第4話 カント ─2000年の哲学の破壊者─

……静まり返った場所に、誰かがゆっくりと歩いてくる。


彼の毎日の日課。


決まった時間の穏やかな散歩のはずだ。


それなのに、彼の一歩一歩に、空気がビリビリと震える。


声の主は穏やかに、しかし低く呟く。


「アリストテレス。君が2500年かけて追い続けた 『本当の世界の姿』は、永遠に手に入らない。」



 *        *        *



ソクラテスから始まり、

プラトンは天に探し、

アリストテレスは地に這いつくばって観察し、

人類は一貫して問い続けた。


「この世界の本当の姿は、一体どこにあるんだ?」


カントはその問いに静かに、そして冷徹に答えた。


「『モノ自体』には、人間は原理的に到達できない」


その宣言と共に、カントは人類が渡し合ってきた「本当の真理」というバトンを地に叩きつけた。



カントの言う『モノ自体』とは、


人間の目が開く前、

耳が聞く前、

脳が「時間」「空間」「因果」という型にねじ込む前の、

「ただそこに在るだけ」のもの。


その『モノ自体』を人間が認識できるか?


そんなものに、人間の認識が届くはずがない。

原理的に無理なのだ。


届く瞬間、それはもう「人間にとっての現象」に変換済みだからだ。


「本当の深淵は外にあるのではない。お前の頭の中、その奥にある。」


カントの言葉に哲学者たちは膝から崩れ落ちた。


彼らの眼の前には、2000年間、哲人たちにより連綿と受け継がれてきたバトンが転がっていた。


外に敵はいなかった。

外に救いもなかった。

外に神も悪魔も正義も不正も、最初から存在しなかった。

敵も味方も戦場も、


全部、頭の中の独り芝居だった。



地面に転がったバトンを蹴り、穏やかな顔でカントは言い放った。


「それでいい。わからないものはわからない。

だったら、最初から

『人間の形式に変換された後の世界』だけを正確に探求すればいい。」


それはつまり、


「普遍的な真理」なんて、最初から存在しなかった。


という宣言であった。


「現実」と呼ぶものは、最初から人間仕様に改変された二次加工品でしかなかったのだ。


「真理とは人間を超えた、神の視点にだけ許された絶対的なものだ」


という2000年続いた常識を、カントは一瞬で粉々に砕いた。



人類史上最大の傲慢、


「俺たちは本当の世界を知ることができるはずだ」

を、根底から否定した。



プラトンのイデアも、

アリストテレスの実体も、

デカルトの明証も、

ライプニッツの単子も、


全部、人間の頭が作った安物のプラネタリウムの星にすぎない。


カントにより、哲学という城が崩された。


カント以前の哲人たちが築き上げてきた「哲学」という城は、砂の城だった。


天からも地からも、真理は永遠に見つからない。


……崩れた城を見下ろし、カントは凍りついた唇をほとんど動かさずに言った。


「外に真理がなくても、内側に法は作れる」


その宣言はつまり、ソクラテスの毒杯から2000年。


人類はついに「知ることの完全敗北」を受け入れ、


「どう生きるか」だけに尊厳を移した、


ということに他ならなかった。




カントは生涯をケーニヒスベルクで穏やかに過ごした。

毎日決まった時間の穏やかな散歩が好きで、平和を愛し、理想を語った。


彼は優しく微笑みながら、

それ以前の哲学者が、毒杯を飲み、業火にまみれ、這いつくばってでも渡し合ってきたバトンを、


絶対零度で凍らせ、地に叩きつけた。


その名を唱えよ。


──イマヌエル・カント。


彼以前の哲学を微笑みながらぶっ壊した男。



 *        *        *



カントが2000年分の城を粉々に崩した後、

瓦礫の山は静かに冷えきって、誰も近づかなくなった。


そんな忘れ去られようとしてた瓦礫の山に、ひとりの男がやってきた。


彼はカントが「外の真理は永遠に知ることはできない」と蓋をした棺桶を蹴り飛ばし、

瓦礫の中に転がったバトンの破片を拾い上げて、狂ったように笑った。


「真理は死んだ?神は死んだ?知ったことか。


新しい価値を創造するのはこの俺だ」


カントが叩き割ったバトンの欠片を両手で握りしめ、

その手に血をにじませながら狂ったように踊り始めた。


神殺しの踊り子、フリードリヒ・ニーチェ。

──哲学は死んだ。


だからこそ、哲学はここから本当の意味で始まる。



(続く)

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