第2章:会社の現実
月曜日の朝、俺は颯太の寝顔を見ずに家を出た。
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6時。
まだ薄暗い。
颯太も美咲も、まだ寝ている。
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玄関で靴を履きながら、リビングを振り返った。
静かだった。
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行ってきます、と声に出して言おうとした。
でも、やめた。
起こしてしまうかもしれない。
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俺は、静かにドアを閉めた。
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会社に着いたのは、七時半だった。
オフィスには、まだ誰もいない。
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俺は自分のデスクに座り、パソコンを起動した。
画面が明るくなる。
メールの未読が、83件。
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週末の間に、これだけ溜まっていた。
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俺は、一つずつ開いていった。
クライアントからの問い合わせ。
部下からの報告。
上司からの指示。
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どれも、「急ぎ」とか「至急」とか書いてある。
全部が緊急なら、何も緊急じゃないのと同じだ。
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でも、対応しなきゃいけない。
俺が対応しなければ、誰もしない。
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9時を過ぎると、オフィスに人が増え始めた。
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部下の田中が、俺のデスクに来た。
「おはようございます」
「おはよう」
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田中は、20代後半の男だった。
入社3年目。
真面目だが、要領が悪い。
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「あの、先週のプロジェクトの件なんですが」
田中が、申し訳なさそうに言った。
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俺は、嫌な予感がした。
「どうした?」
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「納期、間に合わないかもしれません」
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俺は、息を止めた。
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「どういうこと?」
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「クライアントからの仕様変更が多すぎて、開発が追いつかないんです」
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仕様変更。
またか。
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今回のクライアントは、とにかく細かかった。
打ち合わせのたびに、新しい要望を追加してくる。
「ここをもっとこうしてほしい」
「やっぱりこっちの方がいい」
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最初の仕様書とは、もう別物になっていた。
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「納期は?」
「今週の金曜日です」
「今日、月曜日だぞ」
「はい……」
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田中は、うつむいた。
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俺は、頭を抱えたくなった。
でも、抑えた。
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「わかった。今日中に、クライアントに連絡する。納期の延長を交渉してみる」
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田中は、少しだけ安堵した顔をした。
「すみません」
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「いいよ。お前のせいじゃない」
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でも、心の中では思っていた。
もっと早く報告しろよ。
週末の間、何やってたんだよ。
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でも、それを口に出すことはできなかった。
田中は、十分に追い詰められている顔をしていた。
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午前中、俺はクライアントに電話をかけた。
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「お世話になっております」
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相手は、クライアントの担当者、山田という男だった。
四十代。
声が大きくて、自分の意見を曲げない人間。
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「ああ、どうも」
山田の声は、いつも通り横柄だった。
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「実は、今週金曜日の納期なんですが、少し延長をお願いできないかと思いまして」
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沈黙。
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そして、山田が言った。
「は?」
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俺は、心臓が嫌な跳ね方をした。
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「仕様変更が多くて、開発が少し遅れてしまいまして」
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「仕様変更? あれは変更じゃなくて、最初から言ってたことだろ?」
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嘘だ。
最初の仕様書には、そんなこと書いていなかった。
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でも、俺は言い返せなかった。
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「申し訳ございません。ただ、現状としては金曜日は厳しい状況でして」
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「厳しいって、それはそっちの都合だろ? こっちは金曜日に役員にプレゼンがあるんだよ。それに合わせて納品してもらう約束だったよな?」
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「はい、それは承知しております。ただ——」
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「ただ、じゃねえよ。約束は守れよ。それがプロだろ?」
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俺は、何も言えなくなった。
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「とにかく、金曜日。それ以外は認めない」
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電話は、一方的に切られた。
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俺は、デスクに戻った。
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頭が痛かった。
目の奥がズキズキする。
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金曜日までに、納品しなきゃいけない。
でも、間に合わない。
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どうする。
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残業するしかない。
部下にも、残業してもらう。
徹夜になるかもしれない。
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でも、それしかない。
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俺は、田中を呼んだ。
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「悪い。納期、延ばせなかった」
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田中の顔が、青ざめた。
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「今週、全員で残業する。終わるまで帰れない」
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田中は、何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
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その目には、諦めがあった。
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夜、10時を過ぎても、オフィスの電気は消えなかった。
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俺と、田中と、もう一人の部下、佐藤がまだ残っていた。
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佐藤は、20代前半の女性だった。
入社1年目。
まだ仕事に慣れていない。
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佐藤のパソコンの前で、俺は立ち止まった。
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「進んでる?」
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佐藤は、顔を上げた。
目が赤かった。
泣いていたのか。
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「すみません、もう少しかかります」
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声が震えていた。
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「無理すんなよ。わかんないことあったら、すぐ聞いて」
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佐藤は、頷いた。
でも、その顔には、限界が見えていた。
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俺は、自分のデスクに戻った。
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スマホを見ると、美咲からLINEが来ていた。
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「今日も帰れない?」
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既読はついていたが、俺はまだ返信していなかった。
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どう返せばいいのか、わからなかった。
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「ごめん、今週いっぱい遅くなる」
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そう打って、送信した。
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既読がついた。
でも、返信はなかった。
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金曜日。
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納品の日。
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俺は、ほとんど寝ていなかった。
木曜日の夜は、会社に泊まった。
仮眠室で、2時間だけ寝た。
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田中も、佐藤も、同じだった。
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朝、佐藤が倒れた。
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トイレから戻ってこないと思ったら、床に座り込んでいた。
顔が真っ白だった。
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「佐藤!」
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俺は駆け寄った。
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「大丈夫か」
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佐藤は、首を横に振った。
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「めまいが……」
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「病院行け。今すぐ」
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佐藤は、涙を流しながら言った。
「すみません……すみません……」
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「謝るな。お前は十分頑張った」
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俺は、タクシーを呼んだ。
佐藤を病院に送った。
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そして、オフィスに戻った。
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納品は、今日中。
待ってはくれない。
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なんとか、納品した。
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午後5時。
ギリギリだった。
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クライアントに、データを送信した。
山田から、一言だけ返信が来た。
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「確認します」
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それだけ。
「お疲れ様」も、「ありがとう」もなかった。
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俺は、椅子に深く座った。
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終わった。
やっと、終わった。
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でも、達成感はなかった。
ただ、疲れただけだった。
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田中が、俺のデスクに来た。
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「お疲れ様でした」
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その声は、疲れ切っていた。
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「お疲れ。今日は早く帰れ」
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田中は、頷いた。
でも、動かなかった。
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「どうした」
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田中は、少し躊躇してから、言った。
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「課長、これ、いつまで続くんですか」
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俺は、何も答えられなかった。
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いつまで続くのか。
わからない。
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「わからない」
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正直に言った。
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「でも、これが仕事だ。やるしかない」
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田中は、何も言わなかった。
ただ、うつむいた。
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そして、小さな声で言った。
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「俺、辞めようかと思ってます」
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俺は、息を止めた。
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「辞める?」
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「はい。もう、限界です」
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田中の目には、涙が浮かんでいた。
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「もう少し、頑張れないか」
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俺は、そう言った。
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でも、その言葉は、自分でも嘘だと分かっていた。
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頑張れって、何を頑張るんだ。
これ以上、どう頑張れっていうんだ。
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田中は、首を横に振った。
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「すみません。もう、無理です」
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そう言って、田中は去っていった。
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俺は、一人デスクに残された。
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夜、家に帰った。
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10時を過ぎていた。
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玄関を開けると、真っ暗だった。
美咲も颯太も、もう寝ている。
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俺は、靴を脱いで、リビングに入った。
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テーブルの上に、ラップをかけた皿があった。
夕飯だ。
冷めている。
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俺は、それを電子レンジで温めた。
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一人で、食べた。
味がしなかった。
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食べ終わって、颯太の部屋を覗いた。
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颯太は、布団の中で寝ていた。
小さな寝息。
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俺は、颯太の顔を見た。
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この子のために、働いている。
この子を、守るために。
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でも、俺は颯太を見ていない。
俺は、颯太と話していない。
俺は、颯太の父親として、何もしていない。
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これは、何なんだ。
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俺は、颯太の部屋を出た。
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寝室に入ると、美咲が寝ていた。
俺に背を向けて。
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俺は、そっとベッドに入った。
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美咲は、動かなかった。
起きているのか、寝ているのか、わからなかった。
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「ただいま」
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小さな声で言った。
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美咲は、答えなかった。
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俺は、天井を見上げた。
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俺は、何をしているんだろう。
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その答えは、出なかった。
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ただ、一つだけ、わかったことがあった。
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俺は、父親と同じことをしている。
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家族のため、と言いながら、家族から逃げている。
仕事のため、と言いながら、自分を削っている。
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父親と、同じだ。
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その事実が、俺を苦しめた。
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でも、どうすればいいのか、わからなかった。
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俺は、目を閉じた。
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眠れなかった。
でも、目を閉じ続けた。
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朝が来るのが、怖かった。
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(第2章・了)
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