第9話 ヤージュニャヴァルキヤ ─自我を論破した3500年前の天下一の賢者─

「私」とは何か。


あなたも一度は考えたことがあるだろう。


職業? 肩書?

いや、明日会社が潰れても私はここにいる。


体か?

いや、腕を失っても、私はまだ私だ。


では脳か?

これは怪しい。


しかし、待て。

夢の中では確かに「私」はいる。

でも目が覚めると、「あれは本当に私だったのか?」となる。


つまりこの「連続した私」という感覚は、


脳が作り上げた、すごく上手い物語にすぎないのではないか。

この疑いは永遠に晴れない。


それでは私とはなにか。


なんと3500年前に、この問いに対して


今読んでも頭が吹っ飛ぶほど無慈悲な答えをぶちかました男がいた。


彼の名はヤージュニャヴァルキヤ。


東洋哲学の最初の一滴。

それはインドから始まる。



 *        *        *



ヤージュニャヴァルキヤの天才ぶりを示す、伝説の一幕がある。


古代インド最大の「知の天下一武道会」。

景品は、黄金の鈴を角に下げた牛、なんと千頭。

会場はそうそうたる賢者たちで熱を帯びていた。


「俺が一番だ」「いや俺こそが」と火花を散らす中、

そこに現れたヤージュニャヴァルキヤは、開口一番、こう言い放った。


「賞品の牛、全部俺のものだから」


──場が凍った。


次の瞬間、怒号が爆発した。

「お前、何様のつもりだ!?」

「ふざけるな!」

「出て行け!」


だが、彼は平然と牛を引かせ始めた。


そして実際に、挑んでくる賢者を次々と、知の一撃で沈めていった。


誰一人として彼に歯が立たなかった。


これがヤージュニャヴァルキヤだ。


自分の知性に、微塵の迷いもない、まさに天下一の男。



 *        *        *



晩年、ヤージュニャヴァルキヤは全てを捨て、森へ消えようとしていた。

全てを捨てる前に、愛妻マイトレーヤーに言った。


「これからの生活に困らぬよう、半分はお前にやる」


するとマイトレーヤーは静かに微笑んで、こう返した。


「この世の富で、不死になれる?なれないよね。

だったら富なんていらない。

代わりに、あなただけが知っている“不死の秘密”を教えて」


ヤージュニャヴァルキヤは、微笑み、静かに答えた。


「いいだろう。

『私』とは何かを教えてあげよう。

それは、見るもの、聞くもの、考えるもの──

つまり“認識するそのもの”だ。


それは掴めない。

壊せない。

縛れない。


だから死なない。


すべての苦しみは、

掴めるもの、壊れるものを

自分だと勘違いしたときにだけ生まれる。


その勘違いをやめたとき、苦しみは消える。


これが不死だ。」



 *        *        *



つまりこういうことだ。


お前が今「怖い」と思ってるその感情も、

「寂しい」と思ってるその穴も、

「私がいなくなったらどうなるんだ」って震えてるその声も、

全部、認識しようとした瞬間に生まれた幻だ。


認識するそのものを認識できないだろ?


だから、お前は「お前自身」を認識しようとするのをやめてみろ。


ただの一瞬でいい。

本当に、やめてみろ。


……ほら、


消えなかっただろう?


消えたのは「消えるもの」だと思っていた「お前」だけだ。


今、残っている、かつて「お前自身」と呼ばれていた「それ」。


名前をつけたらとたんに「それ」ではなくなる、「それ」がお前だ。


幻は今、砕かれた。


もう戻れない。

おめでとう、「それ」。


これが、不死だ。




そう告げると、彼は振り返らず歩き出した。

黄金の牛千頭も、知の天下一の名も、愛する妻さえも置いて。


ただ一人、


東へ。



 *        *        *



──350年後。


当時のインドはヤージュニャヴァルキヤの考えを読み違い、

「苦行こそが真理だ」と信じる者で溢れていた。


そこに、6年間の極限の苦行を終え、

肋骨が浮き、目が窪み、立つことすら奇跡のような男が現れた。


──ゴータマ・シッダールタ。


自ら築いた「最強の苦行」を、自分でぶち壊した男。


その手には、ヤージュニャヴァルキヤのバトンが握られていた。

時を超えて、静かに──「お前が次だ」と命じていた。



(続く)

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