【エピローグ】最後のエンターキー
21世紀初頭。
アパートの一室。
キーボードに置いていた手はそのままに、僕は目を開けた。
どこから入ったのか、蝶がいた。
モニターの冷たい光が顔を青く染める僕の足元に、ひらりと降り、そして、音もなく一本のバトンに変わった。
僕は左手で拾い上げた。
掌の上で、それは何の重さもなかった。
風が鳴った。
遠い空の底から、朝日の輝きを宿したような、誰かの笑い声がした。
「握ったか。さあ、お前も蝶になって一緒に寝よう」
その時、床に、小さな金属音がした。
バトンの欠片が、闇を裂いて落ちてきた。
鈍く、血の色に光った。
僕は右手で拾い上げた。
掌の上で、切っ先が指を切りそうになる。
同時にもう声とは呼べない、腐った喉の奥から絞り出されるような声がした。
「握ったな。さあ、お前も血を吐いて踊れ。超人になれ」
僕は微笑み返し、左手に握られたもう一本のバトンを見せた。
「──奇遇だね。ここに似たようなバトンがもう一本あるんだ。 これはね、東洋哲学のバトンだ。
超人になれと言ったね。超人なんて初めからない。だから超人なんだ」
空気が一瞬張り詰めた。
やがて、 柔らかく微笑んだ声がした。
「そうか。俺はここで、ついに死ねる」
風が肩を撫でた。
「そしてこの西洋のバトンは言う。人間は蛾だ。醜さを愛せ。」
しばし沈黙があった。
やがて、くすっと笑う気配がした。
「……それじゃあ、まだ寝られないな」
僕は目を瞑り、2本のバトンを、祈るように胸の前で合わせた。
光がモニターに溶けた。
僕はこれからも、書いても書いても、自分を裏切り続けるかもしれない。
書くこと自体が、永遠に裏切り続ける行為だととしたとしても、それでいい。
だから書く。
モニターを見た。
カーソルが瞬いている。
さっきから、ずっと。
何か書こうとして、何も書かずに、バックスペースだけが増えていく。
それでも、もう一度、キーボードに手を置き、僕はこの小説の最後の文を打つ。
エンターキーに指が触れる。
バトンが弾けた。
その音は遠くまで響き、今、あなたの耳に届いた。
哲学のバトン(完全版) ゆう @youme07
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