第3章:父の異変
それから2週間後、俺は実家に帰った。
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土曜日の午後。
新幹線に乗って、3時間。
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車窓から見える景色は、子どもの頃と変わらなかった。
田んぼ。
山。
小さな町。
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でも、俺は変わった。
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30を過ぎて、家族を持って、仕事に追われて。
気づけば、父親と同じ年齢に近づいている。
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駅に着いた。
実家まで、歩いて15分。
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俺は、ゆっくりと歩いた。
急ぐ理由はなかった。
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実家の玄関の前で、俺は立ち止まった。
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古い家。
俺が育った家。
何も変わっていない。
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チャイムを押した。
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しばらくして、母親が出てきた。
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「あら、来たの」
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母親は、少し驚いた顔をした。
でも、すぐに笑顔になった。
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「連絡くれればよかったのに」
「急に決めたから」
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俺は、家に入った。
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玄関の匂い。
リビングの匂い。
すべてが、懐かしかった。
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「お父さんは?」
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俺が聞くと、母親の顔が曇った。
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「二階。部屋にいるわ」
「体調は?」
「……本人は、何も言わないけど」
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母親は、少し言葉を濁した。
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「やっぱり、おかしいの?」
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母親は、頷いた。
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「最近、物忘れが多いの。昨日も、鍵をどこに置いたか忘れて、1時間探してた」
「病院は?」
「行かないって。頑固なのよ」
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俺は、ため息をついた。
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父親らしい。
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「ちょっと、見てくるわ」
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俺は、階段を上がった。
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父親の部屋の前で、俺は少し躊躇した。
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ノックする。
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「……誰だ」
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父親の声。
低くて、掠れた声。
以前より、弱々しく聞こえた。
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「俺だよ」
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沈黙。
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「入れ」
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俺は、ドアを開けた。
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父親は、ベッドに座っていた。
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窓の外を見ていた。
俺が入っても、振り返らなかった。
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「久しぶり」
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俺が言うと、父親は小さく頷いた。
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「座れ」
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俺は、部屋の隅にある椅子に座った。
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父親を見た。
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痩せていた。
3年前より、明らかに痩せていた。
頬がこけて、目が落ち窪んでいる。
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「体調、悪いのか」
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俺が聞くと、父親は首を横に振った。
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「悪くない」
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嘘だ。
見れば分かる。
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「母さんが心配してる。病院、行ったほうがいいんじゃないか」
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父親は、何も答えなかった。
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「父ちゃん」
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俺が言うと、父親はやっと俺の方を向いた。
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その目は、疲れていた。
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「病院行っても、どうせ何も変わらん」
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父親は、そう言った。
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「歳だ。体が言うこと聞かなくなってきた。それだけだ」
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「それだけじゃないだろ。母さん、心配してるぞ」
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「心配させたくて、病院行かないわけじゃない」
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父親は、また窓の外を見た。
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「行って、悪いもんが見つかったら、それはそれで心配させる。だったら、行かない方がマシだ」
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俺は、何も言えなくなった。
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父親の論理は、間違っている。
でも、俺には反論できなかった。
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なぜなら、俺も同じことをしているから。
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体調が悪くても、病院に行かない。
「大丈夫だ」と自分に言い聞かせる。
「まだ大丈夫だ」と。
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父親と、同じだ。
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「仕事は?」
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俺が聞くと、父親は少しだけ顔を歪めた。
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「……辞めた」
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俺は、息を止めた。
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「辞めた?」
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「先月。定年前だが、辞めさせてもらった」
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父親は、淡々と言った。
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「どうして」
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「ミスが多くなった。若い連中に迷惑かけるわけにいかん」
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父親の声には、悔しさがあった。
でも、それ以上に、諦めがあった。
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「父ちゃん……」
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俺は、何を言えばいいのか分からなかった。
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父親は、一生働き続ける人間だと思っていた。
定年まで、いや、定年を過ぎても、働き続ける人間だと。
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でも、違った。
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父親も、限界があった。
父親も、壊れる。
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「後悔はないのか」
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俺は、聞いた。
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父親は、長い沈黙の後、答えた。
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「後悔してないと言ったら、嘘になる」
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その言葉が、重かった。
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「もっと、違う働き方があったかもしれん。もっと、家族と過ごす時間を作れたかもしれん」
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父親は、俺を見た。
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「お前が子どもの頃、運動会にも参観日にも、ほとんど行けなかった。それは、後悔してる」
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俺は、何も言えなかった。
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父親が、そんなことを考えていたのか。
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「でも」
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父親は続けた。
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「それでも、俺はあの働き方しかできなかった。それが、俺の家族の守り方だった」
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俺は、胸が苦しくなった。
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父親も、苦しんでいたのか。
父親も、後悔していたのか。
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でも、それを誰にも言わずに、ずっと働き続けた。
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「父ちゃんは、間違ってたと思うか」
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俺が聞くと、父親は少し考えた。
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「わからん」
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そして、また窓の外を見た。
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「わからんが、もう戻れん。だから、考えても仕方ない」
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その言葉が、俺の心に突き刺さった。
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俺は、父親の部屋を出た。
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階段を降りると、母親が待っていた。
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「どうだった?」
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俺は、正直に答えた。
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「仕事、辞めたって」
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母親は、頷いた。
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「知ってたわ。でも、本人が言わないから、私も聞かなかった」
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母親の顔には、疲れがあった。
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「お母さん、大変だったろ」
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俺が言うと、母親は首を横に振った。
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「大変じゃないわ。ただ……」
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母親は、少し言葉を濁した。
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「お父さんが、弱っていくのを見るのが、つらいの」
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俺は、何も言えなかった。
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「あの人、ずっと強い人だったから。でも、最近は違う。何かに怯えてるみたいなの」
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「怯えてる?」
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「うん。夜中に、うなされてることもあるの。何か、夢を見てるみたい」
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俺は、胸が締め付けられた。
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父親が、怯えている。
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その姿が、想像できなかった。
でも、母親の言葉を聞いて、それが事実だと分かった。
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夕飯は、3人で食べた。
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テーブルを囲んで、黙々と食べた。
会話は、ほとんどなかった。
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父親は、あまり食べなかった。
箸を動かすのも、遅かった。
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母親が、心配そうに父親を見ていた。
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「お父さん、もっと食べなきゃ」
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「食えん。腹が空かん」
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父親は、そう言って、箸を置いた。
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俺は、自分の皿を見た。
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父親が、こんなに小さく見えたことはなかった。
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食事が終わって、父親は二階に上がっていった。
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俺と母親だけが、リビングに残った。
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「お父さん、本当に大丈夫なのかな」
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俺が聞くと、母親は首を横に振った。
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「わからない。でも、私にできることは、そばにいることだけ」
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母親の目には、涙が浮かんでいた。
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「お母さん……」
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「ごめんね。弱音吐いちゃって」
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母親は、目元を拭った。
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「でもね、あなたに来てもらえて、嬉しかったわ。お父さんも、きっと嬉しかったと思う」
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俺は、何も言えなかった。
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嬉しかったのか。
父親は。
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わからなかった。
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夜、俺は自分の部屋に戻った。
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子どもの頃の部屋。
何も変わっていない。
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ベッドに座って、スマホを見た。
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美咲からLINEが来ていた。
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「お義父さん、大丈夫?」
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俺は、返信した。
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「わからない。でも、思ったより弱ってる」
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既読がついて、すぐに返信が来た。
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「そっか。無理しないでね」
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俺は、スマホを置いた。
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窓の外を見た。
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実家の庭。
子どもの頃、ここで遊んだ。
父親と、キャッチボールをした記憶がある。
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でも、それは数えるほどしかなかった。
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父親は、いつも忙しかった。
いつも、疲れていた。
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俺は、父親のことが嫌いだった。
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でも、今、父親が弱っているのを見ると、胸が痛んだ。
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これは、何なんだ。
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憎んでいたはずなのに。
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でも、父親が壊れていくのを見るのは、つらい。
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夜中、物音で目が覚めた。
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時計を見ると、午前2時だった。
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廊下から、誰かの足音が聞こえた。
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俺は、ベッドから起き上がった。
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ドアを開けて、廊下を見た。
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父親が、階段を降りようとしていた。
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「父ちゃん?」
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俺が声をかけると、父親は振り返った。
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その目は、焦点が合っていなかった。
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「どうした?」
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俺が近づくと、父親は少し驚いた顔をした。
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「……お前か」
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「どこ行くんだ?」
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「トイレ……だったか?」
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父親は、自信なさげに言った。
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「トイレは、そっちじゃないだろ」
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俺が指さすと、父親は少し混乱した顔をした。
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「……そうか」
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父親は、俺が指さした方向に歩き出した。
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俺は、父親の後ろ姿を見た。
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ふらついていた。
壁に手をついて、ゆっくりと歩いている。
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これが、父親なのか。
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あの、強かった父親が。
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俺は、胸が苦しくなった。
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翌朝、俺は母親に昨夜のことを話した。
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母親は、深刻な顔をした。
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「やっぱり、病院に行かせないと」
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「どうすれば行ってくれるかな」
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「わからない。でも、このままじゃ……」
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母親は、言葉を濁した。
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俺は、二階を見上げた。
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父親は、まだ部屋にいる。
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俺は、決めた。
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「俺から、もう一度話してみる」
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母親は、心配そうに俺を見た。
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「無理しないでね」
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俺は、頷いた。
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そして、階段を上がった。
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父親の部屋の前で、俺はノックした。
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返事がなかった。
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もう一度、ノックした。
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「入れ」
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俺は、ドアを開けた。
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父親は、ベッドに座っていた。
窓の外を見ていた。
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「父ちゃん」
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俺が言うと、父親は振り返った。
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「病院、行こう」
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俺は、まっすぐに言った。
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父親は、首を横に振った。
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「いらん」
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「いらなくない。昨夜、トイレの場所、わからなかっただろ」
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父親は、何も言わなかった。
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「このまま放っておいたら、もっと悪くなる。母さんも心配してる」
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「……」
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「俺も、心配してる」
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その言葉が、口から出た。
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父親は、俺を見た。
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「お前が?」
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その声には、驚きがあった。
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「ああ。俺も、心配してる」
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父親は、少し考えていた。
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そして、小さく頷いた。
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「……わかった。行く」
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俺は、安堵した。
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「ありがとう」
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父親は、何も言わなかった。
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ただ、また窓の外を見た。
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俺は、父親の横顔を見た。
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この人も、怖いんだ。
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病院に行くのが。
悪いものが見つかるのが。
自分が壊れていくのが。
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父親も、俺と同じように、怖がっているんだ。
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その事実が、俺の心を揺さぶった。
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(第3章・了)
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