第2話『坂本隆――前世の影』

坂本隆。

それが、ルミエが「前世」で名乗っていた名前だ。

ルミエが空を見上げていたあの夜――

胸の奥で、ゆっくりとその記憶がほどけていく。


***


坂本家は、ごく普通の家庭だった。

少し過干渉気味だが、世間で言えば「教育熱心」の範疇に入る両親。

勉学優秀で、地元でも有名な秀才の兄。

中学から頭角を現し、スポーツ推薦で強豪校へ進んだ弟。

その二人のあいだに挟まれた、どこにも尖っていない次男坊――

それが、隆だった。

兄や弟と比べられて責められたことは、ほとんどない。

両親も親戚も、あからさまに隆を貶したりはしなかった。

だからこそ、余計にきつかった。

兄は期待を背負い、さらに結果を重ね、ますます輝いた。

弟は才能を磨き、プレッシャーを力に変え、活躍の場を広げていった。

両親や親戚が、集まるたびにその話題で盛り上がるのを、

隆は何度も聞いていた。

『すごいよな』と口では言いながら、胸の奥ではずっと小さな棘が疼いていた。

彼自身のスペックは――自認するに、頭は「下の上」、顔も「下の上」。

兄弟と並べば一目で差が分かるくらいには、凡庸だった。

何より、産まれつきの性格が致命的だった。

根暗で、人付き合いが苦手で、一人が好き。

中学も、高校も、大学も。

「友達」と胸を張って呼べる相手は一人もいなかった。

(別にいいけどな……と、思ってた。

 ……まあ、今となっては「良くなかった」って分かるけど)

どうにか大学を卒業し、就職した会社は見事なブラック企業だった。

残業代は出ない。

責任だけは人一倍。

ミスの尻拭いを押し付けられ、客先のクレームも飛んできた。

それでも隆は、ギリギリのラインで踏ん張った。

怒鳴られれば頭を下げ、理不尽に耐え、

「まあ、世の中こんなもんだよな」と自分に言い聞かせて。

だが、ある日とうとう抱えきれなくなった責任を、

上司の一言で丸ごと背負わされ、心身ともにぷつんと音を立てた。

「……やってられるか」

そう呟いて、会社を辞めた。


***


だからといって、実家に帰る選択肢はなかった。

塾も行かず、最高峰の大学に受かり、一流企業で働き、

今は孫を連れて帰ってくる兄。

企業所属のプロ選手として、テレビにも出るようになった弟。

過干渉なはずの両親が、隆にだけは妙に距離を置いている空気。

(あれは……無理だ)

祝福されている家族の輪の、外側。

そこに戻る勇気は、どうしても出なかった。

結局隆は、地方都市の安アパートで一人暮らしを始めた。

仕事はコンビニの夜勤。

地方ゆえに深夜は客も少なく、ワンオペでどうにか回せる。

夜、黙々とレジを打ち、品出しをして、

たまに酔っぱらいや常連の老人と少し話す。

シフトが終われば、夜明け前の空を一瞬だけ見上げて、

そのままふらふらと帰宅する。

アパートに戻れば、

安い惣菜をつまみながら漫画を読み、動画を見て、ゲームをして、

SNSを巡回して、たまに酒を飲んで、眠る。

次の日も、その繰り返し。

モノクロの生活だった。

だが――それが「辛くない」という事実が、

隆にとっては何より堪えた。

(……この生活、割と嫌いじゃないんだよな)

仕事中も、必要最低限の会話だけで済む。

休みの日なんて、一日一言も発しないことすらある。

それでも、特別孤独だとも、寂しいとも感じない。

胸の奥のどこかでは「まあ、こんなもんでいいか」と思ってしまっている。

自分の「図太さ」と「諦観」が、時々ぞっとするほど嫌になった。

「どうして俺は、頑張れないんだろうな……」

勉強しても兄には届かない。

運動しても弟の足元にも及ばない。

容姿だって、磨いたところで、だ。

人生を振り返ってみれば――

「自分より明らかに下だ」と、心から思える相手と出会ったことは一度もない。

かといって、努力を積み重ねてきたわけでもない。

全力を尽くした経験など、数えるほどもない。

それでも本人は、

「まあ、別に死ぬほど不幸でもないしな」と、自嘲混じりに笑う。

反省はしても、徹底的な自己嫌悪までいかない――

徹底的に中途半端な性根。

「……もう、いいか」

その日も、同じようにため息を吐いて、

同じように夜勤から帰ってきて、

同じようにパソコンをつけた。


***


SNSのタイムラインに、ひときわ目立つ文字が流れてきた。

『高学歴俳優○○と美人女優□□、結婚!

 学生時代からの純愛、ついに実る!!』

「あ、この二人」

つい、声に出してしまう。

独りで過ごす時間が長いせいか、

隆の独り言の頻度は年々増していたが、本人ももう気にしていなかった。

この二人のことを、隆はよく知っていた。

俳優の男は、高校時代の生徒会長だ。

見た目も良く、頭も良く、明るくて、

いつも周りの中心で輝いていた。

女優の女は、学年一の美人として有名だった。

一年生の頃から「アイドル」と呼ばれ、

男子の憧れであり、女子の目標でもあった。

笑えば周囲がぱっと明るくなる、

そんな天性の華やかさを持った少女だった。

――そして、隆自身も、

こっそりと惹かれていた一人だった。

「……はー。この二人、結婚するのか」

缶チューハイを一口飲んで、

隆はぼそりと呟いた。

(まあ、俺には関係ないけど)

そう言いながらも、胸の奥がざわつく。

きっと二人は、誰もが羨むような家庭を築くのだろう。

祝福されながら、幸せな未来へ歩いていく。

クラスメイトだったこともあるが、

路傍の石のような自分のことを、記憶しているはずもない。

(俺なんて、あいつらの記憶に残ってるわけがないよな)

苦笑して、缶を傾ける。

羨ましくない。

――そう思っているはずなのに、

胸の真ん中にぽっかりと穴が開いたような感覚が広がる。

「……はー……くそ」

その空虚感を振り払うように、

勢いよく酒を流し込んだ。

イライラする。

モヤモヤする。

なぜ、こんなニュースでこんな気分になるのか。

ふと、兄と弟の顔が浮かんだ。

「ああ……そっか」

ようやく気づく。

自分は、ただ“羨ましい”だけなのだ。

兄も、弟も。

生徒会長も、学園のアイドルも。

みんな、それぞれの場所で努力していた。

才能がある上に努力もして、期待に応えて、

その結果として今がある。

では、自分はどうだ。

劣等感こそ抱いていたが、

それを埋めるための努力はしなかった。

友達を作るための一歩を踏み出しもしなかった。

(何もしてこなかったくせに、勝手に諦めて、勝手に納得して、

 このザマ)

「……はぁ……」

二本目の缶を開け、

隆は頬杖をつきながら虚ろな目でモニターを眺める。

「いいなぁ……あー、くっそ……」

キラキラと輝く他人の人生への羨望と、

何もしてこなかった自分への怒り。

それを、酒で薄めるように三本目をちびちび飲む。

(明日、絶対二日酔いだよな……)

そんな他人事のようなことを考えた、そのとき。

――ピンポーン。

気の抜けたチャイム音が、

狭いワンルームに響いた。

「……え?」

来客が来るはずがない。

管理会社やガス点検なら、事前に連絡がある。

この時間帯に訪れるのは、詐欺か、セールスか、宗教勧誘か――

あるいは。

――ピンポーン! ピンポーン! ピンポーン!

「うるさいって……!」

連打されるチャイムに、思考が掻き乱される。

酔っているせいで警戒心も鈍り、

隆は勢いのまま不用心にドアを開けた。

「え、と……こんばんは?」

「どうもどうも! こんばんは!

 ドアを開けていただき感謝いたします、はい!」

そこにいたのは、スーツ姿の小太りの男だった。

低姿勢で、にこにこ笑っているが、

その笑みはどこか慇懃無礼で、

全身から「怪しい」という文字がにじみ出ている。

「……うさんくさい」

素直な感想が、口をついて出た。

男は一瞬目を丸くした後、声を上げて笑う。

「おっと、おやぁ? 信用されてないようだなぁ!」

扉を閉めようとしたが、

男の手がドアをがっしりと押さえ、閉まらない。

「あの……帰ってくれませんか……?」

この日は店がやけに暇で、

隆はほとんど誰とも喋っていなかった。

もともと根暗で口下手。

初対面の相手に強く出るスキルなど、持ち合わせていない。

「まあまあ! いいではないですか! お暇なのでしょう?

 少しだけ、お時間を!」

「いや……暇じゃ……なくはないけど……迷惑なんですけど……」

「まあまあまあ!」

胡散臭さをまといながらも、

どこか安心させるバリトンの声色。

正面から見つめられると、思わず視線をそらしてしまう。

このまま玄関先で騒がれて、

近隣住民に妙な噂を立てられる方が、よほど怖かった。

「……じゃあ、その……どうぞ……」

「おお、これはこれは!

 ではお言葉に甘えて、失礼いたします!」

隆は――押しに弱い男だった。

***

「で、なんですか? その……セールスとかならお断りですよ」

「いえいえ! とんでもございません!」

男は軽い調子で返事をしながら、

ずかずかと部屋に上がり込むと、

勝手に冷蔵庫を開けてビールを二本取り出した。

「あ、あの……」

「まあまあ! まずは一杯やりましょう!」

自分の缶を開け、

隆の缶も当然のようにプルタブを引いて手渡す。

「……はぁ。まあ、いただきますけど……」

もうどうにでもなれ、という思いが強かった。

隆はおずおずと缶を受け取り、一口だけ飲む。

「あー! うまい! 仕事終わりの一杯は格別ですな!」

よく考えれば、男が飲んでいるのは隆のビールだ。

いつか飲もうと思いながら放置していたものを、勝手に消費されている。

普通なら文句の一つも言うべきだろうが、

今の隆はそこにまで思考を回す気力がなかった。

すすめられるままに二缶目を開け、

半分ほど飲んだところで、

男は自分の缶を飲み干し、軽く咳払いをした。

「さて、本題ですが」

「……本題?」

「実は私は、『悪魔』です」

「……はい?」

「ですから、『悪魔』なのでございますよ」

「……あー。招かれないと入れない、あの?」

どこかで読んだ小説の設定が頭をよぎる。

隆が半分独り言のように呟くと、男は仰々しく頷いた。

「おお! よくご存じだ! そう、招かれなければ入れないのですよ。

 いやぁ、ドアを開けていただき、本当に感謝しておりますとも」

「……そうですか」

(もういいや。全部夢ってことにしよう)

思考を放棄した隆は、残りのビールを飲み干し、缶を差し出した。

「おかわりください」

「おお、もちろん!」

男は嬉々として新しい缶を取り出して渡す。

それをまた半分ほど飲み下したところで、

ようやく少しだけ冷静さが戻ってきた。

「……で、その悪魔が俺に何の用ですか?」

隆が尋ねると、男はぱん、と手を叩き、にっこりと笑った。

「そう! 実はこちら、“セールス”に参ったのです!」

「帰ってください」

即答だった。

しかし男はまったく動じず、

むしろ嬉しそうに手をひらひらと振る。

「まあまあ! 聞くだけ聞いてくださいな!」

「……セールスって、なんですか?」

「ええ! もちろん、『あなたの願い』ですよ!」

「……はい?」

「ですから、『あなたの願い』を叶えに参ったのです!」

胡散臭さは限界を突破しているが、

男はお構いなしに続ける。

「まあ、突然こんなことを言われても困りますよね。

 ただ……あなたから実に“饐えた魂”の匂いがしましてね。

 これはぜひ頂戴したい! そう思いまして!」

「誉められてる気がしないんですけど」

「誉めてますとも! 我々にとってはご馳走ですから!

 そこで提案です。あなたの願いを叶えましょう。

 その代わり――あなたの寿命を、いただきたい!」

「なるほど」

理解したようで、まったく理解できない。

だが、漫画や小説でよく見るやつだと思えば、

飲み込めない話でもない。

「で、その願いって?」

酒の勢いもあってか、

つい興味が勝ってしまった。

狙い通りだったのだろう。

男の笑みが、ほんの少し獣じみた色を帯びる。

「ええ。富! 名声! 美男美女!

 ……という誘い文句は、もはや時代遅れでしてね。

 最近の人間は賢く、非生産的で、欲深で、なのに“無欲”で“無関心”!

 実に面白い!」

「……は? え? まあ、確かにいらない……かも」

富や名声、美男美女。

欲しくないわけではないが、

寿命を賭けるほどのものかと言われると、首をひねる。

「そこでです! 最近最も人気があるのが――『素敵な来世』!

 これに尽きます!

 新しい世界で、新しい肉体を持ち、新しい自分として人生を始める。

 どうです? 魅力的でしょう?」

「……異世界転生、みたいな?」

「おお、やはり話がわかる!

 人類の需要に合わせて商品を揃えるのが我々の仕事でしてね。

 転生先を弄るだけで契約が取れるのは、実に効率が良い!」

「……は、はあ」

「で! どうです? 契約します?」

満面の笑みで問いかけられ、

隆は口をつぐんだ。

異世界転生もの。

小説なり漫画なりアニメなり、そこそこ読んでいるジャンルだ。

もし自分が転生できるなら、という妄想も、

一度もしたことがないわけではない。

それに――

(このまま誰にも必要とされずに、

 ぼんやり生きて、気づいたら終わってました、っていうのも……な)

今の人生にしがみつくほどの未練があるかと言われると、正直微妙だった。

「おお、その顔! 興味はおありのようだ!」

「……でも、やっぱり寿命って言われるとちょっと怖いというか……

 それに異世界転生とか言われても、実感湧かないし」

隆の返答に、男は顎に手を添えて考えるふりをし、

ぱん、と手を叩いて大きく頷いた。

「それはそうでしょうとも。

 そこで! 次にどのような人生を送りたいかをお伺いして、

 それを叶えて差し上げようというわけです!

 もちろん、際限なくすべて――というわけにはいきません。

 あなたの寿命から得られる対価によって、多くも少なくもなるわけですが……」

「ええと、つまり、叶えられる願いに限度があると?」

「そう! 多くを望めば多くの寿命が、小さく望めばそれなりの寿命が。

 それぞれ対価となります。いかがでしょう?」

そう言われて、隆は少しだけ考え込んだ。

確かに“異世界転生”という言葉は魅力的だ。

だが、それは『新しい自分』という響きに惹かれているだけで、

その世界で何をしたいのかと言われると、特に思いつかない。

(まあでも、今ここでこの男とバカ話してるくらいなら、

 付き合ってやるのも一興か……)

半分は酔い、半分は本気で、

隆は口を開いた。

「あ、あの……例えば?」

「はい? ああ、そうですねぇ……剣と魔法の世界で勇者や英雄になるもよし、

 内政チートで国を動かすもよし。……あ、『内政チート』はご存じですか? ああ、知っている? ならば結構!

 スローライフでのんびりするもよし、

 はたまた魔王になって世界征服もよし!」

「まあ、それなら……」

どうせ酒の席の与太話だ。

適当に話を合わせても構わないだろう。

隆は、自分の思うままの「理想の自分」を、

ぽつりぽつりと口にした。

高校時代の美男美女カップルと、

彼らを取り囲むクラスメイトたちの笑顔が、

頭の片隅でぼんやりと浮かぶ。

「まずは見た目、かな。誰もが羨むような、そんな容姿になりたい」

「ほうほう!」

「次に、友達。たくさん欲しい。

 誰もが俺に好意を持ってくれて、皆優しくて、皆、俺を……愛してくれる」

そして――

かつて一度も真正面から愛情を向けてくれたことのない、

両親の姿も思い出す。

「ふむふむ! なるほどなるほど!」

男は話を聞き終えると、満足げにうんうん頷き、

どこからともなく分厚い手帳を取り出した。

ページをめくりながら、

時折ニヤニヤと笑う姿は、滑稽で、どこか不気味だった。

だが、隆はもう、細かいことを気にしない程度には酔っていた。

「よろしい! それであれば、あなたの寿命から換算して叶えられそうです!

 しかしですね、少しばかり足りない」

「足りない?」

「ええ。そこでどうでしょう。条件を付ける、というのは」

「条件?」

「魂の誓約、と言いますか、オプションというやつですよ。

 それを破ったら、来世でもあなたの魂、寿命をいただきに参ります!

 しかしまあ、破らなければどうということもありません。

 どうです? 素敵な未来のための先行投資!

 日本全国数多の人類の中から選ばれたあなたは幸運なのですよ? ぜひとも契約を!」

「まあ、それなら……」

「おお! ありがとうございます!」

男は隆の目をまっすぐ見つめながら、

どこからともなく一枚の紙を取り出した。

『契約書』

その文字が冒頭に記された紙を、

ゆっくりと隆の前に置く。

「さあ、お読みください。そして内容にご納得いただけましたら、署名と拇印を!

 そうすれば素敵な未来はあなたのものですよ!」

「……ええと」

冷静になってみれば――

さっき話した内容をその場で反映した書類など、

どう考えてもおかしい。

だが、酔いの回った隆には、

それを「当然の異常」として受け入れてしまうだけの鈍さがあった。

夢の中でどんな不合理も飲み込んでしまうように。

「『悪魔(以下「甲」とする)は、坂本隆(以下「乙」とする)の願いを、以下の条件を満たし叶えるものとする』……長いですね」

「契約書など、そのようなものですよ。ご自由にお読みください」

「……うーん」

これまでの人生で、スマホや賃貸の契約書すらまともに読んだことがない男だ。

小さな文字とややこしい言い回しが並ぶ文章など、

酔っ払いの頭に入ってくるはずもない。

流し読みを続けていると、

最後の一文だけが、妙に目に刺さった。

「あの、この『約束を破ってはいけない』って、なんですか?」

「こちらは先ほど申し上げた特約になります。

 誰かとの“約束”。それを守っている限り、あなたの来世は保証されていると言っても過言ではありませんです。はい」

うっかり流されそうになりながらも、

隆の中の、妙なところだけ慎重な性格が顔を出す。

こういう「悪魔との契約」系の話を読むたびに、

いつも気になっていた点だ。

「……その『約束を破る』って、どこからどこまでなんですかね?

 明日何時に集合って言われて寝坊したらアウト、ってことになるんですか?

 『君を守る』って約束して、その相手が事故にあって死んじゃったら、“守れなかった”ってカウントされるんですか?」

「おやおや。随分と小賢し……いえ、賢明ですね。

 確かに共通認識は重要。……ふむ」

男は少し目を細めた。

痛いところを突かれた、という表情だ。

契約については嘘は言えない。

尋ねられたことを曖昧にしたまま進めることもできない。

それが悪魔側のルールであり、破ることは許されない。

欲張って目の前の獲物を逃すよりは――と判断したのか、

男はほんのわずか残念そうな顔をしてから、肩をすくめた。

「ではこうしましょう。努力義務、という形に。

 不可抗力はカウントしません。あなたは守れる範囲で守ればよい。

 あなたが意図的に、意識的に約束を反故にしない限りはセーフといたしましょう」

「あ、そうですか」

「ええ。さあ、どうぞ読み進めてください。そしてよろしければサインを!」

「……えっと、あ、はい。まあ、それだったらいいです」

隆は、結局まともに読み込むことなく、

一番下の署名欄に自分の名前を書き込んだ。

「親指を見せていただいても?」

「え? あ、はい」

男が隆の親指にそっと触れる。

すると――傷もついていない皮膚から、

じわりと血がにじみ出た。

「それで、拇印をどうぞ!」

「はいはい」

今しがた起きた超常現象にも、

隆は大して驚かなかった。

(あー、夢だなこれ)

そう決めつけて、

ポン、と印鑑を押すように親指を契約書へ押しつけた。

「ありがとうございます! これで契約は成立です!」

男は署名入りの契約書を恭しく両手で掲げ、

大袈裟な所作で礼をした。

「では、誰からも愛される、望まれる存在に!

そんな素敵な来世をお約束いたします!

寿命もきっちり頂戴しましたし、条件は十分ですとも。

お酒もご馳走様でした! 私はこれにて!」

「あ、はい」

玄関まで見送る気力もなく、

隆はその場に座り込む。

男の姿が消えた部屋には、

空き缶と、アルコールと、

妙な現実感だけが残っていた。

「……まあ、どうせ夢だろ……」

呟きながら、ふらふらとベッドに向かう。

「寝よ寝よ……」

夢の中でさらに寝るようなことを言いながら、

そのまま布団へ倒れ込んだ。

深い眠りが、すぐに意識をさらっていく。

親指ににじんでいた血が、

紙に吸い込まれるように消えていくことにも気づかないまま。





***


「……あたま、いったぁ」

翌朝。

頭痛に苛まれながら、隆は目を覚ました。

着古した部屋着。

雑然と散らかったワンルーム。

見慣れた天井。

「……やっぱり夢、か」

昨日は随分飲んだ。

変な男に絡まれたような気もするが、

あんな非現実的な出来事、現実のわけがない。

隆はそう結論づけ、ゆっくり身を起こした。

寝過ぎたせいか、頭痛に加えて軽い吐き気もある。

台所に立ち、コップに水道水を汲んで一気に飲み干した。

少しだけ頭が冴える。

――同時に、昨日の記憶が鮮明に浮かんできた。

「……あー、でも夢だよな。悪魔とか言ってたし」

口に出して、自分に言い聞かせる。

考えるだけ無駄だ、と。

散らかった空き缶を片付けようと、

ビニール袋を手に取った、その時。

「……ん?」

普段はほとんど飲まないビールの空き缶が、

明らかに多い。

そこで――

昨日の会話が、はっきり蘇った。

『よろしい! それであればあなたの寿命から換算して叶えられそうです!

 しかしですね、少しばかり足りない』

多くを望めば多くの寿命が。

それでも「足りない」からと、後付けされた特約。

『約束を破ってはいけない』

つまり。

(……俺の寿命、全部突っ込んでも足りなかった、ってことか?)

「……超過、した?」

冗談みたいな考えが、頭の中で形になる。

夢のはず。

質の悪い酔っ払いの幻覚のはず。

だが、ビニール袋にぎっしり詰まった空き缶の数が、

それを否定してくる。

「え……?」

男の言葉が、ありありとよみがえる。

『では楽しい時間をどうもありがとうございます!

 お酒もご馳走様でした!』

――あの男は、確かに自分で酒を飲んでいた。

(……夢じゃ、ない……?)

酔いが覚めたはずの頭が、

再びぐらぐらと揺れ始める。

「いや、でも……そんな……」

慌てて部屋を見回すが、

当然ながら男の痕跡は何も残っていない。

契約書も、男が持ち去ってしまった。

理解の範疇を超えた出来事が、

じわじわと焦燥と後悔を広げていく。

「い、いや! これは夢だ!」

頭を振って、無理矢理思考を打ち切った。

そうしなければ、本当に壊れてしまいそうだった。

「っと、いけない。バイトの時間か……」

時計を見ると、出勤時間が迫っている。

とりあえず今は、いつも通りの生活を続けるしかない。

それから考えればいい――と、自分に言い聞かせ、

隆は身支度を整えて部屋を出た。

二階の自室から、一階へ続く階段を下りる。

――ズルッ。

「……あ」

足がもつれた。

次の瞬間、

後頭部に、鈍い衝撃。

そのまま身体が空中に放り出され、

階段をゴロゴロと転げ落ちていく。

コンクリートの床に叩きつけられた感触だけが、妙に鮮明だった。

「……っ」

声が出ない。

身体は微塵も動かないのに、

痛みは、どこにもなかった。

(あ……これ……やば――)

思考が途切れかけた時、

耳の奥に、聞き覚えのある声が響いた。

『確かに、あなたの寿命。頂戴しました。

 ――それでは、良き来世を』

その言葉を最後に、

坂本隆の世界は、静かに暗転した。

***

そして――その先で。

彼は“ルミエ”として目を覚ますことになる。

それが祝福か、呪いかも知らないままに。

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