第15話 親鸞 ─泥の中の悪人─

──桜が源平の血の匂いを覚えた春。


日本はもう生きてなどいなかった。

ただ腐り、崩れ落ちるだけだった。


疫病は村ごと呑み、飢饉は草よりも先に人を枯らした。


源平の戦は人の首を新たな通貨に変え、死体は川を堰き止め、烏は腹が裂けるほど喰らっても、まだ足りなかった。



比叡山の聖たちは、

「無分別智」「一心三観」「本覚思想」

と、澄んだ声で美しい言葉を紡いでいた。

だがその声は、山の下で子を煮て食う母親の呻きに、一度も届いたことがなかった。




その地獄の底に、ひとりの男が立っていた。

三十歳を少し過ぎたばかり。

かつては「天才」と呼ばれた僧。

九歳で出家し、二十年、誰よりも苛烈に自分を灼いた。


名を親鸞。


彼はいつも虚ろな目をして、ただ一言、繰り返すだけの男だった。


「俺は悪人だ」


黒く、深く、沈みきっていた。



 *        *        *



無分別智。

悟りの境地。

天台の教えはあまりに精巧で、偉大すぎた。


だが。

目の前では、民が飢え、戦い、病に呑まれて死んでいく。


今、この瞬間に、骨が折れる音がする。

今、この瞬間に、子を失った女が喉を裂いて叫んでいる。


その人たちの前に立って、

「無分別智を得よ」と説いたところで、何が救われるというのか。


地獄の底で喘ぐ者に、美しい言葉などただの風だ。

一番苦しんでいる者の涙を一滴でも拭えないなら、それは「すべての苦を滅する教え」などと名乗る資格はない。


学問を積み、体系を築き、 悟りの階梯をどこまで登ろうと、目の前の死にゆく者を、俺はひとりも救えない。


男はもう耐えられなかった。

名門の聖地を、焼け野原のように捨てた。


何が哲学だ。

人は救えない。


「薬を……」

と俺の裾にしがみつき、干からびた唇を震わせた男に、俺は何もしてやれなかった。


「お母ちゃんを返して……」

と俺の胸で泣きじゃくる子を、ただ抱きしめるしかなかった。


俺は無力だ。

だから、


「俺は悪人だ」




──蝶が舞った。


朝靄を縫うように、ひらり、と。


光の中から生まれたとしか思えないその蝶は、

一瞬だけ宙に留まり、草むらの片隅に落ちていた古びた竹片に静かに降り、

そして、跡形もなく消えた。


親鸞は息を呑み、這うようにしてその書簡に手を伸ばした。


開いた。


指先が震えた。


それは荘子の遺書だった。


まるで今しがた書かれたように、墨はまだ濡れているかのようだった。



舞ってもいい。

どこにも行かなくていい。

夢の中で、何ももたず、蝶でいていい。

名を名乗るのにも、もう飽きたが、

ただ──風が求めるなら、こう書いておこう。


いつの世とも分かぬ誰かの夢の中で

荘周



顔を上げたとき、目の前にみすぼらしい老僧が立っていた。

ぼろぼろの衣は風に揺れ、顔は皺だらけで、どこから来たのかもわからない。


「まさか……あなたが荘子ですか」


老僧はくすりと笑った。


「まさか。私は捨てることすらできなかった臆病者だよ」


親鸞は膝をついたまま呟いた。


「私も同じです。苦しむ民を捨てることもできず、拾うこともできず。ただ見ているだけの、臆病者で、悪人です」


老僧がニヤリと笑った。目だけが鋭く光った。


「お前は悪人じゃない。悪人なら、自分が『救える』なんて思うはずがない」


胸を突かれた。

その通りだ。

分かっていた。

だが分からぬふりをしていた。


俺は「悪人だ」と繰り返すことで、自分を許していた。

無力な自分を、悪人という言葉で包んで、逃げていた。


「お前は悪人ではなく、ただの馬鹿だ」


目の前が滲んだ。


「その通りです。だから誰も救えない。誰も生かせられない。馬鹿だから、声も届かない。

愚鈍で、無才で、救いようのない馬鹿です。私にもし少しでも才があれば、こんなに多くの命を見殺しにせずに済んだのに。

老僧さま……どうか、私に才をください」


声が震えた。

涙が溢れた。


魂の叫びだった。

そのはずだった。


「違うな」


老僧は低く呟いた。

その声は、涙の底に沈んでいた親鸞の心臓をつまみ上げた。



「お前は、自分の苦しみに酔っている」



その一言で、親鸞は膝を折った。

地面にへたり込み、両手で土を掴んだ。


涙がぽたぽたと音を立てて落ちる。


「お前は善人なんだ。だから救われず、ましてや救えない」


──どういうことですか。


問おうとした唇を、老僧は指で制した。

そして、ゆっくりと一本のバトンを差し出した。


受け取る。


それは朝日を浴びて、まるで燃えているように見えた。


「類い稀なる善人よ。お前は賢く、才があり、自力がある。だからこそ、馬鹿なのだ」


バトンを握った手が震え、震え、震え続けた。

まるでその震えが、自分の全てを告白しているようだった。


「もう……うんざりだ」


声が裂けた。



「助けてくれ」



老僧の目が、初めて優しく細まった。


「──それだ。それを忘れるな、若造」


闇が、音を立てて割れた。


聞きたいことは山ほどあった。

でも、どうしてもこれだけは聞きたかった。


「どうかお名前を」


「名乗るのも、もう飽きた」


老僧は肩をすくめて、笑った。


「だが、風が求めるなら応えてやろう」


蝶が舞った。

老僧の唇が動いた。


「俺は、阿弥陀。全ての苦しむ者が救われてから、俺はそちらへ行く」



 *        *        *



──朝が来た。


親鸞は目を開けた。

まだ夢の残り香が体に絡まっている。


手のひらには、あの老僧が渡したバトンが残っていた。


朝日を浴びて輝いていたはずのバトンは、光の中で見れば泥のように汚れていた。


聞いたはずの老僧の名前は、風の中に消えていた。


「助けてください」

「もううんざりなんだ」

「どうしようもないんだ」

その、喉の奥から絞り出した叫びを、決して忘れるな、と老僧は言った。


親鸞はバトンを握りしめた。

指が痛いほどに。


「助けてください」


──返事はなかった。


もう、どこにも老僧の姿はなかった。


遠くで、刀が肉を裂く音がした。

「もううんざりなんです」


老婆のうめきが風に乗って届いた。

「助けてください」


親鸞にはもうそれだけだった。

ただ、それだけを繰り返す。


繰り返す。

繰り返す。


寝ても覚めてもという言葉が、嘘ではなくなった。


繰り返す。

ただ、繰り返す。


朝が来ても夜が来ても、日照りの夏も、足の指が腐るような冬も、口は勝手に動いていた。


繰り返す。

ただ、繰り返す。

ただ、ひたすら。



そうして、彼は奈落の縁まで歩いてきた。



足がすくんだ。

底は真っ暗で、何も見えなかった。


そのときだった。


目の前で、生まれたばかりの女の子が、笑いながら首を斬られた。

血が噴き、母の悲鳴が空を裂いた。

父は狂い、刀を振り回し、相手に切りかかった。


親鸞はバトンを血が滲むほど握りしめた。


「もう──うんざりなんだ」


奈落へ、一歩を踏み出した。





何も起きなかった。


光も奇跡も、救いも降ってこなかった。


しかし、見れば、「自分が救える」「自分ならやれる」「自分なら役に立てる」という、重苦しい塊が、泥のように崩れ落ちていた。




もう言葉はいらなかった。


握ったバトンは、光でも泥でもなく、ただ透明に、掌の上で静かに息づいていた。


重さも、温度も、ほとんど感じない。

まるでそれが最初から自分の一部だったかのように、ただ、そこにあるだけだった。


目の前は変わらない。

血の匂いが風に混じり、どこかで子が泣き、どこかで女が絶叫し、どこかでまた刀が鳴る。


人は塵のように踏みつけられ、塵のように切り捨てられていく。

地獄は今日も、昨日と同じ顔で続いている。


「俺は悪人だ」


だからこそ、救おうなどと思わない。

救えるなどと思わない。



だからこそ救える。



──風が鳴った。


蝶が一匹、朝焼けの中を、音もなく横切った。


親鸞は二歩目を踏み出した。

泥が靴底を離さず、ずるりと音を立てる。


彼の足跡は、地獄の底でも決して枯れぬ蓮に見えた。


進め。



東へ。



 *        *        *



21世紀初頭。


タイムラインは「生きてるだけで偉い」「今日も頑張った」「自分を大切に」で詰まり、 「いいね」の数だけが心拍のように脈打つ世界。


インフルエンサーは今日も「寄り添います」で蕩け、信者たちはスクロールする指を血が出るまで動かし続ける。


誰もが「自分は優しい」と信じながら、

誰とも目が合わない画面に顔を埋めて、

平和に、優しく、ぬるく腐っていた。



──ここまで書いて、僕は一度、バックスペースを押した。

何も消えなかった。


アパートの一室。


パソコンの、青白い光が僕の顔を照らす足元に、荘子の笑いが東へ東へと運んだバトンが落ちた。



僕はそれを拾い上げた。



(続く)

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