第8話 フーコー ─ニーチェを排水口に落とした男─

1984年、パリ、第5区、サンテ刑務所の前。

灰色のコートを翻す男が、壁を見上げていた。


でも彼が見ているのは壁じゃない。


壁の向こうにある「見ること」そのものだ。



冷たい目をした男の名は、ミシェル・フーコー。



エイズと宣告された彼の身体は、すでに死にかけていた。


彼は知っていた。


ニーチェが殺した「神」は、死に損なっていたこと。


死んだのは神ではなく、


見えざる審判者の座。


──つまりそこに座る資格だった。



だから今、誰も座っていない椅子が、全員を見ている。



石畳に、錆びた鉄の欠片が落ちている。


彼はそれを拾い上げた。

それはサルトルが握り、赤い旅団が握り、ポル・ポトが握った、ニーチェのバトンの一片だった。


だが、フーコーはそれを握ることなく、静かに石畳の上に戻した。


フーコーはそれを、靴先で、

軽く、

一回だけ、

こつん、と蹴る。


欠片は排水溝に転がり落ちる。

もう音も立てなかった。


フーコーは、何も言わない。

微笑みもしない。

ため息もつかない。


ただ、灰色のコートを翻して歩き出した。


汚れたアパートの一室の扉を開け、フーコーはベッドに横になった。


ここには誰もいない。


「見る者」はいない。


フーコーは、誰もいない部屋で、

誰にも見られずに、静かに死ぬ。


フーコーは最後に静かに、呟いた。


「一緒に死のう。さようなら、フリードリヒ」


しかし排水溝は詰まっていた。


腐らない欠片は、まだ熱い。



 *        *        *



21世紀初頭。


タイムラインは吐瀉物と絵文字と広告で詰まり、

「いいね」の数だけが心拍のように脈打つ世界。


インフルエンサーは今日も自撮りで蕩け、

信者たちはスクロールする指を血が出るまで動かし続る。


誰もが「自分は特別だ」と信じながら、

誰とも目が合わない画面に顔を埋めて、

平和に、楽しく、ぬるく腐っていた。



──アパートの一室。


パソコンの青白い光が僕の顔を照らす足元に、

ニーチェの投げたバトンの最後の一片が落ちた。


僕はそれを拾い上げた。


キラリと、鈍く光った。


海の深淵から、腐った魚の腹みたいに濁った声が上がってきた。


ニーチェはニヤリと笑った。


歯はもう抜け落ち、目だけが白く光っている。

だがその奥には、まだ小さな炎が灯っていた。



「握ったな。お前が最後の一人だ。さあ、血を吐いて踊れ。超人になれ」



僕は微笑み返し、左手に握られたもう一本のバトンを見せた。



「──奇遇だね。ここに似たようなバトンがもう一本あるんだ。


これはね、東洋の風が運んできたバトンだ」



(東洋哲学編に続く)

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