第13話 慧能 ─雪の中の蝶─

荘子の笑い声が消えた後も、彼が空転させた歯車の音は、千年もの時代を越えて響き続けていた。



黄梅山おうばいざん東禅寺とうぜんじ

雪が降りしきる冬の朝、ぼろぼろの藁靴を履いた一人の木こりが寺の門を叩いた。


背中に薪を負い、手には霜がびっしり張りついている。

顔は煤と風で真っ黒だが、目には朝日の輝きがあった。


門を開けたのは五祖・弘忍こうにん

達磨だるまから数えて五代目の、正統の継ぎ手だ。


「お前、字は読めるか」

「読めません」

「経は?」

「一字も」

「なら話にならん。米つき雑用なら置いてやるが」


「ありがとうございます!

朝4回、夜3回、がんばります!」


一瞬、雪の音が消えた。

弘忍は目を細めた。


木こりはお辞儀をした。

その拍子に、懐から小さな書簡がころりと落ちた。


弘忍は無意識にそれを拾い上げる。

開いてみた。


誰かの遺書のようだった。

こう、締められていた。




舞ってもいい。

どこにも行かなくていい。


夢の中で、何ももたず、蝶でいていい。


名を名乗るのにも、もう飽きたが、

ただ──風が求めるなら、こう書いておこう。


いつの世とも分からぬ誰かの夢の中で

荘周




眼を見開いた。


「これをどこで」


「さっき、そこで拾いました。開いてみるとこんな真冬なのに蝶が飛び出して、追いかけているうちにこの寺に着いたのです」


弘忍はふっと息を吐いた。

雪がその息を白く染めた。


「……入れ。米つき場は寒いが、死にはしない」


米つき場で米をつく雑用係として採用された男の名は、


──慧能えのう


彼の手の中には、光るバトンが握られていた。



 *        *        *



雪が吹き込む米つき場。

杵を振り下ろすたびに、雪と米の粒が舞い上がって、慧能の顔に張りつく。その中へ、弘忍の声が遠くから響いてきた。


「私は多くの写経をして、たくさんの弟子を育ててきた。さて。私の功徳はいかなるか」


弟子たちは顔を見合わせ、ゆっくりと膝を折った。

まず首席の神秀じんしゅうが、深く額を床につけて声を上げた。


「師父の功徳は、筆紙に尽くしがたし。写経千巻、衆生の闇を照らす大燈明。弟子数百、みな師の慈雨に浴して芽生えたり。これぞ無量の福徳、十方世界に遍く光なり!」


若僧たちは我先にと声を重ねる。


「師父が夜を徹して写経なさる灯火を、遠くから拝見するだけで胸が熱くなりました!」

「一人の文盲の木こりさえ寺に入れてくださる寛大さ、これぞ生き仏の慈悲!」

「師父の書いた一字は、達磨大師の髭一本に勝ると存じます!」

「我らが生まれる前から、師父はすでに功徳を積んでおられた!」


部屋中がすすり泣きと称賛の渦に包まれた。


そんな中、慧能は米袋をどさっと下ろして、ぽつりと呟いた。


「功徳なんてないでしょ?」


声が、思ったより大きく響いた。


部屋が凍った。


次に、弟子たちの冷たい笑いが漏れる。


だが慧能は平然と言った。


「だってさ、写経したって、弟子育てたって、最初から何も増えてないじゃん。雪の上に雪積んで『俺の雪だるま!』って言ってるだけだろ?」


怒号と失笑が部屋を満たす。


弘忍だけが、髭の下で小さく笑った。



 *        *        *




同じ場所で弘忍がまた問うた。


「お前たちの心は醜く汚れておる。それをどうやって磨くか、答えなさい」


弟子たちは頭を下げて、


「朝に勤行、夕に懺悔……」

「坐禅三昧、戒律厳守……」


と口々に答える。


慧能はまた米袋を背負ったまま、のっそりと部屋の隅に座り込んで、


「ないものをどうやって磨くの?」


部屋が静まり返った。


「……またあの文盲が」


弟子たちが失笑しかけたその時、


「そう言うお師匠様こそ心を出して見てくだい。私が磨いて差し上げます」


部屋に緊張が走った。

弟子たちが「こいつ……!」と立ち上がりかける。


それを弘忍が手で静止した。


──静寂。


弘忍はゆっくりと立ち上がり、自分の胸をぽん、と叩いた。


「……ここか?」


「違います。かと言って、どこでもないですけど──」


慧能は首を傾げて、立ち上がると、


弘忍の頭を、ぺちん、と平手で叩いた。


「あえて磨くなら、ここでしょうか」


時間が止まった。


次の瞬間──


弘忍が腹の底から笑い出した。



 *        *        *



そしてついに、その夜が来た。


弘忍は弟子たちを法堂に集めると、静かに告げた。


「私の衣鉢を継ぐ者を選ぶ。お前たちが今、どこまで見えているか──それを詩にしてみよ。本当に見えた者には、この袈裟を渡す」


弟子たちは息を呑んだ。

五祖がまさか生きているうちに後継を決めるとは。


誰しもが「自分が」と胸を焦がしながらも、誰もが思った。


──どうせ神秀だろ。


案の定、首席の神秀が廊下の壁に立派な詩を認めた。



身是菩提樹

心如明鏡台

時時勤拂拭

莫使惹塵埃



朝日を浴びて墨が光る。

読んだ者たちはため息をつき、誰もが膝を折った。


「これ以上は書けない」



その頃、米つき小屋では慧能がいつものように杵を振っていた。

汗と米の粉でまっ白になった顔で、通りかかった若い僧に声をかける。


「おい、壁に何か書いてあるって?教えてくれ」


僧は得意げに神秀の詩を諳んじた。


「心は鏡だから、埃がつかないように磨けと。そいうい意味だ。さすが神秀だ」


慧能は杵を置いて、首を傾げた。


「全然だめだな」


僧が吹き出す。


「お前、文盲の分際で何がわかるんだよ。じゃあお前も書いてみろよ。俺が代筆してやるからさ」



翌未明。

まだ誰も起きていない薄暗い廊下に、新しい詩が添えられていた。



菩提本無樹

明鏡亦非台

本來無一物

何處惹塵埃



壁に打ちつける朝の風が、まるで笑っているようだった。


やがて弘忍がやって来た。

詩を一瞥するなり、顔をしかめた。


「なんだこの落書きは」


隣にいた弟子が頭を下げた。


「これは慧能が言った言葉を私が書きました」


「くだらん。さっさと消せ」


そう吐き捨てて、踵を返す。


だが、その背中はかすかに震えていた。


「鏡などない。何もない。だから、埃がつくものがない──か」



 *        *        *



その夜、三更の鐘が鳴り終わる頃。

米つき小屋の藁葺き屋根を、雪混じりの風が叩いていた。


寝床にしていた米俵の上で、慧能はもう夢の中だった。


がらりと戸が開けられ、雪と一緒に弘忍が飛び込んできた。

息を切らしながら、弘忍は自分の肩から法衣を剥ぎ取るように袈裟を脱ぎ、慧能の胸に押しつけた。


「おい、起きろ!これを持って、今すぐ山を下りろ!」


慧能はぼんやりした目でそれを受け取る。


重い。

達磨から百二十年、五代にわたって血と汗にまみれてきた布の重さだった。


「逃げろ。お前が六祖だ。だがそれを明かしたら、明日の朝にはお前は死んでる」


弘忍は額に浮いた汗を手の甲で拭った。


「お前の詩を見た瞬間にわかった。お前はもう、何も持っていない。だからこそ、これを継ぐ資格がある」


慧能は首を傾げた。


「でも俺、字も読めねえし、経も一巻も──」


「それでいいんだ」


弘忍は声を震わせて笑った。


「経を百巻読んだ奴より、経を一巻も読んでないお前の方が、よっぽど達磨に近い」


外では雪が強くなっていた。

弘忍は戸口に立ち、背中越しに言った。


「奴らは明日気づく。袈裟がなくなったことに。そして、お前が消えたことに。そうなったら、もう追手は止まらん」


慧能は袈裟を抱えて立ち上がる。

ぼろぼろの藁靴に雪が染みて、すぐに凍りつきそうだった。


「師匠は……いいんですか?」


弘忍は振り返らなかった。

ただ、小さく手を振っただけだった。



 *        *        *



翌朝。東禅寺は地獄になった。


袈裟が消えている。


しかも、寺で一番下っ端の文盲が、同時に姿を消している。


弟子たちは顔を見合わせ、やがて理解した。


「慧能だ……!」


「師匠は狂った!あんな奴に袈裟を!?」

「取り戻せ!殺してもいい、袈裟だけは取り戻せ!」


僧兵が、山を下る一筋の足跡を追って雪の中へ飛び出していった。


だが慧能はもう、遠く嶺南の深い森の中を、雪を蹴立てながら、走り続けていた。


袈裟を頭からすっぽり被って、まるで雪の中で踊る子供のように見えた。



それは千年前、地獄の戦場で笑っていた男に似ていた。



 *        *        *



その後、慧能が種を蒔いた南宗禅は、まるで雪の下で眠っていた火が一気に燃え上がるように広がった。


馬祖ばそ百丈ひゃくじょう臨済りんざい雲門うんもん潙仰いぎょう……


次々と現れる怪物たちが、中国全土に雷鳴のような喊声を轟かせた。

唐の末から宋の時代にかけて、禅はまさに黄金期を迎える。


慧能が選んだ道は「多数に広める」ことではなかった。

「一灯が一灯に火を移す」だけ。


少数から少数へ。


だからこそ、どんな王朝の興亡も、どんな迫害も、禅の芯は錆びつかせなかった。


純度100%のまま、火は消えなかった。




──時は流れ、鎌倉の風が荒々しく吹く頃。


二人の若者が、ほとんど同時に船に乗った。


一人は栄西。

一人は道元。


栄西は宋から臨済禅を持ち帰り、武士の魂に火を灯した。

道元は曹洞禅を背負い、ただひたすらに「只管打坐しかんだざ」の鐘を鳴らし続けた。


二人は顔を合わせたこともない。

教えもまるで違う。


しかし、二人とも同じバトンを握りしめていた。

それは慧能が雪の中を逃げていった時に握っていたものと同じだった。


こうして荘子の哲学は、ついに海を渡った。




東へ。




(続く)

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