第3話 アリストテレス ─復讐の炎を知の炎に変えた男─
プラトンが「こいつこそ次代の王だ」と認めた唯一の弟子──
アリストテレスは、師の目の前で、静かに爆弾を落とした。
「先生、イデアってどこにあるんですか?
見えないし、触れないものが、どうして世界を説明できるんですか?」
プラトンは凍りついた。
イデアを否定された瞬間、
彼が20年かけて築いた復讐の城は、根こそぎ崩れ落ちた。
だってそうだろう。
イデアがなければ、「完璧な正義」「完璧な善」を知ってる人間なんてどこにもいない。
つまり「哲学王」なんて最初から存在し得ない。
プラトンがソクラテスの死を晴らすために設計した究極の国家は、土台から幻想だったことになる。
アリストテレスは、プラトンの「復讐の炎」を真正面から受け止めて、静かに──
いや、凍りつかせて消した。
「プラトン先生……、もういいじゃないですか。この世界が偽物だとしても」
プラトンが20年かけて築いた「イデアの世界」は、あまりにも美しく、完璧で、だからこそ冷たかった。
だからアリストテレスははっきり言った。
「イデアなんて見えない。
でも目の前の蛙は跳ねている。
木の葉は確かに緑だ。
人の心は揺れて、怒って、愛して、裏切る。
本当のことは、遠くの天にじゃなくて、ここにある。
触れるものの中に、観察できるものの中に、ちゃんとある」
プラトンは震えながら言う。
「お前は……俺のすべてを否定するのか」
アリストテレスは静かに首を振った。
「違います。僕は先生の夢を、現実の地面に降ろしてるだけです」
それはアリストテレス最大の“裏切り”であり、同時に最大の“救い”だった。
プラトンがソクラテスを弔ったように、
アリストテレスはプラトンを弔った。
復讐の炎は沈下し、同時に初めて「知」へと変わった。
怒りから始まった哲学が、ついに怒りを超えた。
プラトンはソクラテスから受け取ったバトンを取り落とした。
しかしそのバトンはしっかりと、アリストテレスが受け継いだ。
「プラトンは私の友であり師だ。だが真理はもっと大切な友だ」
アリストテレスはそう言い、現実を歩き出した。
図書館を作り、動物を解剖し、星を観測し、政治体制を170以上も分類した。
天文学、気象学、動物学、植物学、地学などの学問は、全てアリストテレスから始まった。
万学の祖。
その名に恥じぬ巨人。
アリストテレス。
彼によって復讐の連鎖は、ここで途切れた。
いや、途切れたんじゃない。
「観察と理性」へと昇華された。
アリストテレスが否定した「哲人王が統べる国家」は、彼の手で王政、貴族制、共和制と分類された。
ローマ共和国も、イギリスの議会制も、アメリカ合衆国の設計も、
全てアリストテレスの『政治学』を読んで作られた。
ネットでは今日も、日本が、中国が、アメリカが、と意見が飛び交っている。
僕達は言う。
「完璧な国家なんてない」
「でも、それでも生きていくしかない」
「この不完全な世界で、少しずつマシにしていく」
「それが、僕たちにできる、一番まともな反抗だ」
それを聞いて、アリストテレスはニコリと笑う。
「それは2500年前に私が結論づけていたよ。」
万学の祖にして国家の基礎を築いた巨人──
アリストテレス。
僕たちは今でも、
この巨人の手のひらの上にいるのかもしれない。
ソクラテスが毒杯を飲んだ日から2500年。
復讐の炎は消え、観察と理性に変わり、
それでも僕たちはまだ、同じ問いを繰り返してる。
「理想の国とは?」
「本当の正義とは?」
その問いに真剣に挑もうとしたとき、天から声がする。
ようこそ、こちら側へ。
ここは、深淵に迫る勇気のある者が、本当に歩き始められる場所だ。
(哲人三部作完)
* * *
……静まり返った「こちら側」で誰かの声がする。
穏やかな声だ。
アリストテレス。
認識のバトンをありがとう。
素晴らしい。
だが甘すぎる。
お前が「不完全な世界を少しずつマシにする」と思っている行為すら、
全て、お前の頭が勝手に作った「枠」の中でしか起こってない。
本当の深淵は外にあるのではない。
お前の頭の中、その奥にある。
穏やかな声の主は、アリストテレスからアウグスティヌス、デカルト、ライプニッツ、ヒュームと、名だたる哲人が連綿と受け渡してきたバトンを、 完全に別の次元にぶち上げ、そして地に叩きつけた男──
イマヌエル・カント。
ようこそ、本当のこちら側へ。
あちら側はまだ暖かかった。
こちら側は絶対零度だ。
(続く)
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