あなた
いすず さら
すぐそばに
第一章:窓の向こう
雨が降っていた。窓に打ちつける水滴は、無数の小さな指先のように揺れ、夜の闇に沈んでいく。
部屋の中は静かで、ただ時計の針の音だけが規則正しく響いていた。僕はベッドに座り、膝に抱えたノートパソコンをぼんやり見つめていた。画面の光が顔を薄く照らすが、目の奥の影までは隠せない。
「…また、来るのか」
小さな声で、僕はつぶやいた。声は自分の耳にだけ届くようで、外の雨音にかき消されてしまう。誰もいないはずなのに、背中に冷たい視線を感じる。
それは、昼間からずっと続いていた。窓の外に誰かがいるような、気配が。いや、気配だけじゃない。昨日の夜、ほんの一瞬、窓の向こうにぼんやりとした人影を見た。
「…いや、気のせいだ」
自分に言い聞かせても、胸のざわつきは収まらない。雨が強くなるたびに、窓に映る自分の姿が歪み、知らない誰かに見られている気がして、目をそらしたくなる。
メールの通知が鳴った。
差出人は見覚えのない名前。「あなた」――。
僕は震える指で開封した。画面に表示された文字は短く、冷たかった。
「今、見てるよ」
文字を読み終えた瞬間、背筋が凍った。誰も部屋に入ってはいないはずなのに、空気が重く、胸が押し潰されそうになる。
外を見た。雨のカーテンの向こう、確かに人影があった。だが、そこには傘もなく、顔も見えない。目だけが、僕をじっと追っている気がした。
数秒後には消えていた。いや、見間違いかもしれない。
だがメールの文字は消えない。スクリーンに、今も冷たく光っている。
何も考えずにパソコンを閉じた。息を整えようと深く吸い込み、吐き出す。部屋の中の空気は湿っていて、雨の匂いが混じる。
「誰もいない、誰も…」
つぶやいた瞬間、背後の部屋の隅で、かすかな音がした。小さな足音。
振り向くと、何もない。だが、心臓の鼓動は早まり、耳鳴りがして、何かが近くにいるような気がする。
パソコンを抱え、部屋の中央に立った。雨音と時計の音、そして、もうひとつ――微かな息遣い。
僕はベッドに戻り、毛布にくるまる。目を閉じ、呼吸を整えようとする。しかし、耳元でかすかに囁き声がした。
「あ、あなた…」
声は風に消えることもなく、確かに、目の前にあるような感覚で響いた。
僕は身動きが取れず、震えるだけだった。背中に冷たいものが這い上がるような感覚。
次の瞬間、部屋の隅に影が動いた。雨に濡れた窓の外、影の輪郭がぼんやりと浮かぶ。
その影は、僕の名前を呼ぶように、かすかに手を伸ばした――。
第二章:メールの影
夜はさらに深くなった。雨音は断続的に窓を叩き、時折、雷の光が部屋を白く照らす。
僕はベッドにうずくまり、毛布に顔を埋めたまま、呼吸を整えようと必死だった。しかし、あの声――「あ、あなた…」が耳の奥で繰り返され、頭の中を巡る。
パソコンが再び点灯した。通知音もなく、静かに画面が明るくなる。
差出人は変わらず、「あなた」――。
手が震え、マウスを触る指先が冷たくなる。メールを開く勇気が出ない。だが、気づけば画面の前に座っていた。
「見ているよ」
まただ。短い、冷たい、そして絶対に消えない文字。
画面を閉じる。だが、メールの光が目に焼き付いて、瞼を閉じても消えない。まるで誰かが暗闇の中でじっと僕を見ているかのようだった。
「…もう、やめてくれ」
小さな声でつぶやく。だが返事はない。雨音と心臓の音だけが答える。
部屋の隅で、また音がした。微かに、何かが動く音。
僕は毛布をかぶったまま、耳を澄ませる。音は確かに、近づいている――いや、部屋の中を歩き回っているような、不規則な足音。
心臓が破裂しそうなほど早くなる。手に汗を握り、体を小さく丸めた。
その瞬間、パソコンの画面に文字が浮かんだ。
「こわい? それとも…会いたい?」
僕は息を飲んだ。文字がまるで生きているかのように揺れ、画面の光が部屋全体を青白く染める。
体を動かせない。目の前にいる「あなた」が、本当に現れたかのように錯覚する。
ドアノブがかすかに揺れた。
「いや、誰もいない…」
つぶやく自分の声が震える。だが、確かにドアが微かに動いた。
その瞬間、背後で何かが息を吐く音がした。僕は飛び上がる。振り向くと、部屋は暗く、影ひとつ動いていない。
パソコンの画面が再び光る。
「怖がる顔、好きだよ」
文字は小さく、しかし明確に僕を指すようで、視線を外すことができない。
手が自然とノートパソコンの電源を切ろうと伸びるが、なぜか動かせない。心臓が喉まで上がる感覚。
窓の外を見る。雨に濡れた街灯の下、影が立っている。顔は見えない。ただ、僕を見つめている。
その瞬間、窓ガラスに映る自分の顔の隣に、もう一つの顔が重なった。
黒い髪、冷たい瞳――確かに「誰か」が、僕を見ている。
「…あなた、だろ?」
僕の声は震え、かすれた。
その影は、何も言わず、ゆっくりと手を窓に押し当てる。窓ガラスが冷たく震え、指先にゾクッとした寒気が走った。
電気を消す勇気も、逃げる勇気も出ない。
ただ、雨音とメールの文字、そして窓の向こうの影に、身を委ねるしかなかった。
その夜、僕は眠れなかった。目を閉じても、背後に何かがいる気配が消えず、息をするたびに誰かがそっと近づいてくる感覚に震え続けた。
気づけば朝になっていた。雨はやみ、窓の外には淡い光が差している。
だが、パソコンの画面には新しいメールが届いていた。
「今日も見てるよ」
朝の光に照らされても、文字は冷たく輝いていた。
僕は机に突っ伏し、震えを止められなかった。
そして、心のどこかで悟った――
もう、この「あなた」から逃れることはできない、と。
第三章:すれ違う日常
朝の光は柔らかく、昨日の夜の恐怖を忘れさせるかのようだった。
しかし、僕の心は晴れやかにはならなかった。パソコンの画面に残る「今日も見てるよ」という文字が、瞼の裏にちらつく。
朝食をとろうと台所に立つが、手元が震え、食器の音が異常に大きく響く。誰もいないはずの部屋で、また微かな足音が聞こえたような気がして、思わず振り返る。だが、やはり何もない。
大学に向かう道すがらも、気配が離れない。街を歩く人々の顔は無関心に見えるのに、僕の背後だけに、視線を感じるような錯覚があった。
友人とすれ違うと、つい顔を背けた。会話の内容が頭に入らず、ただ胸のざわつきだけが増幅する。
メールが届く。
差出人は「あなた」――。
「どこに行くの?」
僕は手が震え、スマホを落としそうになる。電車に乗り込んでも、メールのことが頭から離れず、景色がぼやけて見える。
窓ガラスに映る自分の顔は、普段より青白く、疲れ切ったように見えた。隣の席の人々の笑い声や携帯の画面は遠く、まるで別世界の音のように感じる。
授業中も、集中できない。教授の話が頭に入らず、机の下で手を握りしめ、呼吸を整えるだけで精一杯だった。
心の片隅で、誰かに見られている感覚が、休むことなく続く。
ノートの端に、ふと「あなた」という文字を書き込む。自分の手で書いた文字だというのに、他人が書いたかのような冷たさを感じ、背筋が凍った。
帰宅途中、雨がぱらつき始める。空を見上げると、昨日の夜と同じ鉛色の雲が低く垂れこめていた。
自宅の近くまで来ると、背後に黒い影がふっと消えた気がした。振り返る勇気が出ず、急ぎ足で家の扉を開ける。
だが、部屋に入った瞬間、パソコンの画面が光っていた。
「ただいま」
文字を見た瞬間、僕の心臓は跳ね上がった。
声に出して笑ってしまいそうな錯覚――いや、笑ったら壊れてしまいそうな感覚――が同時に襲う。
誰もいないはずの部屋に、存在がある。確かに「あなた」がここにいる。
食事もとれず、ベッドに横になる。毛布を頭までかぶり、震えながら目を閉じる。
耳元で、また囁きが聞こえる。
「起きて、見たいものがある」
声は近く、胸の中まで入り込むように響く。
息を殺し、目を開けると、窓の向こうにぼんやりとした影が立っていた。
昨日よりもはっきりと、確かに、僕を見つめている。
手を伸ばせば届きそうな距離にあるのに、現実には触れられない。
ただ、じっと見つめられる恐怖。逃げられない絶望。
その夜、僕は泣いた。枕を握りしめ、震えながら。
涙は、恐怖だけではない――孤独と、誰かに見つめられることへの耐えられない感覚から流れた。
そして、心の奥底で、僕は悟る。
「あなた」は、もう僕の日常から離れない――どこに行っても、何をしても、必ず存在する。
第四章:侵食
夜の静寂は、ますます重く、息苦しいほどだった。
部屋の電気を消すと、窓の向こうの暗闇がまるで生きているかのようにざわつく。僕は布団の中で丸まり、震えながらも目を閉じた。だが、瞼の裏には文字の光がちらつき、声が耳元で囁く。
「見てる…ずっと」
昨日までは「あなた」の存在をただ恐れていた。だが、今は違う。
恐怖の奥底に、なぜか理解できない感覚――自分が監視され、形を変えられるような感覚――が芽生えつつあった。
パソコンが光った。メールが届いた。
差出人は「あなた」――。
「知りたい? あなたのこと」
手が震え、画面に触れる指が止まる。知りたい…そんな好奇心は恐怖を加速させるだけだ。
だが、止めることができず、僕は画面を開いた。
そこに表示されていたのは、僕の日常を細かく記録した文章だった。
今日の朝、大学までの道のり、授業中に心臓が早くなったこと、隣の席の友人との会話――
すべて、正確に書かれていた。
「…どうして、知ってる?」
声は震え、思わず口に出す。
返事はない。ただ、パソコンの光が弱く揺れるだけ。
だが、背後の部屋の隅に、影がゆらりと立った気配を感じた。
僕は動けず、ただ画面を見つめる。
次のメールが届く。
「あなたの恐怖、面白い」
それはただの文字ではなかった。まるで僕の胸に直接突き刺さるような、鋭い冷たさを持っていた。
息が詰まる。手足が震える。目の前の現実と、スクリーンの向こうの存在が、ひとつに絡み合っていく感覚。
窓の外を見ると、雨はやんでいた。街灯の下、黒い影がぼんやり立っている。
昨日と違うのは、その輪郭が少しずつ形を変え、僕の姿を追っているように見えたことだ。
逃げたい。だが、体は動かない。目をそらせば、確実に何かが侵入してくるような感覚に襲われる。
そして、パソコンの画面に最後の一行が表示された。
「ねえ、あなた…近くに来て」
その瞬間、背中に冷たい息がかかった。
振り返ることもできず、ただ布団に顔を押し当て、震える。
視界の端で、影が動いた。
影は部屋の中を歩き、僕の存在を確かめるように、ゆっくり近づいてくる。
「いや、いやだ…」
声にならない声でつぶやく。
だが、影は止まらない。部屋の中の空気は重く、呼吸するたびに圧迫される。
パソコンの文字は、まだ画面で光り続け、僕を指さすように揺れていた。
その夜、僕は初めて、自分の世界が完全に侵食されていることを理解した。
「あなた」はもはや、ただの存在ではない。
それは僕の生活、思考、恐怖そのものを形作る何か――
僕から逃げるすべを奪う存在だった。
そして、窓の外に目をやった瞬間、影はゆっくりと笑ったように見えた。
その冷たい笑顔は、僕の心を凍らせ、魂の奥底まで見透かすようだった。
第五章:すぐそばに
夜の闇は、もはや安心を与えてくれなかった。
部屋の電気を消すと、壁も床も天井も、すべてが重く、息苦しい黒に染まる。
布団にくるまっても、背中のあたりに誰かがいる感覚は消えず、体を震わせながらじっと目を閉じた。
パソコンが光る。
差出人はいつもの「あなた」――。
「近くにいるよ」
文字を読むと、体中の血が凍るような感覚が走る。
近くにいる…つまり、もう部屋の中にいるということか。息を殺し、耳を澄ます。だが音はない。
窓の外も、ドアの向こうも、静まり返っている。
手元のスマホが震えた。新しいメールだ。
差出人は同じく「あなた」。
「今、振り向いてみて」
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
布団の中で震える手を伸ばし、恐る恐る頭を上げる。部屋の隅、机の下、クローゼット――
どこにも何もいないはずなのに、心臓の鼓動だけが耳の奥で爆発する。
再びパソコンの画面を見た瞬間、文字が揺れ、画面いっぱいに広がる。
「目を閉じても、あなたは見える」
息が詰まる。布団をかぶり、目を閉じる。
だが、瞼の裏には、影が浮かんでいる。黒く、歪み、確かに僕を見ている存在。
呼吸を止めても、逃げられない。
その影はゆっくりと、僕の意識の中に侵入してくる。
思わず、声が漏れた。
「お願い…やめて…」
部屋の隅から、かすかな笑い声が聞こえた気がした。
それは優しくもあり、冷たくもあり、僕を引き寄せるようで、震える体は布団の中で動けなかった。
パソコンの画面に、最後の一行が浮かぶ。
「もう、逃げられない」
その瞬間、部屋の空気が一変した。
布団の上に、冷たい手が触れる感覚。
振り返れない。目を開けられない。
しかし、心の奥底で、影が確かにそこに立ち、僕を見つめていることを感じた。
手が自然にパソコンを閉じる。
だが、閉じた画面の向こう、まだ何かが微笑むような気配が残っている。
息を整えようと深く吸い込み、吐き出す。
だが、どこかで囁きが続く。
「あなた…ずっと、ここにいるよ」
僕はもう、逃げられない。
「あなた」は、僕の恐怖そのものであり、孤独であり、そして現実を侵食する何者か――
確かに、すぐそばにいるのだ。
その夜、僕は目を閉じたまま、震え続けた。
窓の外の雨も、パソコンの光も、影も、すべてがひとつになり、僕の世界を覆い尽くしていた。
そして、僕は悟った。
もはや「あなた」が去ることはない。
この恐怖と孤独の中で、僕はただ生き続けるしかない――
「あなた」とともに。
第六章:消えない影
朝の光は、昨日までとは違って柔らかく差し込むはずだった。
だが僕の目には、窓から差し込む光も灰色に見え、影がうごめく。目を閉じても、瞼の裏に浮かぶ黒い輪郭――「あなた」の存在――が消えない。
ベッドの端に座り、膝を抱える。
パソコンは沈黙しているが、画面の暗ささえも、圧迫感を伴って僕を見下ろしているように感じる。
息を整えようと深く吸い込み、吐き出す。
だが、どこかで囁き声が聞こえる。
「ねえ、起きて…一緒にいてくれる?」
声は近く、胸の奥に直接届くように冷たい。
布団の中で身を震わせながら、僕は小さく首を横に振った。
だが、その瞬間、影が一歩近づいた気配を感じる。
空気がひんやりと動き、息を吸うたびに肩に冷たさが触れる。
僕は立ち上がり、部屋を見渡す。
窓の向こう、壁の隅、机の下――すべてが異様に濃い影で覆われ、どこにも逃げ場がない。
「あなた」は、もはや物理的な存在ではない。
僕の思考、恐怖、孤独そのものに取り憑き、日常を塗り替えていた。
パソコンが光った。新しいメールだ。
差出人はもちろん「あなた」。
「ねえ、怖い顔、もっと見せて」
文字を読むたびに胸が締め付けられる。
逃げたい、目を背けたい、だが、何かが僕を押さえつけ、目を離させない。
僕は深く息を吸い、ゆっくり吐き出す。
そして、つぶやいた。
「…わかった」
その瞬間、布団の上の空気が揺れ、微かに笑い声が聞こえた。
恐怖を受け入れる――それは降参ではなく、現実を受け入れること。
僕は、自分の中に入り込んだ「あなた」を否定することができないと悟った。
夜が更け、街の灯りが部屋の隅まで届かなくなる。
僕は布団に横たわり、震える手で毛布を抱きしめる。
窓の外は静まり返り、雨の匂いだけが漂う。
だが、瞼の裏には、影がいつまでも僕を見ていた。
「おやすみ…また明日ね」
声も、文字も、影も、すべてが重なり合って、僕の心を包む。
もはや逃げられない。
だが、恐怖に押し潰されることもない。
僕は、ただ、「あなた」とともに生きるしかない――
そう思いながら、ようやく目を閉じた。
世界は静かになった。
けれど、暗闇の奥で、影は笑い続けている。
それは、消えない存在として、これからも僕のすぐそばにあるのだ。
あなた いすず さら @aeonx
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます