第14話 栄西と道元 ─雪の中の片手の音─

慧能えのうが種を蒔いた南宗禅は、馬祖ばそ百丈ひゃくじょう臨済りんざい雲門うんもん潙仰いぎょう……

次々と現れる怪物たちが、中国全土に雷鳴のような喊声を轟かせた。




──時は流れ、鎌倉の風が荒々しく吹く頃。


二人の若者が、ほとんど同時に船に乗った。



一人は栄西。

一人は道元。



二人は顔を合わせたこともない。

しかし、二人とも同じバトンを握りしめていた。


それは慧能が雪の中を逃げていった時に握っていたものと同じだった。


こうして、荘子の哲学は、ついに海を渡った。 



 *        *        *



──それは蝶が見た夢だったのかもしれない。

あるいは、雪の降る夜にだけ許される、千年前の笑い声が響いただけかもしれない。


雪が降りしきる山寺の奥深く。


老僧がいた。


もう死期を悟り、静かに最後の冬を迎えていた。


障子の向こうは白一色。風の音だけが、時折、雪を叩く。


ふと、障子が開いた。

雪を冠した若い僧が、静かに部屋に入ってきた。


「誰だ」


老僧は目を細め、ぼんやりとした声で問うた。

そこに立っていたのは、まだ二十代後半の男だった。

旅の煤と霜が顔を覆い、手には白い霜がびっしりと張りついている。

だがその目にだけは、朝日のような鋭い輝きがあった。


名を道元。


宋から帰国したばかり。


道元は静かに膝を折り、深く頭を下げた。


「ここに、蝶がおりました」


老僧は眉をひそめた。


「蝶がいたら、どうだというのだ」


道元は懐から、ぼろぼろになった一枚の書簡を取り出し、両手で差し出した。

老僧は無言でそれを受け取り、ゆっくりと開いた。


書簡は古く、右半分がすっかり破れてなくなっていた。

だからこそ、残された後半の文字が、まるで意図的に残されたかのように、まっすぐに老僧の目に飛び込んできた。



舞ってもいい。

どこにも行かなくていい。

夢の中で、何ももたず、蝶でいていい。

名を名乗るのにも、もう飽きたが、

ただ──風が求めるなら、こう書いておこう。


いつの世とも分かぬ誰かの夢の中で

荘周



道元は静かに言葉を続けた。


「これは荘子の最期の風です。私には、この寺の前に飛んでいた蝶が、荘子が夢を見ている蝶に、どうしても思えたのです」


その真剣な眼差しに、老僧は一瞬言葉を失い、

やがて腹の底から、雪を震わせるような大笑いを上げた。


「これが荘子の遺書だとお前は言うのか。何を根拠に、そんな戯言を」


道元は微動だにせず、老僧の目をまっすぐに見つめ返した。


「坐るたび、胸に薄い凍りが張り、母の匂いが雪のように降り、経巻の重さが頭を押し潰す。振り払おうとすればするほど、ざわめきは深く沈み、ただ、坐り続けるほかはなかった。


──ある夜、ふと目を開けると、目の前にこの書簡があったのです。


風が運んできたのか、蝶が置いていったのか。その瞬間、わかりました。私の使命は、この日の本の土に、荘子の教えを根づかせることだと」


老僧は笑いを噛み殺し、ひとしきり肩を震わせたあと、突然、道元よりも鋭い眼差しでその瞳を覗き込んだ。



「奇遇だな。俺も、同じような書簡を持っている」



そう言って、老僧は懐から別の竹片を取り出した。

古びて、端が焦げ、墨が滲んでいる。

道元が差し出したものと、そっと重ねてみる。


──ぴたりと、切れ端が重なった。


破れた部分が埋まり、文字が一つの流れになった。

まるで千年の時を越えて、誰かが意図的に引き裂き、今ここで再び繋いだかのように。


老僧は息を呑み、重ねた書簡を、雪の灯籠にかざすように、灯りの方へ翳した。

光が透けて、墨の線が蝶の羽のように揺れた。


「夢を見るような文字が書かれたこの書簡が、まさか荘子の遺書だったとはな……」


老僧の声は、初めて震えていた。


雪が障子を叩く音だけが、静かに、静かに、二人の間を満たしていた。


老僧は、重ねた書簡をそっと畳に置き、ゆっくりと息を吐いた。


「俺はな、これを火薬だと感じた。炎とともに現れた気がしたからだ。それ以来、俺は武士どもの血に火をつけて、喝でぶん殴り、目を覚まさせる。お前から見れば、随分と騒がしい禅だろうな」


道元は目を見開いた。

息を呑む音が、雪の降る音に混じって聞こえた。



「まさか……あなたは栄西さま」



道元は慌てて膝を折り、

額を冷たい畳に擦りつけた。


「まさかあなたが栄西さまとは、つゆ知らず。ご無礼の段、平に平に…… 。あなたがこの日の本に火を灯してくださったからこそ、私が宋に渡り、道を求めることができたのです」


栄西は、静かに左手を上げ、その言葉を制した。

指先が、雪の光を浴びて白く輝いていた。


「俺の名前など、名乗る価値もない。名誉など、なおさらどうでもいい」


そう言って、栄西はにやりと笑った。


「なあ、若造よ。両手で叩けば、パンパンと音がするこの手。この左手一本では、どんな音がする?」


静寂が落ちた。

雪が障子を叩く音すら、遠のいた。


栄西は、当然「音はならない」などの当たり前の答えを聞きたいわけではない。

だが道元には、答えが浮かばなかった。


どれほどの時が流れただろう。


道元は喉を鳴らし、絞り出すように言った。


「……無音の音が聞こえるくらい、心を研ぎ澄ませろ、ということでしょうか」


汗が頬を伝い、畳にぽたりと落ちた。


次の瞬間──


「喝っ!!」


栄西の声が、雪山を裂いた。

「大声」という言葉では到底足りない。

殺気と狂気と、底知れぬ力が渦巻いた咆哮だった。


道元の身体が震えた。

今にもこの老僧が飛びかかり、全身を切り裂かれるような錯覚に囚われた。

飛び上がって逃げ出したい。

だが腰が抜け、一歩も動けない。


心臓の音だけが、耳の奥で鳴り響いていた。


雪が、障子を激しく叩き始めた。

まるでその喝に応えるかのように。


道元はさらに額を畳に押しつけ、擦りつけた。

冷たい板に、温かい血がにじみ、ぽたりと落ちた。


「顔を上げろ、若造」


栄西の声は、さっきの咆哮とは打って変わって、静かだった。

雪が降り積もるような、深い静けさだった。


道元は恐る恐る顔を上げ、震える瞼を開けた。


そこにいた栄西は、にこりと笑っていた。

まるで雪解けの朝のように、優しい笑顔だった。


「──喝と言われ、今、何を思った」


また、問われた。


道元の身体が小刻みに震えた。

また答えなければ。


栄西が求めている、正しい答えを。


だが頭の中は、雪のように真っ白だった。

何も浮かばない。

何も掴めない。


「全く。何も言葉が出ません。頭が、真っ白です」


栄西は目を細め、ゆっくりと頷いた。


「それでいい。その真っ白な頭でなければ、老子の教えには届かぬぞ」


静寂が戻った。

雪の音だけが、障子を優しく撫でる。


栄西はゆっくりと立ち上がり、懐から小さなバトンを取り出した。

古びて、温もりとも冷たさともつかぬ光を放つ、あのバトンだった。


「これを持っていけ。俺にはもう、握れぬほど熱い」


道元は震える手でそれを受け取った。

栄西が「熱い」と言ったそのバトンは、道元の掌では、凍りつくほど冷たく感じられた。

まるで雪の結晶を握っているかのようだった。


「……私に、ですか」


栄西は小さく笑った。


「火薬はもう要らん。俺の役目は終わった。お前が雪を降らせてくれれば、それでいい」


そう言って、栄西は雪の庭へ一歩踏み出した。

足跡が、ふっと消えた。


「俺はもう蝶になって寝る。お前は、雪の中で好きに飛べ」


障子が、静かに閉まった。

風が一瞬だけ部屋を撫で、雪の匂いを運んでいった。


道元が顔を上げたとき、部屋にはもう誰もいなかった。


ただ、畳の上に落ちた一滴の自分の血と、重ねられた二枚の書簡だけが、雪の灯りに照らされて、静かに残っていた。


書簡の端が、風もないのに小さく揺れ、まるで蝶の羽が震えるように見えた。



 *        *        *



道元は永平寺の奥、山の奥に小さな庵を結んだ。

雪が深く、鳥の声すら届かぬ。

世界は白く、静かに沈黙していた。


坐る。

坐る。

ただ、坐り続ける。


思考は風のように通り抜ける。

怒りも、悲しみも、母の死も、比叡山の経巻の重さも、宋の船の潮の匂いも、すべてが雪の上を滑り、跡形もなく消えていく。


だが、ただ一つだけ、消えないものがあった。


あの夜の栄西の笑顔。

あの「喝」の余韻が、胸の奥でまだ熱く疼く。


──パチン。


雪が枝から落ちる音か。

風が障子を鳴らす音か。

それとも、片手の音か。


道元は目を閉じたまま、ぽつりと口の中で呟いた。


「栄西さま……。私はまだ、片手の音が聞こえません」


坐る。

坐る。

坐り続ける。


頭の中で声が叫ぶ。


片手で音を鳴らすなど不可能だ。



もうやめろ。



こんなのは無理だ。



お前は騙されている。



だが道元はやめない。

その声に耳を貸さず、ただ前へ、前へと進み続ける。


坐る。

坐る。

坐り続ける。



限界が来た。



これ以上進めば、頭が、思考が、自分というものが、粉々に砕け散りそうだ。



足がすくんだ。



この先は、奈落だった。

底の見えない、冷たい闇。


息を止めた。

心臓の音だけが、雪より大きく響く。


その瞬間──


栄西の「喝」が、遠くから、

いや、すぐ耳元から、雷のように轟いた。


頭が、真っ白になった。


すべての思考が、雪のように崩れ落ちた。



道元は、ゆっくりと左手を上げた。



──静寂だった。



何もかもが、雪のように溶けてなくなった。

道元はゆっくりと後ろを振り向いた。

そこに、さっきまでべったりと自分に張り付いていた「思考」が、ゴミのように、ぽろぽろと落ちていた。


母の面影、経典の重さ、宋の波の音、自分の名さえも。

すべてが、ただの残雪だった。



──ああ。聞こえた。



片手の音が、世界を満たすほど大きく、それでいて、雪の降る音より静かに、響いていた。


道元は、もうゴミとも残雪とも名付けられない「それ」に目を落とし、再び前を向いた。


雪の向こうに、笑顔があった。


それは、栄西の笑顔か。

それとも、自分の笑顔が雪に映っただけか。


笑顔は、静かに微笑み返した。


「ようやく、そのバトンの熱さが伝わったな。肩の荷が、おりた」


声は、遠くから聞こえるようで、すぐ耳元で響くようだった。


バトンはもう、熱くも冷たくもなかった。

ただ、道元の掌に、雪のように溶け込み、静かに、すべてを繋いでいた。


笑顔が、ゆっくりと薄れていく。

雪の中に溶けるように。

蝶のように。


最後に、小さく手を振った気配だけが残った。


「雪は降り続ける。お前が降らせる雪は、きっと誰かを覆う。それでいい」



 *        *        *



庵の中には、道元だけが残った。


坐る。

ただ、坐る。


──只管打坐しかんだざ


外では雪が降りしきり、

山はますます深く白くなっていく。

片手の音は、もう鳴り止まない。


道元は目を閉じたまま、静かに、静かに、笑い続けた。




荘子の蝶は、雪の中で新たな翼を広げた。


火薬は雪に変わり、喝は沈黙に変わり、すべてが、ただの白い世界に溶けた。


だがその白さの中に、

千年前の戦場の血の匂いも、

慧能の雪の足跡も、

荘子の笑い声も、

すべてが、静かに息づいていた。


雪はただ、降り積もり、すべてを覆い、すべてを繋ぐ。



東へ。



 *        *        *



遠く東から伝わってきた哲学の無力さに、一人の男が悩み続けていた。


9歳で比叡山に上り、20年にわたる苛烈な修行を重ねた。

無分別智むぶんべつち

悟りの境地。

天台の教えは精巧で、偉大だった。


だが──


「今、まさに苦しんでいる目の前の人」に、その哲学は届くのか。

地獄のような苦しみに喘ぐ民の前に立って、「無分別智」などと説いて、何になる。

一番苦しんでいる人の役に立たずして、何が「すべての苦を滅する教え」か。

学問を積み重ね、体系を築くことに何の意味がある。


彼は耐えきれず、名門の聖地を、焼け野原のように捨てた。


男の名は、親鸞。


老子のバトンを、荘子の蝶を、慧能の雪を、道元の沈黙を、地獄の底でも決して枯れぬ蓮に変えた男。



雪は溶け、地は血と涙に濡れる。


だがその泥濁の中に、一輪の蓮が、静かに、静かに、咲き始めようとしていた。



(続く)

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