第11話 老子 ─やる気ゼロの最弱かつ最強のジジイ─
──遠く、東の国。
古代中国、周の末期。
すべてが腐り、すべてが終わりを迎えようとしていた。
礼は形だけ、道徳は口だけ、戦争は毎年のように起き、人民は犬のように死んでいった。
そんな時代に、一人の老人がいた。
名を捨て、文字すら捨てた。
──老子。
そう弟子に呼ばれた男。
髪も髭も真っ白で、死んだ魚みたいな顔色をしているのに、目だけは深い光を宿していた。
彼はもう何も欲さなかった。
だから彼は一人、国を捨て、国境を超えようとしていた。
荷物は小さな布一枚。
杖一本。
──そして、遠く西から運ばれてきた、ひんやりとしたバトンが握られていた。
老子は自身の哲学を残すつもりはなく、一つの書も作ってはいなかった。
だから彼が関所を越えれば、東洋哲学は永遠に失われる。
しかし彼は構わず歩みを進めた。
* * *
関所の吏、
この男、星を読むのが得意で、ある夜、「東から来る紫色の気」を見て、聖人がこの地から西へ去ろうとしていたのを予期していた。
翌朝、ぼろぼろの爺さんがやってきた。
しかしその目には、確かに朝日の輝きが宿っていた。
一目でわかった。
こいつだ。
尹喜は土下座した。
「先生、どうかこの腐った世に、一筋の灯を残してください!
あなたの道を、書き残してください!
でなければ、人類は永遠に暗闇です!」
しかし老子は、
「知らん」
それだけ言って、歩き出そうとする。
尹喜は関所の門を閉めた。
兵を並べた。
本気で通さない。
「先生が書かなければ、私はここで死にます!」
老子はため息をついた。
まるで「しょうがねえガキだな」という顔で。
「そこまで言うなら、書いてやる」
そして三日三晩、筆を走らせた。
出来上がったのが、五千字。
ただの五千字。
表紙もない。
タイトルもない。
後に人々が勝手に『道徳道経』とか『老子』とか呼ぶようになったやつだ。
やる気は全くなかったので、一章目、冒頭一行目で、もう全部終わってる。
道可道、非常道。
名可名、非常名。
「言葉にできる道は、本物の道じゃねえ。
名付けられるモノは、本物のモノじゃねえ。」
つまり、
今から語る俺の言葉を信じる奴はバカだ。
俺の言葉を理解した気になった奴もバカだ。
でもな、
この五千字を読んで「わかった!」って胸を張る奴が一番バカだ。
そう冒頭から宣言したのだ。
老子はブッダと違って、遠回しにしなかった。
ブッダは教育者だったから、弟子が自分で気づくまで、わざと核心をぼかした。
しかし老子は「わかる奴だけわかればいい」と、核心をド直球でぶちこんだ。
お前が今「悟り」とか「私」とか「真理」とか言葉にした瞬間、もうズレてる。
「それ」なんだ。
言葉にした瞬間、「それ」ではなくなる「それ」。
言葉にして、ズレたまま満足するな。
ズレたまま死ぬな。
そして最後に老子は、こう締めた。
最強になる方法?
何もしないで、ただ流れに任せ、
ただ水のように低きに流れて、
ただ赤ん坊のように無垢でいろ。
以上。
これが最強だ。
そして、これを読んでまだ最強があると思う奴は最弱だ。
書き終えると、老子は筆を投げ捨てた。
尹喜が「先生!もう少し!」と叫ぶのも聞かず、水牛にまたがった。
振り返りもせず旅立った。
西へ。
(終)
──いや、西へ一歩だけ足を踏み出し、
立ち止まり、
そしてただ一言、風に乗せて呟いた。
「しょうがねえな」
ゆっくりと首を振って、水牛の頭を東へ向けた。
──ただし。
彼は手の中のバトンを道に投げ捨てた。
「握れるものなら拾ってみろ」
風が止んだ。
もう誰も追いかけなかった。
追いかけたくても、足が動かなかった。
歩いているのは水牛ではなく、道そのものだったからだ。
東へ。
* * *
──200年後。
春秋戦国時代。
七つの巨大な肉挽き器が同時に回っていた。
国境線は毎月塗り替えられ、昨日まで味方だった軍は今朝には敵で、昼にはもう屍の山だった。
そんな地獄の中心で、一人の男が、のんびり歩いてた。
老子が道に投げ捨てたはずのバトンをくるくると回しながら。
ヤージュニャヴァルキヤから始まり、ブッダが血反吐吐きながら、老子が挑発して捨てた、東洋哲学二千年分の重すぎるバトン。
人類が血と汗と涙で運んできた「究極の真理」。
そのすべてを、まるでおもちゃのように弄んでいた。
それは、老子が「これで終わり」と重く蓋をした箱を、軽く蹴っ飛ばして開け、中身を全部ぶちまけて、
「お、これ、いいじゃん」
と拾い上げた男。
彼の名は──荘子。
自由奔放、天衣無縫。
老子の哲学を、「わざと言葉にして」、笑いながら遊んでいた。
老子一代で終わるはずだった哲学を、蝶のように舞い、笑いながらぶち壊し、
それでも全部受け継いでしまった史上最凶の天才。
(続く)
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