺は、何も言えなかった。


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「この前、お前と口論したろ」


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父親が、言った。


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「ああ」


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「あの時、俺は思ったんだ。お前に、同じ道を歩いてほしくないって」


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「……」


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「でも、お前は俺と同じになってる」


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父親は、俺を見た。


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「それが、一番つらい」


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その言葉が、胸に突き刺さった。


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「俺は、間違えた。お前には、間違えてほしくなかった」


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「父ちゃん……」


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「でも、お前は俺の息子だ。結局、同じになる」


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父親は、また窓の外を見た。


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「それが、血ってもんなのかもしれん」


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俺は、何も言えなかった。


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父親の言葉が、重すぎた。


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「父ちゃん、もう無理すんな」


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俺は、やっとそれだけ言った。


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「仕事も辞めたんだし、これからはゆっくりすればいい」


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「ゆっくりか」


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父親は、苦笑した。


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「もう、ゆっくりする時間もないかもしれん」


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「そんなこと言うなよ」


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「事実だ」


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父親は、静かに言った。


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「俺の人生は、もう終わりが見えてる」


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「……」


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「お前の人生は、まだこれからだ」


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父親は、俺を見た。


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「俺みたいになるな」


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その目には、懇願があった。


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「同じ間違いをするな。家族を、大事にしろ」


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「……ああ」


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俺は、頷いた。


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でも、心の中では思っていた。


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もう、手遅れかもしれない。


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父親の部屋を出た後、俺は自分の部屋に戻った。


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ベッドに座った。


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頭が、混乱していた。


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父親が、認知症。


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その事実が、まだ信じられなかった。


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あの頑固で、強い父親が。


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壊れていく。


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そして、俺も壊れている。


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父親と同じように。


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階段を上がる足音を、できるだけ消した。


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母親に気づかれたくなかった。父親にも。誰にも。


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二階の廊下は、子どもの頃と同じ匂いがした。埃と、日に焼けた畳と、どこか懐かしい、でも二度と戻れない時間の匂い。


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自分の部屋のドアを開ける。


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何も、変わっていなかった。


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机は、高校の時に使っていたやつがそのまま置いてある。


引き出しの取っ手が少し曲がっているのも、天板の端に彫刻刀で傷をつけた跡も、そのまま。


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本棚には、読まなくなった漫画と、受験の参考書と、部活の写真が挟まったクリアファイル。


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ベッドのシーツは、母親が時々洗っているのか、妙に清潔だった。


埃っぽいのに、シーツだけは白い。


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その不釣り合いさが、なぜか胸に刺さった。


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俺はベッドに座った。


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スプリングが軋む音。


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この音も、昔と同じだった。


---


窓の外は暗い。


夜。


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さっきまで、父親の部屋にいた。


父親の言葉が、まだ耳に残っている。


---


「お前は俺の息子だ。結局、同じになる」


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俺は、机の上の写真立てを見た。


---


家族写真。


俺が小学校に入学した時の写真。


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父親が、俺の肩に手を置いている。


笑ってはいない。


でも、少しだけ誇らしそうに見える。


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母親は笑っている。俺も笑っている。


父親だけが、どこか遠くを見ている。


---


この時、父親は何を考えていたんだろう。


---


「この子を守らなきゃ」って思ってたのか。


「この子のために稼がなきゃ」って思ってたのか。


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それとも、何も考えてなかったのか。


ただ、目の前のことを必死にこなしていただけなのか。


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俺は写真立てを机に戻した。


---


そして、天井を見上げた。


---


この天井も、昔と同じだった。


染みの位置も、同じ。


---


中学の頃、夜中に目が覚めて、この染みをずっと見ていたことがある。


眠れなくて。


何かが怖くて。


でも、何が怖いのかわからなくて。


---



あの頃、俺は何を夢見ていたんだっけ。


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思い出そうとした。


でも、思い出せない。


---


野球選手になりたかった時期があった気がする。


ゲームを作りたかった時期もあった気がする。


宇宙飛行士。漫画家。社長。


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色々なことを夢見ていた気がする。


---


でも、どれも顔がぼやけて、輪郭がない。


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ただ、一つだけ。


一つだけ、はっきり覚えていることがある。


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「父ちゃんみたいにはならない。」


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それだけは、ずっと思っていた。


---


夜遅くまで帰ってこない父親。


休みの日も疲れた顔で寝ている父親。


俺の話を聞かない父親。


運動会に来ない父親。


参観日に来ない父親。


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俺は、あんな大人にはならないと思っていた。


あんな父親にはならないと誓っていた。


---


でも。


---


俺は今、何をしている?


---


プロジェクトが炎上して、家に帰れなくて。


妻のLINEを無視して。


子どもの寝顔を見る時間もなくて。


---


「家族のため」って言い訳しながら、家族から逃げて。


部下が壊れていくのを見ながら、自分も壊れかけていることに気づかないふりをして。


---


父ちゃんと、同じじゃないか。


---


俺は、父ちゃんのコピーだ。


---


その瞬間、喉の奥から何かがこみ上げてきた。


---


泣くな。


泣くな。


30過ぎた男が、実家の自分の部屋で泣くな。


---


みっともない。


情けない。


---


階下には父親がいる。母親がいる。


聞かれたら、何て言えばいい?


---


「父ちゃんと同じになっちゃって悲しい」って?


---


そんなこと、言えるわけない。


---


俺は、口を手で押さえた。


---


声が漏れないように。


---


肩が震える。


目から、熱いものが溢れる。


---


止められない。


止めたいのに、止められない。


---


ベッドのスプリングが軋る。


俺の体が震えているから。


---


涙が、手の甲を伝って落ちる。


シーツに染みを作る。


白いシーツに、濃い染み。


---


声を殺して泣くのは、いつ以来だろう。


---


覚えていない。


---


でも、この感覚は知っている。


---


誰にも聞かれないように。


誰にも気づかれないように。


一人で、暗い部屋で、声を殺して泣く。


---


父親も、こうやって泣いたことがあるんだろうか。


---


わからない。


俺は、父親が泣いているところを見たことがない。


---


でも、もしかしたら。


---


俺と同じように、誰もいない場所で、声を殺して泣いていたのかもしれない。


---


そう思った瞬間、もっと泣けてきた。


---


父ちゃん。


---


俺、父ちゃんのこと、嫌いだったよ。


---


でも、今、父ちゃんの気持ちがわかる。


わかってしまう。


---


それが、一番つらい。


---


俺は膝を抱えた。


子どもの頃みたいに。


---


ベッドの上で、膝を抱えて、額を膝に押し付けた。


涙が膝を濡らす。


---


何分、そうしていたかわからない。


---


外では、車が通る音がした。


どこかで犬が吠えた。


階下で、テレビの音がした。


---


やがて、涙は止まった。


---


泣き疲れたのか、枯れたのか、わからない。


---


ただ、目の奥が熱くて、頭が重かった。


---


俺は顔を上げた。


---


窓の外は、まだ暗い。


---


でも、少しだけ、空の端が白んでいるような気がした。


気のせいかもしれない。


---


机の上の写真立てが、暗闇の中でぼんやり光っていた。


---


父親が、俺の肩に手を置いている写真。


---


あの手の重さを、俺は覚えていない。


温かかったのか、冷たかったのか。


力が入っていたのか、軽く置いただけなのか。


---


何も覚えていない。


---


でも、父親は確かに、俺の肩に手を置いていた。


---


俺は立ち上がった。


---


足がふらついた。


でも、立った。


---


部屋を出る前に、もう一度、部屋を見回した。


---


机も、本棚も、ベッドも。


何も変わっていない。


---


でも、俺は変わった。


---


子どもの頃の俺は、もういない。


夢を見ていた俺は、もういない。


「父ちゃんみたいにはならない」と誓った俺は、もういない。


---


今ここにいるのは、父親と同じように働き、同じように家族を守ろうとして、同じように壊れかけている、30過ぎの男だ。


---


俺は、ドアノブに手をかけた。


---


冷たかった。


---


階下に降りなきゃいけない。


父親の顔を見なきゃいけない。


母親の顔を見なきゃいけない。


---


何を言えばいいかわからない。


でも、行かなきゃいけない。


---


俺はドアを開けた。


---


廊下は暗かった。


---


でも、階段の下から、テレビの光が漏れていた。


---


父親は、まだ起きているのだろうか。


それとも、テレビをつけたまま寝てしまったのだろうか。


---


俺は、静かに階段を降り始めた。


---


一段、一段。


子どもの頃と同じ軋み。


同じ音。


同じ匂い。


---


何も変わっていない。


でも、俺は変わった。


---


変わってしまった。


---


階段を降りきった時、居間のドアの隙間から、父親の背中が見えた。


---


ソファに座って、テレビを見ている。


いや、見ているふりをしているだけかもしれない。


---


俺は、その背中を見た。


---


小さくなった背中。


昔はもっと大きく見えた背中。


---


でも、今は。


---


俺と、同じ背中だった。


---


俺は、居間には入らなかった。


---


そのまま、玄関に向かった。


---


靴を履いて、外に出た。


---


夜の空気は冷たかった。


でも、その冷たさが、少しだけ気持ちよかった。


---


俺は、空を見上げた。


---


星は見えなかった。


街灯が明るすぎて。


---


でも、空は確かにそこにあった。


暗くて、広くて、何も答えてくれない空。


---


俺は深呼吸をした。


---


冷たい空気が肺を満たした。


---


明日、東京に帰る。


妻のところに帰る。


子どものところに帰る。


---


何かが解決したわけじゃない。


何かが変わったわけじゃない。


---


でも、俺は帰らなきゃいけない。


---


父ちゃんと同じように。


---


俺は、歩き始めた。


どこに向かうでもなく、ただ歩いた。


---


足元のアスファルトが、街灯に照らされて光っていた。


俺の影が、前に伸びていた。


---


その影を見ながら、俺は思った。


---


俺は、この影を背負って生きていくんだ。


父ちゃんの影を。


---


そして、いつか、俺の影を背負う誰かが現れる。


---


それが、親子ってもんなのかもしれない。


---


俺は、歩き続けた。


夜の中を。


一人で。


---


でも、不思議と、孤独じゃなかった。


---


父ちゃんも、きっと同じ道を歩いたから。


同じ夜を歩いたから。


同じ影を背負って、歩いたから。


---


俺は、立ち止まった。


振り返った。


---


実家の明かりが、遠くに見えた。


小さな明かり。


---


父ちゃんは、まだ起きているだろうか。


---


俺は、また前を向いた。


そして、歩き始めた。


---


明日、帰ろう。


家族のところに。


---


父ちゃんと同じように。


でも、父ちゃんとは少しだけ違う形で。


---


それが、俺にできる唯一のことだ。


---


夜風が、頬を撫でた。


冷たくて、でも、優しかった。


---


俺は歩き続けた。


影を連れて。


夜の中を。


---


(第6章・了)

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