【ヒューマンドラマ】父ちゃんと俺――許せないまま、それでも生きる
マスターボヌール
第1章:父ちゃんの背中
俺が物心ついた頃から、父親の背中は遠かった。
朝、目が覚めると、父親はもういなかった。
夜、寝る前に帰ってくることもあったが、たいていは俺が寝た後だった。
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父親の記憶は、断片的だ。
玄関で靴を履く後ろ姿。
リビングのソファで、疲れた顔で寝ている姿。
休日、テレビを見ながら、何も言わずに座っている姿。
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父親は、製造業の現場監督だった。
工場で、機械と人を管理する仕事。
朝は早く、夜は遅い。
休日も、トラブルがあれば現場に呼ばれる。
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母親は、よく言っていた。
「お父さんは忙しいの」
「お父さんは、私たちのために働いてくれてるの」
「だから、文句言っちゃダメよ」
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俺は、文句を言わなかった。
でも、心の中では思っていた。
「父ちゃんは、いつも家にいない」
「父ちゃんは、俺のことを見ていない」
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小学校の運動会。
父親は来なかった。
参観日。
父親は来なかった。
卒業式。
父親は来た。
でも、式が終わるとすぐに帰った。
「仕事がある」と言って。
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俺は、父親のことが嫌いだった。
いや、嫌いというより、よく分からなかった。
父親が何を考えているのか。
父親が何のために生きているのか。
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中学の時、一度だけ父親に聞いたことがある。
「父ちゃん、何でそんなに働いてるの?」
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父親は、新聞を読みながら答えた。
「お前らを食わせるためだ」
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それだけだった。
それ以上、何も言わなかった。
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俺は、その答えに納得できなかった。
食わせるため?
それだけ?
他に、何もないのか?
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でも、聞き返すことはできなかった。
父親の顔を見ると、それ以上何も聞いてはいけない気がした。
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高校を卒業して、俺は東京の大学に進んだ。
実家を出た。
父親から離れた。
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一人暮らしは、自由だった。
誰にも文句を言われない。
誰にも干渉されない。
好きな時に寝て、好きな時に起きる。
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父親のいない生活。
それは、思っていたより快適だった。
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大学を出て、俺はIT企業に就職した。
父親とは違う業界。
父親とは違う働き方。
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俺は、父親みたいにはならない。
そう決めていた。
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もっとスマートに働く。
もっと効率的に働く。
家族との時間も、ちゃんと作る。
父親みたいに、家族を後回しにしない。
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そう、思っていた。
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現実は、甘くなかった。
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入社して3年目。
俺はプロジェクトマネージャーになった。
5人の部下を抱えて、クライアントとの窓口を任された。
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最初は、やりがいを感じていた。
責任のある仕事。
自分の裁量で動かせる仕事。
これが、俺の望んでいた働き方だと思った。
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でも、すぐに分かった。
これは地獄だった。
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クライアントからの無茶な要求。
「来週までに仕様変更できる?」
「できません」とは言えない。
「やります」と答える。
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部下からの報告。
「間に合いません」
「バグが出ました」
「体調が悪いです」
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俺が何とかしなきゃいけない。
俺が責任を取らなきゃいけない。
俺が、全部背負わなきゃいけない。
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気づけば、毎日終電。
休日も、自宅で仕事。
スマホの通知が鳴るたびに、心臓がドキッとする。
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これは、父親と同じじゃないか。
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その考えが、頭をよぎった。
でも、すぐに打ち消した。
違う。
俺は父親とは違う。
業界も違うし、働き方も違う。
父親みたいな、古い働き方はしていない。
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そう、自分に言い聞かせた。
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美咲と結婚したのは、入社して5年目だった。
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美咲は、同じ会社の営業部にいた。
明るくて、しっかりしていて、俺の不器用さを笑い飛ばしてくれる人だった。
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プロポーズは、あっけなかった。
居酒屋で、二人で飲んでいる時。
俺が、唐突に言った。
「結婚しようか」
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美咲は、少し驚いた顔をして、それから笑った。
「それ、プロポーズ?」
「……うん」
「もうちょっと、ロマンチックにできなかったの?」
「ごめん」
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美咲は、首を横に振った。
「いいよ。あなたらしいから」
そして、頷いた。
「結婚しよう」
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結婚式には、両親を呼んだ。
父親は、スーツを着て来た。
見慣れない姿だった。
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父親は、俺に何も言わなかった。
「おめでとう」も、「幸せにな」も。
ただ、一度だけ、俺の肩に手を置いた。
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その手は、重かった。
何を意味しているのか、分からなかった。
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颯太が生まれたのは、結婚して2年目だった。
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3月の夜。
美咲が陣痛を訴えて、俺は慌てて病院に車を走らせた。
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待合室で、何時間も待った。
落ち着かなかった。
スマホをいじっても、何も頭に入ってこなかった。
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やがて、看護師が呼びに来た。
「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」
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俺は、分娩室に入った。
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美咲が、疲れた顔で笑っていた。
その腕の中に、小さな赤ん坊がいた。
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颯太。
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俺の息子。
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看護師が、俺に抱かせてくれた。
「首を支えてくださいね」
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俺は、恐る恐る颯太を抱いた。
軽かった。
こんなに軽くて、大丈夫なのか。
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颯太は、目を閉じていた。
小さな口を少し開けて、寝息を立てていた。
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その瞬間、俺の中で何かが変わった。
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「この子を、守らなきゃ。」
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その思いが、俺を支配した。
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颯太が生まれてから、俺の働き方は変わった。
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いや、変わったというより、悪化した。
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「稼がなきゃ。」
「家族を養わなきゃ。」
「颯太のために、もっと頑張らなきゃ。」
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その思いが、俺を追い立てた。
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残業は増えた。
休日出勤も増えた。
家にいる時間は、どんどん減っていった。
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美咲は、何も言わなかった。
でも、その目には、少しずつ諦めが見え始めていた。
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颯太は、すくすくと育った。
1歳で歩き始めた。
2歳で、「パパ」と呼んでくれた。
3歳で、保育園に入った。
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俺は、そのすべてを見逃していた。
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颯太の誕生日。
俺は、仕事で遅れた。
家に着いた時には、颯太はもう寝ていた。
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美咲が、冷たい目で俺を見た。
「颯太、ずっと『パパまだ?』って聞いてたよ」
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俺は、何も言えなかった。
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「ごめん」
その言葉しか、出なかった。
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美咲は、ため息をついた。
「もういいよ。慣れたから」
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その「慣れた」という言葉が、胸に刺さった。
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ある日、実家から電話がかかってきた。
母親からだった。
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「お父さんがね、最近様子がおかしいの」
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俺は、スマホを耳に当てたまま、聞いた。
「どうおかしいの?」
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「忘れ物が多いのよ。それに、仕事でミスをしたみたいで」
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父親が、ミスをする?
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父親は、俺が知る限り、ミスをしない人間だった。
黙々と働いて、文句も言わず、ミスもしない。
そういう人間だった。
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「病院には?」
「本人が行かないって。『大丈夫だ』って」
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俺は、苦笑した。
父親らしい。
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「わかった。今度、実家帰るよ」
「そう。ありがとう」
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電話を切った後、俺は考えた。
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父親が、壊れている。
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その事実が、なぜか、俺を不安にさせた。
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父親は、いつまでも強いと思っていた。
いつまでも、あの頑固で、不器用で、でも頑丈な人間だと思っていた。
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でも、違った。
父親も、老いる。
父親も、壊れる。
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そして、俺の中で、ある疑問が浮かんだ。
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「俺も、同じように壊れるのか。」
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その疑問は、すぐには答えが出なかった。
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でも、心の奥底で、俺はすでに知っていた。
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俺は、すでに壊れ始めている。
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(第1章・了)
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