調整役令嬢は、何も知らない

@nagisato_otosata

第1話『光の少女、静寂を求めて――そして物語は遡る』

ルミエ・ヴァロワは、場を壊したことがない。

誰かが声を荒げれば、自然と空気は和らぎ。

利害が衝突すれば、いつの間にか折り合いがつき。

気づけば誰もが「まあ、これでいいか」と頷いている。

彼女自身が何かを強く主張することはない。

命令もしなければ、説得もしない。

ただ、そこにいるだけだ。

それでも結果は必ず整う。

まるで最初から、そうなると決まっていたかのように。

人々はその在り方を「調整」と呼び、

彼女を善意と理性の象徴として扱った。

だがルミエ本人は、その仕組みを理解していない。

なぜ場がまとまるのか。

なぜ人が離れないのか。

なぜ、自分が“必要とされ続ける”のか。

彼女は何も知らない。

それが――

この世界にとって、最も厄介な点だった。


※※※


その日、社交場は異様な熱気に満ちていた。

もともと貴族や商家の子弟が集まるこの場には、

常に浮ついた笑い声と優雅な音楽が満ちている。

だが今日は違った。

空気そのものが、何かを待ちわびて震えている――そんな錯覚を覚えるほどだ。

貴族の子女、有力商会の跡取り、ギルドの幹部たち。

どれほど分別ある者であっても、浮足立つのを抑えきれず落ち着きを失い、

隠しようもないほど揃って扉の方へ視線を向けていた。

彼女を知る者は、

再びその“奇跡”を見ることができる幸運に震え。

噂でしか知らぬ者は、

期待と羨望、そしてほんの一滴の恐怖すら抱いていた。

そして――

ゆっくりと扉が開く。

その瞬間、ざわめきが吸い込まれるように消えた。

入ってきたのは、貴族ではない。

大商会ヴァロワ家の令嬢。

ただし、貴族以上に注目を集める少女――

黒い絹糸のような長髪。

雪の輪郭をなぞったような肌。

涼やかに切れた瞳は、人の心をそっと吸い寄せる。

“美しい”という言葉ではあまりに足りない。

彼女を評するためには、この国一番の詩人の語彙でも不足すると噂されるほどだった。

少女――ルミエ。

産まれながらに、人の心を動かし、焦がす。

誰からも愛される。

今年で15歳である彼女は、全身全霊の愛をその身のすべてで表すように、完璧な微笑みを浮かべていた。

そう。……外面は。

(……人が多い。帰りたい)

内心は乾ききった砂のよう。そんな胸の内を知るのはこの世でルミエただ一人。

ルミエが一歩進むたび、

広間の空気がわずかに震える。

「……本物だ……」

「噂以上……いや、噂ではまるで足りない……!」

若い貴族が胸を押さえ、

周囲の令嬢は息を飲み、

商会代表者が恭しく頭を垂れる。

おおむね、歓喜と歓迎一色ではあるが、中には警戒するように近づきすぎまいと一歩だけ退く者もいる 。

「あれがヴァロワの寵児、か……」

「否応なしに引き込まれそうだ。これほどとは」

様々な反応の中、ルミエは慣れたように柔らかく微笑んだ。

その瞬間、数名がよろめき、

場の責任者が慌てて手を上げ、歓声を制する。

「ルミエ様、本日はご足労いただき光栄にございます」

老商人が深々と頭を下げる。

「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」

大地を優しく撫でる風のように澄んだ声が広間を満たす。

その声を聞いただけで、視界の端にいた青年が顔を覆った。

「……これ、反則……」

別の令嬢が友人の腕を掴んで震える。

「わ、わたくし、いま……目が……!」

(いや、目は合ってない。そのへんは見たけど……)

とは言えないので、ルミエは丁寧に頷く。

青年が進み出ると、言葉に詰まりながら挨拶した。

ルミエがにこりと「お久しぶりです」と返すと、

青年は本気で涙を浮かべ、周囲から嫉妬のため息が漏れる。

「羨ましい……!」

「私も微笑まれたい……!」

ざわめきが再び広がる。

商家の娘たちが駆け寄る。

「ルミエ様っ、今日はぜひお話を……!」

「わ、私にも……!」

「もちろん。皆と会えて嬉しいわ」

その瞬間、少女たちの瞳が宝石のように輝いた。

少女たちの感激を一身に受け止めてルミエはますます魅力的になっていくように感じられた。

(嬉しくない。ぜんぜん嬉しくない……お願いだから囲まないで……)

ルミエが体の向きを変えただけで、

その方向へ人波がざざっと動く。

完璧な姿勢。

完璧な笑顔。

完璧な声色。

――それらすべてが、彼女本人の意思とは無関係だ。

“最適化された反応”が、勝手に相手へ届けられてしまう。

良い子であれ、愛されろ、応えろ――

産まれつき備わってしまった呪いのように。

いや、事実それは呪いだ。

(いつもどおり。顔が勝手に笑う。口が一人でに動く。誰もが焦がれるように)

「自然に場を照らすとは……」

「天使か、女神か……」

「一度微笑みを頂けるなら、財など惜しくない……!」

囁きが飛び交う。

(だから財を投げ打たないで……怖いから……)

ルミエは万全の淑女として振る舞い続けた。

――だが、その微笑みの奥にある本心はただひとつ。

(……つ、疲れて来た。早く、一人に……)

しばらくの時が経ち。

十分すぎるほどの視線と賛辞を受け、

ようやく人の波から抜けたルミエは、

バルコニーへ通じる硝子扉へそっと手を伸ばした。

扉を開くと、夜風が頬を撫でる。

――呼吸ができる。

一秒だけ訪れた安堵。

だが、その静けさすら誰かが壊す。

「ルミエ様が……外へ……!」

「立ち姿だけで絵画みたい……!」

(……まだ見てるの……?)

視線はどこまでも追いかけてくる。

それすら呪いの一部だった。

ルミエは読んでいた本のページを閉じるような仕草で、静かに夜空を見上げた。

紺碧に沈む夜。

薄く流れる雲。

星々の光が彼女の黒髪へ淡く落ち、

宝石を散らしたように揺れる。

「……美しい……」

誰かが小さく息を漏らした。

「空を見上げるだけであの神々しさ……」

「あれは祈りだ……」

ルミエは何もしていない。

ただ空を見ただけ。

だがその横顔に、また“魅了”が走る。

(……落ち着きたいだけなのに……)

夜空は静かだ。

だがその静けさが、かえって胸に刺さる。

(空って……こんなに遠かったっけ……)

原因は分かっている。

自分の世界には――

いつだって誰かの視線が満ちているから。

(……私は……いや、俺は、本当に転生したんだよな。今更だけど)

何度、そう思っただろうか。数え切れないほど頭に浮かぶその言葉。


風が吹き、ふっと記憶が蘇る。

暗闇。

階段の落下。

血の匂い。

そして――悪魔の声。

『よき来世を』

胸の奥で、小さなため息が落ちた。

(……来世、ね。静かな人生なんて……やっぱり夢のまた夢、だな)

夜空を見上げるルミエの瞳は、

美しく、そしてほんの少しだけ寂しげに揺れていた。

もちろん、そのことには誰も気が付きはしない。

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