第12話 荘子 ─戦場が見た蝶の夢─

老子が姿を消して200年後。


春秋戦国時代。

天下はもう、ただの肉片だった。


秦は西から、趙は北から、斉は東から、楚は南から、七つの巨大な肉挽き器が同時に回り始めていた。

国境線は毎月塗り替えられ、昨日まで味方だった軍は今朝には敵で、昼にはもう屍の山だった。


城は焼かれ、井戸には死体が詰められ、川は血で赤く染まり、その血の川を船で渡る兵たちは、「次の戦で死ねるかどうか」が唯一の希望だった。


儒家は「礼を復興せよ」と叫びながら自分たちが一番先に逃げ、


墨家は「兼愛」を説きながら兵器を売り、


法家は「法治」を叫びながら民を家畜より下に扱った。


誰もが「俺の正義が正しい」と叫び、


誰もが「俺の道が唯一」と叫び、


叫びながら人を殺し、殺されながら叫び、

叫び疲れて死んだら、次の奴が同じことを叫び始めた。



そんな地獄という言葉すら生ぬるい世紀末のど真ん中に、一人の男が、のんびり歩いてた。


手に、老子が投げ捨てたはずの、まだ少し温かいバトンをくるくる回しながら。


彼の名は、荘子。


死体の山を足で崩し、笑いながら歩いていた。




突然、喉に剣を突きつけられた。


この地獄を一身に背負ったような刃だった。



刃が皮膚を裂き、血が一筋垂れる。



相手は低い声で訊いた。


「おい、生きていたいのか。死にたいのか。どっちだ」


風が、血の匂いも、遠くの叫び声も、すべての音を殺した。



荘子はゆっくりと顔を上げた。


傷口から零れる血が、首筋を伝って鎖骨に溜まり、ぽたりと地面に落ちる。


「──生か死か。究極の問いだな」


「なら死ね」


兵は剣に体重を乗せた。


荘子はにこっと笑った。


荘子は首をわずかに傾けて、自分から刃をさらに深く食い込ませた。


「こんな老いぼれを殺してどうする」


「意味なんてない。こんな地獄で、生きることに意味などないだろう」


「お前、生きる意味を探しているのか」


「違う。生きていることに意味などないと言っているんだ」


荘子は大声で笑い出した。
喉の奥から、まるで血の泡が弾けるような笑い声だった。


「同じだ。意味がないと言うことは、意味があるということだ。


意味と無意味も、
価値と無価値も、
生と死も、
全て一組で成立してるのさ。

そのそういや、昔、団子を猿にやったことがあるんだ。


『朝に3つ、夜に4つやるぞ』って言ったら、猿どもは大層怒りやがってな。


吠えて、牙を剥いて、まるで俺を殺す気だった」


兵の眉が跳ねた。




「で、どうしたかと言うと、
『じゃあ朝に4つ、夜に3つでいいな?』って言ったら、
同じ7つなのに、今度は手を叩いて大喜びしやがった」


「てめえ、ふざけてんのか!」


「ふざけてる?
いやいや、俺は超真面目に答えてるよ。
朝に4つ、夜に3つ。おおもとが減るわけじゃないのに、人間は好き勝手に境界線を引いて、多い少ないとわめいてる。

生と死も同じだ。今日死のうが、明日死のうが、それは境界線を引いて遊んでるだけなんだ」




兵の剣が小刻みに震える。


「……俺はただ、殺すか見逃すか訊いてるだけだ!」


「まだ訊くか。
こんなに老いぼれになっても、身体は生きたいと言っている」


兵士はニヤリとした。


「ようやく正直になったな」


荘子はその顔を笑ってじっと見つめた。


「もっともだろう。
身体などあるから生きたいと思ってしまう。それが苦しみなのさ。


そして、お前も今、意味を求めて苦しんでいる」




荘子は、初めて真っ直ぐ兵の目を見た。




兵が持つ剣が僅かに震えた。

荘子は、



──動かすな



と剣の刃を握った。

手から血が吹き出し、剣をつたった。


「……痛くないのか」


「痛いさ」


荘子は笑った。


「でもそれは、この身体が勝手に痛がってるだけだ。
『俺』に相談もせず、勝手に叫びやがる。
礼儀知らずだろ?」


荘子はさらに剣を握った。


「この剣で俺を殺せても、『俺』は殺せない」



兵士の顔から汗が一筋、血と混じって落ちた。


「意味が分からない」


荘子はふっと息を吐いて、剣を持つ手を緩めた。

持っていたバトンをぽんと放り投げ、くるくる回るバトンを指一本で受け止めた。


「すぐ意味を求める癖があるな。
『殺される俺』と『生きてる俺』、どっちが本当の俺だ?」


荘子は兵の顔を覗き込んだ。


血の臭いと一緒に、静かな笑みが流れる。


「今朝、死体の上で、蝶になる夢を見たんだ。ふわふわ飛んで、花の蜜を吸ってた。
気持ち良かったぞ。
生まれたての娘の頬に止まったら声を出して笑ってた。
初めて笑ったと母親が喜んでいた」


兵の瞳が揺れた。


その眼をまっすぐ見て、荘子は優しく笑った。


「そんな、娘の頬に止まった蝶が俺が本当の俺で、
今ここにいる、殺されそうな俺が蝶が見ている夢かもしれない。
どっちも夢で、どっちでもないかもしれない。本当は区別なんてつけられないのに、俺たちはつけようとしてる」



風が、ふっと二人の間を抜けた。


血の匂いを少しだけ、薄めて。


兵は剣を下ろした。


手が震えて、もう握っていられなかった。



「……俺の娘も同じか」



「ああ、同じだ」


荘子はにっこり笑って、兵の肩を優しく、ぽんと叩いた。


兵の肩は大きく揺れた。


視界が歪む。


「俺の娘は、生後3日で殺された。
昨日まで『俺達は仲間だ』と酒を飲んでいたやつに笑って殺された。そんな人生に何の意味がある?娘が生きた意味は?
俺が生きた意味は?」


兵士は剣を握ったまま、足元の地面を見つめた。


剣の影が震えていた。


荘子は笑いながら言った。



「今、この瞬間も、蝶がお前の娘の夢を見ている。誰も蝶の夢を殺せはしない」


剣を握る手が、自分の手ではないみたいに震えていた。


剣が、がらんと音を立てて、地面に落ちた。

落ちた剣の先に荘子の血がぽたりと垂れた。


荘子は目を細くした。


「だから俺たちは、昼寝でもしよう。
死体が柔らかくて寝心地いいぞ」


兵士は膝から崩れた。


膝が地面にめり込む。


顔を上げて、空を見た。


荘子も同じ空を見上げて呟く。


「お前が今ここで剣をおろしたことで、
どこか遠くの知らない子供が、急にぱっと笑い出したかもしれない」


兵は顔を上げた。


頬を伝う熱いものが、涙だと気づくのに少し時間がかかった。




──俺に「泣く」という感情がまだあったのか。





荘子は相変わらず笑顔だった。




「俺が死ねば、どこかの誰かが急に生き返る。
俺が生きてれば、どこかの誰かが急に首を刎ねる。
そうやって、物事は全部繋がってるのさ。
お前と、娘も同じだ」


「……お前、本当に頭がおかしいな」


「ああ。
でもお前、今泣いてるだろ?──ほら、どこか遠くで誰か笑った」



荘子は満足そうに頷いて、またバトンをくるくる回しながら歩き出した。


背後には、さっきまでの殺気はもうどこにもなかった。




ただ、初めて「生きてる」という感覚の中で、子供のように泣いている一人の男がいるだけだった。



 *        *        *



その夜、兵は死体の山の上で寝た。


本当に寝心地が良かった。




翌朝、彼はまだ生きていた。



軍旗はもう別の色に変わっていた。


味方だったはずの部隊が、今度は自分を敵と呼んでいた。




彼は腰の剣を抜いて、自分の首に軽く当ててみた。



少し血が滲んだ。


痛かった。


「俺に断りなく身体が痛がりやがる──か」


そう呟いて、剣を地面に突き刺して立ち上がった。


ふと、落ちていた書簡が目に入った。

昨日の変な男が落としたものだ。




折りたたまれた書簡。


開いてみた。


彼に文字は読めなかった。


ただ、墨の線が竹の上で蝶のように跳ね、舞い、風に揺れているように見えた。



彼はしゃがみ込み、書簡を抱きしめた。


「ここにいたのか」


泣きながら、久しぶりに彼は、笑った。



 *        *        *



──老子のバトンは、まだ温かい。


ヤージュニャヴァルキヤから始まり、ブッダが血反吐を吐きながら握り続け、老子が挑発して捨てた、東洋哲学二千年分の重すぎるバトン。


人類が血と汗と涙で運んできた「究極の真理」。

そのすべて。



それは、老子が「これで終わり」と重く蓋をした箱を、軽く蹴っ飛ばして開け、中身を全部ぶちまけて、

「お、これ、いいじゃん」

と拾い上げたものだった。


次の受け手は、誰だっていい。


戦国が終わらない限り、この狂気のリレーは続く。

でも、たまにこうして、一瞬だけ、肉挽き器の歯車が空転する瞬間がある。



──それで十分だろ?



蝶か、人間か。

どっちでもいい。



夢の中で殺し合うのも、悪くない。



 *        *        *




──これは兵士には読めなかった、
だが風だけが読めた、荘周最後の文字である。




夜は静かだ。


血の匂いも月明かりに消える。



どれだけ笑っても、今夜のように、すうっと胸の奥が冷たくなる夜がある。


──俺はそろそろ寝たい。


だから、誰も。



誰も俺の代わりになんてなるな。


何も背負わなくていいから、
ただ一緒に寝よう。




道も、真理も、悟りも、なんにもない。



だから、
自分で何も決めなくていい。


自分で何も実行しなくていい。

自分で何も肯定しなくていい。

それ以上も以下もない。


なぜなら、「俺」なんて最初からいなかったからだ。

「お前」なんて最初からいなかったからだ。


俺は蝶となり、飛んでいく。


蝶のような雪片となり舞え。


屍の上で、血の匂いの中で、笑いながら、そのまま好きなように。


俺たちは自由だ。



舞ってもいい。


どこにも行かなくていい。



夢の中で、何ももたず、蝶でいていい。




本名を名乗るのにも、もう飽きた。


ただ──風が求めるなら、こう書いておこう。


いつの世とも分からぬ誰かの夢の中で



荘周



 *        *        *



彼は無数の蝶のような白い影となって、夜空に優しく光を放ちながら、遠く、天へと消えた。


ただ誰かと一緒に寝るために。


彼の笑い声だけが月夜に響いていた。



東へ。



 *        *        *



荘子の笑い声が消えた後も、彼が空転させた歯車の音は、千年もの時代を越えて響き続けていた。




黄梅山おうばいざん東禅寺とうぜんじ

雪が降りしきる冬の朝、ぼろぼろの藁靴を履いた一人の木こりが寺の門を叩いた。


背中に薪を負い、手には霜がびっしり張りついている。

顔は煤と風で真っ黒だが、目には朝日の輝きがあった。


「文字の読み書きができないなら話にならんが、米つきの雑用ならさせてやる」



「ありがとう!朝4回、夜3回がんばるよ!」



文字は一文字も知らないのに、なぜか彼の声には遠い戦場で誰かが笑ったような響きがあった。


米つき場で米をつく雑用係として採用された男の名は、


──慧能えのう


彼の手の中には、光るバトンが握られていた。


東洋哲学を文字から解放し、禅として東洋哲学に海を越えさせた男。



(続く)

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