第7話 サルトル ─自由に処刑された男─

1945年、パリ。


大戦の傷跡が残る、硝煙と腐臭の街。

カフェ・ド・フロールのテラスで、

震える指でシガレットを灰皿に押しつける男がいた。


彼の名はジャン=ポール・サルトル。


五年前、ドイツの収容所で嗅いだ鉄錆と排泄物の臭いが、今でも舌の奥にこびりついている。



 *        *        *



「俺たちは自由だ!」


解放の歓喜が聞こえた。

まるで戦争が終わったことで、すべての罪が帳消しになったかのような声。


サルトルは小さく笑った。


「──自由だ、か。確かに俺は自由だ。


明日、銃を取って誰かを撃ってもいい。

あるいは一生、誰のことも傷つけずに生きてもいい。


どちらを選ぶのも、俺だ。


誰にも止められない。

だが、誰にも許してもらえない。


そう、神は死んだ。

歴史も正義も、俺に免罪符をくれない。

善悪の基準は、どこにもない。

あるのは、ただ俺が選んだという事実だけ。


だからこそ、これは地獄だ。

自由とは、逃げ場のない終身刑。


いや、もっと残酷だ──


自分で自分に下す、死刑判決だ。」



その時、サルトルは、カフェの隅に落ちていた紙切れを見つけた。

煤け、端が焦げ、まるで半世紀前に焼かれたかのよう。


サルトルはそれを拾った。


指が震えた。


それは血と狂気で書かれた、一人の男の遺書だった。


最後はこう締めくくられていた。




踊れ。

虚無の上で、血を吐きながらでも、笑いながらでも、踊り続けろ。

それが人間に残された、唯一の尊厳だ。


遠くへ行け。

俺たち人間は、神が死んだ世界で、まだ舞える。


1889年1月3日 トリノにて




サルトルは息を呑んだ。


「……踊れ?」


彼は自分の震える足を見た。

収容所の鉄条網は外されたが、鎖の跡がまだ青く残っている。


踊れるわけがない。

一歩踏み出せば転ぶ。

転んだら、誰かが笑う。

誰かが「間違っている」と叫ぶ。

誰かが石を投げる。


踊れるわけがない。

だが、その言葉あまりにも孤独で、あまりにも危険で、あまりにも美しかった。



「このままではニーチェは死ぬ。

狂気の馬車に轢かれ、誰にも理解されず、ただ腐っていく。


許さない。

俺が、ニーチェを“人間の手に”取り戻す。」



サルトルは立ち上がった。

震える手で紙を握りしめた。


それは切っ先の鋭いバトンへと変わった。


血が滴る。構わず強く握った。


「……どうせ終身刑なら」


彼は呟いた。


「踊るしかないだろう」



──震える手でバトンを握りしめ、サルトルはカフェを飛び出した。


外は、まだ硝煙の匂いが残るパリの夕暮れだった。


どこか遠くで、誰かが叫んでいる。

自由だ、と。


サルトルは笑った。

初めて、心の底から。


そして、一歩を踏み出した。



踊り方はわからない。

ステップもリズムも拍子も、誰も教えてくれない。


神は死に、師は死に、道標は焼け落ちた。

残されているのは、ただ虚無の床だけだ。


それでもサルトルは叫んだ。


「俺たちは自由だ!」

「だがその自由が俺たちを殺す!」


「失敗の全責任を負わされるなら、いっそ大舞台に立て!」

「歴史を、俺たちが動かす!」


声は震えていた。

足はまだぎこちなかった。


だが確かに、一歩、また一歩、床を蹴った。

パリをゆく人が驚いたように振り返る。

カフェの客が立ち上がる。

通りすがりの若者たちが、息を呑んで見つめる。


老人たちは怒鳴り、警官たちは棍棒を振り上げた。


サルトルは転んだ。

膝を擦りむき、血が滴る。


立ち上がる。

また転ぶ。

それでも踊る。


血を吐きながら、笑いながら、泣きながら。

ニーチェの刃を握りしめたまま。



群衆ができた。

最初は十人。

そしてやがて、百人、千人と。

やがてパリ中が、彼の不器用な踊りに合わせて揺れ始めた。


「自由だ」と叫ぶ声が、波のように広がる。

棍棒が振り下ろされ、血が飛び散る。


それでも誰も止まらない。

これは、


20世紀後半の、最も派手で、最も美しい、踊りだった。


──そのはずだった。


サルトルは気づかなかった。

サルトルの踊りが、「自由の刑」を受け入れた者たちを、狂気の淵に引きずり込んでいくのを。


血なまぐさい踊りへと変貌していったことに。


あるいは気づいていたのかもしれない。

だが、もう遅い。


彼は呟いた。


「どうせ終身刑だ」


声はすでに、群衆の叫びにかき消されていた。


振り上げられた拳の中には、あの日のバトンが握られていた。



血の匂いを纏ったまま、永遠に、サルトルは踊り続けた。

転びながら、血を吐きながら、

誰かを殺しながら、誰かに殺されながら。


虚無の上で、ただ一人、いや、もう何万人と、踊り続けた。


これは、終身刑の、最も華麗な、執行だった。



──1950年代。アルジェリアの砂漠。

一人の黒い男がサルトルの本を銃床に叩きつけた。

『抑圧された者は抑圧者になる』という彼の言葉を、砂漠の若者が文字通り実行した。

ページが血で貼りついた。


──1968年、パリ。

石畳を剥がす手が震えていた。

「サルトル! サルトル!」と叫ぶたびに、誰かの母親が泣いた。

その視線の一つひとつが彼を自由にし、裁き、殺した。


──1970年代。

空港のロッカーに爆弾を仕掛ける若者が、

最後に開いたのは聖書ではなく、『存在と無』だった。



踊りが大きくなればなるほど、誰かが踏みつけられた。

誰かが「裏切り者」と呼ばれた。

誰かが「間違っている」と吊し上げられた。

誰かが「正義の名の下に」殺された。


踊りは、いつの間にか、行進に変わっていた。

バトンは、いつの間にか、鉄の旗竿に変わっていた。

炎は、いつの間にか、焼き尽くす火に変わっていた。


サルトルは踊りすぎた。

血の海の上で、完璧に踊りきって、


それが地獄だったと、やっと気づいた。

俺は踊った。だが誰かのために踊った。


サルトルは、最後に、震える手でシガレットを落とした。



 *        *        *



──夢を見た。


優しい顔でニーチェが立っていた。


「俺は、踊れなかったよ、フリードリヒ」


ニーチェは微笑んだ。

まるで古い友に語りかけるように。


「あれほど見事に踊っていたじゃないか。まるで──そう、末人のようだった」


その言葉に、サルトルはバトンを自らの腹に突き立てた。


乾いた音を立てて、刃はパリの石畳に転がった。

ニーチェはそれを蹴った。


血が広がる。

パリの石畳は、相変わらず冷たかった。


ニーチェは背を向けた。

遠ざかっていく。

もう振り向かない。


ニーチェはは呟いた。

誰にも届かない声で。


「お前にも殺せなかったか」



 *        *        *



石畳に転がった欠片は、まだ赤く燃えていてた。

パリの群衆が踏みつける。


だが、どんな靴底にも消えず、火花を散らし、次の手に渡っていく。


そして、ある東南アジアの革命家が、

あるドイツの学生たちが、

あるイタリアの若者たちが、


「自由」を握りしめて、数百万の死体を積み上げた。



そして──


1984年、パリ、第5区、サンテ刑務所の前。

灰色のコートを翻して、刑務所の高い壁を見上げる男がいた。


彼の足元に、同じ黒いバトンが転がった。


彼の名はミシェル・フーコー。


ニーチェのバトンを、ついに「見えない視線」に変えた男。



(続く)

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