第9話「初動」
深山潔監督のオーディション当日。
都内某所のスタジオ。
エントランスの自動ドアをくぐった瞬間、空調の冷たい風が頬を撫でた。
白いシャツ。黒いスラックス。細いベルト。
鷹宮さんと一緒に選んだ、メンズの服。
鏡で何度も確認した。似合ってると思う。シンプルで、清潔感があって、女子っぽくない。
——これが、今のボクの精一杯の「男らしさ」だ。
「イオリくん、今日の服いいね」
隣を歩くマネージャーの高橋さんが、こっちを見て微笑んだ。
高橋さんは27歳。パンツルックのスーツが似合う
女性だ。身長もボクより10cmは高くて、並ぶといつも複雑な気分になる。もちろん彼女が悪いわけじゃない。
「いつもより大人っぽく見える。落ち着いた感じがして、オーディションにぴったり」
「……ありがとう、ございます」
大人っぽい。落ち着いた感じ。
——でも、「男らしい」とは言わなかったな。
わかってる。期待してない。
受付に向かう。心臓がうるさい。ドクン、ドクン、ドクン。
でも今日は、いつもと違う緊張だ。
怖いだけじゃない。
——深山監督に、会える。
あの、ボクが憧れ続けた人に。
「あの、イオリユウです。『英雄は四月に死ぬ』のオーディションで——」
「イオリユウさんですね。お待ちしておりました。右奥の会議室Bが控室になっております」
受付の女性が、にこりと笑った。そしてボクの顔を見て——
一瞬、止まった。
視線がボクの顔から首元、シャツ、スラックスへと流れる。
何かを確認するような目。迷っている目。
二秒。三秒。
「あと……女性用のメイクルームはこちらに——」
——やっぱり、か。
でも、迷ってたよな?
いつもは即答で「女性」と判断される。
「あ、あの、ボク、男、なんですけど……」
受付の女性が、目を丸くした。
「し、失礼しました!男性用のメイクルームあちらです!」
「……今日は、大丈夫です」
廊下を歩き出す。
高橋さんが、隣で小さく笑った。
「気にしないで。マネージャーって普通、同性が担当することが多いから。私が女だから、イオリくんも女性だと思われたんだよ」
——フォロー、してくれてる。
わかってる。高橋さんは優しい人だ。
でも、その優しさが、かえって胸に刺さる。
フォローしなきゃいけないほど、ボクの見た目は「そう」なんだ。
——でも。
あの人は、迷ってた。
男か女か、どっちか考えてたってことだ。
メンズ服のおかげかも。一瞬「男かも」と思わせることができた気がする。
それは——小さいけど、効果があったってことだ。
……たぶん。そうだと思いたい。
自分で選んだ服。自分で決めた勝負服。
少しだけ、背筋が伸びた気がした。
-----
会議室Bのドアの前で、足が止まった。
「ここで待ってれば、順番が来たら呼ばれるみたいね」
「……はい」
ドアを開ける。
中には、パイプ椅子がいくつか並んでいる。壁際に鏡。窓はない。蛍光灯の白い光だけが、無機質に空間を照らしている。
誰もいない。
——ボクが最初じゃないはずだ。
他にもオーディションを受ける声優がいるはず。もう終わったのか、それともこれからなのか。
椅子に座る。ギシッ、と小さく軋んだ。
高橋さんが隣に座る。
「深山監督、直接指名だからね。自信持っていいんだよ」
「……はい」
——深山潔監督。
ボクがこの業界を目指すきっかけになった人。
最初に『幻影少女』を観たのは、高校三年の冬だった。
映画館を出た後、しばらく動けなかった。
映像が美しいのは、誰でもわかる。興行収入100億円を超えたのも納得だ。
でも、ボクが震えたのは——声だった。
主人公の少女・ミコトの声。
深山作品の声優は、演技の「間」が独特だ。
普通のアニメより、0.2秒から0.3秒ほど長い。
台詞と台詞の間。息継ぎのタイミング。感情が切り替わる瞬間の沈黙。
その「間」が、キャラクターに生々しい実在感を与えている。そして普通はノイズとして処理される息遣いすらも、生々しく演出に生かしている。
アニメなのに、そこに本当に人間がいるような——呼吸をしている、生きているような感覚。
たぶん、普通の観客は気づかない。
でもボクの耳には、その0.2秒の違いが。間に込めた音が、はっきりと聴こえた。
——この監督は、「声」をわかっている。
そう確信した。
それから深山監督の作品を全部観た。MV時代の作品も、実写映画も。
どの作品にも共通点があった。
「本物と偽物」「存在と虚構」——そういうテーマを、繰り返し描いている。
彼は、意図して本物を“創る”監督だと思う。
そして、意図して本物の固定観念を“壊す”。
本物とは何か。偽物は本当に偽物なのか。
深山監督はその答えを出さない。
作品で“問う”だけだ。
その問いかけが、ボクには痛いほど刺さった。
女に見える男。偽物みたいな本物。
——ボク自身が、深山作品のテーマそのものだった。
だから、エリカの役を読んだとき、すぐにわかった。
この子も、そうなんだ。
空を飛ぶことに憧れながら、高いところが怖い。
矛盾を抱えて、それでも空を見上げている。
台本のト書きには、こう書いてあった。
『エリカの声は、強がりの奥に脆さがある。脆さの奥に、折れない芯がある』
——強がりの奥の脆さ。脆さの奥の芯。
それは、表面だけの演技じゃ出せない。
声の震え方、息の吐き方、言葉の立ち上がり——全部が繋がっていないと、嘘になる。
深山監督は、その嘘を絶対に見逃さない。
ボクがいちばん好きな監督だから。ボクがいちばん出たかった作品だから。——解る。
この人の前でなら、嘘をつきたくない。
台本を取り出す。
『英雄は四月に死ぬ』
何度も読んだ。エリカの台詞は、全部頭に入ってる。
小さく声に出してみる。
「私も、飛べるかな」
——うん。大丈夫。声は出る。
手が震えている。
深呼吸。吸う。吐く。吸う。吐く。
——ボクは、声で勝負しに来たんだ。
見た目じゃない。性別じゃない。
エリカの声を、届けに来たんだ。
-----
十分ほど経った頃だった。
バン、と勢いよくドアが開いた。
「——っ!」
ビクッと肩が跳ねる。台本を落としそうになった。
高橋さんも驚いた顔をしている。
入ってきたのは、二十代後半くらいの女性だった。
長い黒髪。整った顔立ち。
その後に続いて入ってきたスーツ姿の男性——たぶんマネージャー——だな。
彼女の顔は、怒りで真っ赤だった。
「なんなのよ、あの深山って人!」
声が楽屋中に響いた。
ボクは椅子の端で小さくなる。目を合わせたら巻き込まれそうで、台本に視線を落とした。
「いきなり一回しかセリフを読ませないって、どういうこと!?」
女性がマネージャーに詰め寄っている。
「こっちだって気持ち入れる準備があるのに! 喉だってあったまってないのに!」
「落ち着いて、とりあえず——」
「落ち着けるわけないでしょ! 私、ちゃんと練習してきたのよ!? 何パターンも用意してきたの! なのに『はい、どうぞ』『はい、ありがとう』の“一回”で終わり!? なにそれ!」
—— え?一回だけ?
心臓が、嫌な音を立てた。
「せめてもう一回くらいチャンスをくれてもいいじゃない! 『もう少し明るく』とか『もっと切なく』とかディレクションがあれば、いくらでも調整できるのに!」
女性の声が震えている。怒りだけじゃない。悔しさが滲んでいる。
「あの人、最初から選ぶ気なんてないのよ。きっと出来レースなんだわ。だって一発勝負なんておかしいでしょ!? 声優のオーディションじゃないわよあんなの!」
マネージャーが宥めながら、女性を楽屋の外へ連れ出していく。
「とりあえず車で待ってて。荷物取ってくるから」
バタン、とドアが閉まった。
静寂が戻る。
ボクは、台本を握りしめたまま、動けなかった。
隣で、高橋さんが小さく息を吐いた。
「……すごい怒ってたね」
「……はい」
「でも、イオリくんは大丈夫だよ。監督に指名されてるんだから」
——大丈夫。
そうだろうか。
深山監督のインタビュー記事を思い出す。
『本物の瞬間は、一度しか訪れない』
『二度目、三度目は、もう本物じゃない。演技になる。計算になる』
『極限の集中力から絞り出された、最初の一滴が欲しい』
だかこそのファーストテイク。
準備して、計算して、作り込んだ演技は——嘘が混じる。
本当の感情は、最初の一回にしか宿らない。
彼がこだわってるファーストテイクはある意味で狂気だ。その狙いはわかるけど、演じる側にとっては、かなり厳しい。
—— でも、本番の話だとばかり思ってた。
—— まさか、オーディションでも、一回しか読ませないなんて。
今回も、深山監督は、最初の一回で全てを判断するってことか。
やり直しはない。調整もない。
一発で、魂を見せなければならない。
手が震えている。
さっきまでとは違う震え方だ。
——怖い。
でも——それだけじゃない。
もしかして、興奮してるのかボクは?
——これが、深山監督なんだ。
本物を求める人。嘘を嫌う人。
だから、ボクを選んでくれた。
「この声が欲しい」と、言ってくれた。
——逃げるな。この恐怖を力に変えろ。
台本を、もう一度開く。
エリカの台詞を、目で追う。
「私も、飛べるかな」
「見ることをやめたら、夢も終わっちゃうから」
—— 一回。
一回で、全てを込める。
深呼吸。吸う。吐く。
震える手で、台本を閉じた。
——大丈夫。
ボクは、声で勝負しに来たんだ。
コンコン、とドアがノックされた。
「イオリユウさん、お時間です」
スタッフの声。
立ち上がる。足が震えている。
高橋さんが、小さく手を振った。
「頑張って。いつも通りで大丈夫だから」
「……はい」
いつも通り。
——いや、今日は違う。
今日は、特別な日だ。
ドアノブを握る。冷たい金属の感触。
——行こう。
深山監督に、会いに行こう。
ボクの声を、聴いてもらいに行こう。
覚悟を決めて、ドアを開けた。
(つづく)
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