第3話『祝福と予兆のなかで、少女は息をした』
暗闇。
だが、温かかった。
ぼんやりと意識が浮かぶ。
柔らかい布に包まれ、誰かの腕に抱かれている。
(……ここ、どこだ? 俺……死んだよな?)
瞼を動かそうとして、うまくいかない。
身体は鉛のように重いのに、やけに感覚だけは鋭い。
「……まあ……なんて、なんて愛らしい……」
頭の上で、震えた声がした。
驚きと陶酔がないまぜになった、若い女性の声。
「ルミエ様……光そのもの……どうしましょう、私……」
(ルミエ? 誰だそれ。俺のことじゃ……ない、よな?)
ゆっくりと視界がにじむように開く。
涙ぐみながら笑っている若い女性――乳母が、自分を抱いていた。
まだうまく機能しない目に映るのは、柔らかな頬と、ひどく優しい眼差し。
その腕の中に収まっているのが自分だと理解するまで、数秒かかった。
(……って、え、待て。視界、低っ……体、ちっさ……)
手足を動かそうとして、思い通りにいかない。
指先は丸く、短く、動きもぎこちない。
(あー……これ、完全に赤ん坊だ……)
乳母はそっと頬を撫で、息を呑んだ。
「こんなに……こんなに美しい御方が、産まれたばかりだなんて……
わ、私……どうしたら……」
(えー……産まれたばかりに“美しい”も何もあるの……?)
そこへ遠慮がちに、侍女たちが近づいてくる。
「少しだけ……お顔を拝見しても?」
「失礼いたします……」
乳母が腕を少し持ち上げると、二人は揃って息を止めた。
「……は……」
「……なんて……」
胸を押さえ、その場で膝をつきかける。
「瞳が……紫……宝石のよう……」
「吸い込まれそうです……見ているだけで胸が苦しく……」
(やめてくれ。本気で具合悪そうにするのやめて……)
泣きもせず、ただ目を開けているだけでこの騒ぎだ。
すでに「普通の幼児期」が閉ざされた未来しか見えない。
そのとき、部屋の扉が控えめに叩かれた。
「どうだ、セシルの容体は――ルミエは……?」
現れたのは、落ち着いた顔立ちの男。
三十代半ば、黒髪にわずかな白いものが混じる。
乳母は慌てて頭を下げた。
「フランソワ様。奥様はご静養中ですが……お嬢様は、この通りで……」
フランソワと呼ばれた男――ルミエの父は、
恐る恐るといった様子で、乳母の腕の中を覗き込む。
一瞬、時が止まった。
「……」
「……ルミエ」
かすかな呼び声。
それから、ふっと表情が緩む。
「セシルによく似ている……いや、それ以上だな。こんな……」
言葉を探しあぐねたように、肩で小さく笑う。
「商売柄、言葉には不自由していないつもりだったが……娘の美しさを言い表す言葉は持ち合わせていないらしい」
(やめてくれお父さん。ハードルがどんどん上がっていく……)
父はそっと指先で額の髪を撫で、「ようこそ」と小さく呟いた。
「ルミエ・ヴァロワ。
我が家の光。……産まれてきてくれて、ありがとう」
(…………っ)
不意に、胸の奥がちくりとした。
前世では、そんなふうに祝福された記憶は、なかった気がする。もしかしたら産まれた直後は、少しくらいの愛と期待をもらっていたのかもしれないが。
だが、その感傷に浸る暇はない。
乳母が今にも泣き出しそうな声で続ける。
「本当に……光のようなお方で……
フランソワ様、どうかご覧くださいませ、この瞳を……」
父はもう一度、覗き込む。
その紫紺の瞳に射抜かれた瞬間、ほんの僅かだけ目を細めた。
「……これは確かに、誰かの心を動かす目だ」
そう言って、薄く笑った。
「問題は、動かされる側だけでなく――持ち主の心も、だがな」
(それはそう。今すでにだいぶ動揺してる)
父の言葉が、妙に現実的で、少しだけ救われた気がした。
※※※
――そこからの一年は、ひと言でいうなら「騒がしい」の一語に尽きた。
朝。目を開けるだけで乳母が泣いた。
「今日も……お目覚めが清く美しくて……」
(ただの起床です)
あくびをすれば、侍女が祈った。
「この欠伸すら愛しい……神よ、この御子をお守りください……」
(いや、今のはただ眠いだけ)
寝返りを打てば、廊下まで歓声が響く。
「寝返りをなさいました!」
「記録に残さなければ……!」
(記録いらない。そんな成長歴は残さないで)
息を吸って吐くだけの日々なのに、
周囲のテンションは常に最高潮だ。ここまで来るとバカにされているようにすら感じるが、周囲は本気で崇め奉っているようでどうにもできなかった。
そんなある日、フランソワが商談を終えて部屋に戻ると、
客人らしき老人がついてきていた。
「フランソワ殿、ひと目でいい。ひと目で構わんので、
貴殿の娘御を見せてはもらえんか」
「申し訳ありませんが、今はまだ……」
フランソワが穏やかに断ろうとするも、老人は引かない。
「いや、そこをなんとか。市井に“奇跡の子”と噂は既に広まっておるのだ。
商いのためにではない。ただ、一人の老人の願いと思って……」
誰が広めたのかは不明だが、人の口に戸は立てられぬもの。乳母がルミエを抱いたまま固まっている。
(やめろ。老人の最後の願いみたいな頼み方するな。こっちの心理的負担が増す)
迷った末に、フランソワは小さく溜息をついた。
「……ほんの一瞬だけですよ。驚かせてはいけません」
乳母がそろそろと腕を傾け、老人に顔を見せる。
「……おお……」
老人の瞳から、とめどなく涙が流れ始めた。
「わしは、よいものを見た。
この目がまだ役に立つうちに、こんな……」
そのまま、肩を震わせて泣いてしまった。
(なんでだよ。赤ん坊の顔見ただけで人生の締めくくりみたいな感想出すなよ……)
こういう小事件が、数え切れないほど続いた。
※※※
二歳になる頃、事態はさらに悪化した。
歩けるようになったのだ。
「ルミエ様が! お歩きに!」
「おお……! なんと気高く美しい一歩……!」
(いや、よろよろしてるだけだから。バランス悪いし)
たった数歩進んだだけで、家中の者が拍手喝采。
乳母は泣きながら「立派にお育ちになって……」と鼻をすすっている。
(こんなんで泣いてたら、この先どうするんだこの人たち。でも、成長をここまで祝われるのも……悪くないな)
そして、言葉を覚え始めると――これはこれで騒ぎの種になった。
初めての明瞭な一言は、喉が渇いたときだった。
「……のど、かわいた……」
ただそれだけ。それだけのはずだった。
「お、お言葉を……!」
「最初に仰ったのが“喉が渇いた”……!
なんと謙虚で、なんと慎ましい……!」
(謙虚でも慎ましくもない。普通に水が飲みたいだけだ)
誰かが慌てて神殿に走ろうとして、フランソワに止められたこともある。
「ルミエの最初の言葉を“御神託”として記録させていただければ!?」
「しなくていいよ。喜ばしいことだが流石に行き過ぎだ」
きっぱりと断る父の姿に、ルミエは内心深く頷いた。
(そういうところは本当にありがたい。
この家、まだ正気を保ってるのはフランソワ、お父さまだけでは?)
※※※
四歳にもなると、ルミエは「教育」という名の苦行を味わうことになった。
礼儀作法、読み書き、簡単な計算。
大商会の一人娘として必要な基礎を教えるため、
フランソワは腕の立つ教師を何人か雇った。
――が。
最初の作法教師は、三日でやめた。
「申し訳ございません……
ルミエ様があまりにも眩しくて……集中が……」
(いや集中して。教えるのあなたの仕事だから)
次の教師は、一週間で「実家の事情」を理由に退職した。
三人目は二日目で、顔を真っ赤にしてこう言った。
「わ、私は教師としての自制心に自信があったのですが……
ルミエ様が、椅子に座ってこちらを見上げるだけで……
……尊さで心拍が乱れます……!」
(尊さで退職理由作るな。そんな概念聞いたことないよ)
フランソワは頭を抱え、乳母は「私が代わりに」と張り切るが、
乳母も乳母で授業中にたびたび泣くので大差ない。
(なんというか……世話してくれる人たち全員、感情が忙しい)
そんな日々の中、他の商家やギルドの子女との交流も少しずつ増えていった。
「ルミエ様、わたくしと一緒にお茶を……!」
「あら、ルミエ様、先日は書物の話をしてくださって……!」
五歳にもなれば、周囲の子どもたちと過ごす時間が増える。
だが、その距離感がどうにもおかしい。
(いや、もっと普通に話してくれていいんだけどな……)
平然を装って笑顔を返すと、なぜか相手が固まるのだ。
「い、いま私だけに微笑んでくださいました……!」
「ずるいわ、私だって見つめてほしいのに……!」
(順番に話しかけてくれれば、順番に対応するから落ち着け)
心の中でそう突っ込みながらも、口に出るのは完璧な台詞だ。
「皆さんとお話しできるの、嬉しいわ。
でも、一人ずつお話しした方が、きっともっと楽しいと思うの」
それだけ言えば、当然のように場がまとまってしまう。
「さすがルミエ様……!」
「一人一人を大切になさるなんて……!」
(違う。わりと切実に、同時に話しかけられると処理しきれないだけ)
自分の口から出る言葉が、
「その場でもっとも好感度を上げる答え」に自動調整されている。
それは、五歳のルミエにもはっきりと自覚できる“呪い”だった。
※※※
夜。ようやく一人になれる自室のベッドで、ルミエは大きく息を吐いた。
「……疲れた」
誰も聞いていないと分かっているから、声に出せる。
日中に溜まったため息をまとめて吐き出すように、
枕に顔を押しつけてから、ぐったりと仰向けになる。
(誰も見ていないって、こんなに楽だったんだな……)
前世の坂本隆は、ほとんど誰にも見られていなかった。
だからこそ、孤独に耐えられた代わりに、
「見られない痛み」にも鈍感になっていた。あれはあれで自分には合っていたのだろう。
今はその真逆だ。
(見られないのも寂しいけど、見られすぎるのも普通にしんどいな……)
思い出すのは、前世の出来事。
いつもどおりコンビニでの夜勤を終え、朝日が目に刺さるのを感じながら家に帰ったときだ。
『そういえば、昨日誕生日だったな』とぼんやりと思い出して、
通勤に向かう人々とすれ違う中で一人孤独感を覚えたものだ。
それに、とルミエはぼんやり視線を天井に向ける。
(そういえば俺……いや、私? 女の子なんだよなぁ)
産まれ変わって五年。
毎日ドレスを着せられ、髪を梳かれ、髪飾りを付けられながら、
なぜかそこだけは現実感が薄かった。
(ま、だからってどうこうする気もないけど……
せめて静かに過ごせる日が、月に一回くらいあってもいいと思う)
叶わないと分かっている願いほど、
口に出すには少し勇気がいる。
だから結局、ルミエは今日も誰にも言えない。
――静かな人生が欲しい。
ただのそれだけの願いすら、
“誰からも愛される存在”としてのこの来世には、
含まれていなかったのだろう。
(……ああ、これから先もきっと、ずっと……)
目を閉じる。
眠りに落ちる直前、ふと考える。
(静けさのない人生って、案外……前世よりタチが悪いのかもしれないな)
誰からも祝われる今。
本人すら誕生日を忘れた前世。
はたしてどちらがましなのか。
翌日。
五歳になったルミエは、ついに初めて“外の世界”へ足を踏み出す。
――そこがさらに、
彼女の愛され地獄に拍車をかけることになるとも知らずに。
調整役令嬢は、何も知らない @nagisato_otosata
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