第5章:主人公の限界
実家での口論から3日後。
俺は東京に戻った。
---
父親とは、それ以上何も話さなかった。
母親が気を遣って、2人きりにならないようにしてくれた。
---
病院の予約日には、母親が付き添うことになった。
俺は、結果を後で聞くことにした。
---
新幹線の中で、俺はずっと窓の外を見ていた。
---
父親の言葉が、頭から離れなかった。
---
「辞められねえことくらい、わかるだろ」
---
わかる。
わかってしまう。
---
でも、それでいいのか。
---
わかるだけで、何も変えられないのか。
---
会社に戻ると、地獄が待っていた。
---
デスクに着くと、田中が血相を変えて駆け寄ってきた。
---
「課長、大変です」
---
「何が」
---
「例のプロジェクト、クライアントから差し戻しが来ました」
---
俺は、息を止めた。
---
「差し戻し?」
---
「はい。『仕様と違う』って」
---
俺は、パソコンを開いた。
---
メールを確認する。
---
クライアントの山田から、長文のメールが来ていた。
---
件名:【重要】納品物の不備について
---
本文を読む。
---
「仕様書と異なる部分が複数見つかった」
「至急修正して、再納品してほしい」
「納期は、今週金曜日まで」
---
今日は、月曜日だ。
---
また、4日間のデスマーチ。
---
俺は、頭を抱えた。
---
「田中、これ、どういうことだ」
---
俺は、田中を見た。
---
田中は、青ざめていた。
---
「仕様書通りに作ったんですが……でも、クライアントが言うには、口頭で伝えた内容と違うって」
---
「口頭?」
---
「はい。打ち合わせの時に、『こうしてほしい』って言われたらしいんですが、議事録には残ってなくて」
---
俺は、ため息をついた。
---
またか。
---
このクライアントは、いつもこうだ。
口頭で言ったことを、後から「言った」と主張する。
証拠がないから、反論できない。
---
「わかった。修正するしかない」
---
「でも、4日間なんて……」
---
「やるしかないだろ」
---
俺は、立ち上がった。
---
「今日から、全員残業。終わるまで帰らない」
---
田中は、何も言わなかった。
---
ただ、うつむいた。
---
その日から、地獄が始まった。
---
毎日、終電まで働いた。
終電に間に合わない日は、会社に泊まった。
---
部下たちも、限界だった。
---
田中は、目の下にクマを作って、無言でキーボードを叩いていた。
佐藤は、先週倒れてから休んでいる。
もう一人の部下、山本は、「辞めます」と言い出した。
---
「山本、今辞められたら困る」
---
俺は、必死に引き止めた。
---
「すみません。でも、もう無理です」
---
山本は、泣きそうな顔をしていた。
---
「あと一週間、いや、3日でいい。このプロジェクトが終わるまで、待ってくれ」
---
「……」
---
「頼む」
---
俺は、頭を下げた。
---
山本は、しばらく黙っていた。
---
そして、小さく頷いた。
---
「3日だけですからね」
---
「ありがとう」
---
俺は、頭を上げた。
---
山本の目には、諦めがあった。
---
水曜日の夜。
俺は、会社の仮眠室で横になっていた。
---
体が、鉛のように重かった。
目を閉じても、眠れなかった。
---
スマホが鳴った。
---
美咲からの着信。
---
俺は、出た。
---
「もしもし」
---
「……今、大丈夫?」
---
美咲の声は、疲れていた。
---
「ごめん、今ちょっと忙しくて」
---
「そう」
---
沈黙。
---
「颯太がね、パパに会いたいって言ってる」
---
その言葉が、胸に刺さった。
---
「……ごめん」
---
「いつ帰れるの?」
---
「わからない。今週いっぱいは無理かも」
---
「そう」
---
また、沈黙。
---
「ねえ」
---
美咲が、言った。
---
「これ、いつまで続くの?」
---
俺は、何も答えられなかった。
---
「あなた、最近ずっとこうだよね。家にいない。颯太の顔も見ない。私とも話さない」
---
「……」
---
「これが、あなたの望んだ生活なの?」
---
美咲の声が、震えていた。
---
「違う」
---
俺は、言った。
---
「俺だって、こんなの望んでない」
---
「じゃあ、何で変えないの?」
---
「変えられないんだよ」
---
俺の声が、大きくなった。
---
「仕事があるんだ。責任があるんだ。お前と颯太を食わせなきゃいけないんだ」
---
「私たちは、お金だけあればいいわけじゃない」
---
美咲が、言い返した。
---
「颯太は、パパが必要なの。私も、あなたが必要なの」
---
「……」
---
「でも、あなたはいつもいない」
---
美咲の声が、泣いているように聞こえた。
---
「ごめん」
---
俺は、それしか言えなかった。
---
「『ごめん』って言えば、許されると思ってるの?」
---
「……」
---
「もういいよ。もう、諦めたから」
---
その言葉が、一番痛かった。
---
諦めた。
---
美咲が、俺を諦めた。
---
「美咲……」
---
「無理しないでね」
---
美咲は、そう言って電話を切った。
---
俺は、仮眠室の天井を見た。
---
何も見えなかった。
暗くて、何も。
---
美咲の言葉が、頭の中で繰り返された。
---
「もう、諦めたから」
---
俺は、何をしているんだろう。
---
家族のために働いている。
そう思っていた。
---
でも、家族は俺を必要としていない。
いや、必要としているのに、俺がそばにいない。
---
俺は、父親と同じことをしている。
---
家族のため、と言いながら、家族から逃げている。
---
その事実が、俺を押しつぶした。
---
金曜日。
納品の日。
---
俺たちは、なんとか間に合わせた。
---
午後3時。
クライアントにデータを送信した。
---
山田から、返信が来た。
---
「確認します」
---
それだけ。
---
俺は、椅子に深く座った。
---
終わった。
やっと、終わった。
---
でも、達成感はなかった。
---
ただ、空虚だった。
---
田中が、デスクに突っ伏していた。
山本は、すでに帰っていた。
「3日だけ」と言った約束を守って、今日で辞める。
---
俺は、一人残された。
---
オフィスは、静かだった。
---
窓の外を見た。
---
夕日が、ビルの向こうに沈んでいく。
---
美しい夕日だった。
---
でも、俺の心は、暗かった。
---
午後6時。
クライアントから連絡が来た。
---
「問題ありません。これで完了とします」
---
それだけ。
---
「お疲れ様でした」も、「ありがとうございました」もなかった。
---
俺は、スマホを置いた。
---
終わった。
本当に、終わった。
---
でも、次のプロジェクトが、もう待っている。
---
来週から、また新しい地獄が始まる。
---
俺は、立ち上がった。
---
ふらついた。
---
いつ、ちゃんと寝たか、思い出せなかった。
---
いつ、ちゃんと食べたか、思い出せなかった。
---
いつ、颯太と話したか、思い出せなかった。
---
家に帰ったのは、午後8時だった。
---
玄関を開けると、リビングから声が聞こえた。
---
颯太の笑い声。
---
俺は、リビングに向かった。
---
颯太が、美咲と一緒におもちゃで遊んでいた。
---
「ただいま」
---
俺が言うと、颯太が顔を上げた。
---
「パパ!」
---
颯太が、駆け寄ってきた。
---
俺は、颯太を抱き上げようとした。
---
でも、力が入らなかった。
---
「ごめん、颯太。パパ、疲れてるから」
---
颯太は、不思議そうな顔をした。
---
「パパ、いつも疲れてるね」
---
その言葉が、胸に刺さった。
---
「……ごめんな」
---
颯太は、俺の手を握った。
---
「パパ、大丈夫?」
---
3歳の子どもに、心配されている。
---
俺は、情けなかった。
---
「大丈夫だよ」
---
嘘をついた。
---
大丈夫じゃなかった。
---
夜、颯太が寝た後、美咲と2人でリビングにいた。
---
沈黙。
---
重い沈黙。
---
「ねえ」
---
美咲が、口を開いた。
---
「このままじゃ、ダメだと思う」
---
俺は、美咲を見た。
---
美咲の目には、決意があった。
---
「何が」
---
「私たち。家族」
---
美咲は、言った。
---
「あなたは、家族のために働いてるって言う。でも、家族は壊れてる」
---
「……」
---
「颯太は、パパがいつも疲れてることを知ってる。パパが自分と遊んでくれないことも知ってる」
---
美咲の声が、震えた。
---
「私も、もう限界」
---
その言葉が、重かった。
---
「一人で、颯太の世話して、家事して、仕事もして。あなたは、何もしてくれない」
---
「……ごめん」
---
「『ごめん』はいらない」
---
美咲は、言い切った。
---
「私が欲しいのは、あなたが家にいてくれることだけ」
---
俺は、何も言えなかった。
---
「でも、あなたにはそれができない。わかってる」
---
美咲は、俺から目を逸らした。
---
「だから、もう諦めた」
---
また、その言葉。
---
諦めた。
---
俺は、美咲に諦められた。
---
その夜、俺は一人でベランダに出た。
---
夜風が、冷たかった。
---
空を見上げた。
---
星は、見えなかった。
東京の空は、明るすぎて、星が見えない。
---
俺は、手すりに手をついた。
---
体が、重かった。
心が、重かった。
---
俺は、何をしているんだろう。
---
家族を守るために、働いている。
そう思っていた。
---
でも、家族は壊れている。
---
颯太は、俺を見ても、嬉しそうじゃない。
美咲は、俺を諦めている。
---
俺は、何を守っているんだ。
---
何も、守れていない。
---
俺は、ただ、壊れているだけだ。
---
父親と、同じように。
---
スマホが鳴った。
---
母親からだった。
---
俺は、電話に出た。
---
「もしもし」
---
「あなた、お父さんの検査結果が出たの」
---
母親の声は、震えていた。
---
「どうだった」
---
「……あまり、良くないみたい」
---
俺は、息を止めた。
---
「病名は、まだはっきりしないけど、精密検査が必要だって」
---
「そうか」
---
「来週、また病院に行くの。一緒に来てくれる?」
---
「……わかった。行く」
---
「ありがとう」
---
母親は、電話を切った。
---
俺は、スマホを握りしめた。
---
父親が、病気かもしれない。
---
その事実が、重かった。
---
父親を許せない。
でも、父親が病気だと聞くと、胸が痛んだ。
---
この矛盾が、俺を苦しめた。
---
俺は、ベランダの手すりにもたれかかった。
---
風が、頬を撫でた。
---
冷たくて、でも、少しだけ心地よかった。
---
俺は、これからどうすればいいんだろう。
---
その答えは、出なかった。
---
ただ、一つだけ、わかったことがあった。
---
このままじゃ、ダメだ。
---
何かを、変えなきゃいけない。
---
でも、何を変えればいいのか。
---
どうすれば、変えられるのか。
---
俺には、わからなかった。
---
俺は、ただ、夜空を見上げ続けた。
---
星のない、暗い空を。
---
(第5章・了)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます