第7話「服装」
オーディションは三日後に決まった。
台本は何度も読んだ。エリカの声も、少しずつ掴めてきた気がする。
でも、一つ問題があった。
——何を着ていけばいいんだ。
クローゼットを開ける。
並んでいるのは、白いブラウス、ベージュのワイドパンツ、オーバーサイズのニット。
全部、母親が買ってきたものだ。
センスは悪くない。むしろいい方だと思う。シンプルで、清潔感があって、流行を追いすぎず、でも古くもない。
ただ——全部レディースなのだ。
ユニセックスに近いデザインを選んでくれてるのはわかる。でも、シルエットとか、ボタンの向きとか、細かいところがどうしても女性寄りになる。
「悠〜、ご飯できたわよ〜」
階下から声が聞こえる。
リビングに降りると、母親がキッチンに立っていた。味噌汁の湯気が立ち上っている。醤油と出汁の匂い。
「ねえ、お母さん」
「なあに?」
「今度、大事なオーディションがあるんだけど……」
「あら、すごいじゃない!」
「それで、服なんだけど……」
「お母さんに任せなさい。ちょうどいいの見つけてあるの」
「——それなんだけど」
母親の手が止まった。
「……なに?」
「できれば、メンズの服で行きたくて」
沈黙。
母親が、お玉を置いて、こっちを向いた。
「悠、メンズってあなた——サイズないでしょ」
「……探せば、あるかも」
「XSでも大きいのよ? 肩幅も、着丈も、全部合わない。この前ネットで買ったパーカー、どうなった?」
「…………タンスの奥」
「でしょう?」
母親が、ため息をついた。
「お母さんだって考えてるのよ。でもメンズで悠に合うサイズ、ほとんどないの。かといって——」
「……かといって?」
「23歳にもなってジュニア服は嫌でしょ?」
——それは、絶対に嫌だ。
小中学生と同じ売り場で服を選ぶ自分を想像して、胃が重くなった。
「お母さんだってね、それくらいの気遣いはわかってるのよ」
「……うん」
「だからレディースの中でも、できるだけユニセックスに見えるものを選んでるの。ボタンの向きとか気にならないデザインをね」
「……わかってるよ」
「それにね——そもそもお母さんがメンズの店に入って、あれこれ選ぶのも難しいのよ。『息子さんですか?』って聞かれて、『はい、23歳です』って答えて、『サイズはXXSで』って言う?」
「……」
「店員さん困るわよ」
——正しい。
全部正しい。
ボクの体格が問題なのだ。155センチ、華奢な骨格、細い肩。成人男性の服が合わないこの体。
「……ごめん」
「謝らなくていいの。お母さんは責めてるんじゃないのよ」
母親が、味噌汁をよそいながら言った。
「ただね、悠。無理に似合わない服を着て惨めな思いするより、似合う服で堂々としてる方がいいと思うの」
「……」
「それって、そんなにおかしいこと?」
おかしくない。
おかしくないけど——
「……もうちょっと考える」
味噌汁を啜った。温かい。具はわかめと豆腐。子供の頃から変わらない味。
母親なりに、ずっと考えてくれてたんだ。
でも——オーディションに、いつものレディース服で行ったら。
「やっぱり女の子じゃん」って思われる。
「男」としてエリカの役を取りに行くのに、最初から「女」として見られたら——
それは、なんか違う気がする。
母との会話の後、部屋に戻っても落ち着かなかった。
天井を見上げる。エアコンの音だけが低く響いている。
——このままじゃ、何も変わらない。
でも、母親の言うことは正しい。ボクに合うメンズのサイズはそもそも少ない。それは事実だ。
レディースのSですら少し大きくて、XSがジャストサイズなボクの体格に男性用のXSが合わないなんて当たり前だった。
でも、諦めたくなかった。
------
気づいたら、ボクは外に出ていた。
近所のコンビニ。歩いて三分。
それでも滅多に行くことはない。
自動ドアの前で立ち止まる。ガラスに自分の姿が映っている。
細い脚の形、なで肩、華奢な首。中性的な髪型。やっぱ、女の子に見えるんだろうな。
ボクは、大きなガラスが苦手だ。
こんな風に、自分を客観視しては嫌になるから。
鏡だらけの服屋など、特に。
——でも。ここは、ただのコンビニだ。何を怖がる必要がある。
深呼吸。ドアが開く。
空調の冷たい風。レジの電子音。有線の音楽が小さく流れている。
雑誌コーナーに向かう。
ファッション誌。週刊誌。漫画雑誌。そして——男性誌。
表紙にグラビアアイドルが載っている。水着。健康的な笑顔。
ボクは男だ。男が男性誌を見るのは普通のことだ。
手を伸ばす。
——伸ばしかけて、止まる。
隣に若い男性がいる。スーツ姿。仕事帰りだろうか。週刊誌をパラパラめくっている。
もしボクがグラビア誌を手に取ったら。
「え、女の子なのに?」って思われる?
変な目で見られるかも。
——いや違う。関係ない。ボクは男なんだから。
でも—— そう見えないから問題なんだろ。
手を引っ込めた。
何も買わずに出るのは不自然だ。お茶でも買おう。
飲料コーナーで緑茶のペットボトルを取る。
レジに向かう。
店員は女性だった。二十代くらい。髪を一つに結んでいる。
「いらっしゃいませ」
ペットボトルをカウンターに置く。
「百四十円になります」
QR決済を押してスマホで出す。手が少し震えている。
「あ、お客様」
突然、店員が、声をかけてきた。
心臓が跳ねる。なんで?何か問題でもあったのか。
すると彼女は、カウンターの下から何かを取り出した。
「こちら、よろしければどうぞ」
差し出されたのは——小さなパウチだった。
化粧品のサンプル。女性向けの。
「新商品のサンプルなんです。お肌きれいなので、ぜひ」
「あ……」
断れない。声が出ない。
受け取ってしまった。
「ありがとうございましたー」
店員の笑顔。悪気はない。むしろ親切心だ。
でも——
店を出た。
手の中に、化粧品のサンプル。緑茶のペットボトル。
——また、女扱いされた。
わかってた。わかってたけど。
やっぱりダメだ。外見が変わらない限り、こういうことは続く。
コンビニの店員にも、街ですれ違う人にも、ボクは「女の子」に見える。彼ら、彼女らに悪気はない。いけないのはボクの見た目だ。
サンプルをポケットにねじ込んだ。
——メンズ服を着こなせれば、何か変わるかもしれない。
それで女の子に見えなくなるかは、わからない。
でも——何もしないよりマシかもしれない。
------
コンビニから帰ると、自分の部屋に戻った。
ドアを閉める。カチャリ、という音が妙に大きく響く。
ベッドに座り込んで、天井を見上げる。
オーディションは、深山監督に会える。あの、ボクが憧れ続けた人に。
「この声が欲しい」と言ってくれた人に。
——声で勝負しに行くんだ。
だったら、せめて見た目くらいは——自分で納得いくものを選びたい。
——誰かに相談しようかな。
メンズの服を着こなしてる人。ボクのことを「男」として見てくれてる人。
思い浮かんだのは、一人だけだった。
-----
スマホを手に取る。
連絡先を開く。鷹宮さんの名前が表示されている。
画面の光が、暗い部屋でやけに眩しい。
——相談、していいのかな。
迷惑じゃないかな。
忙しいだろうし。
指が震える。
深呼吸。吸う。吐く。吸う。吐く。
メッセージを打つ。一文字ずつ、慎重に。
『鷹宮さん、突然すみません。相談があるのですが、お時間ありますか』
送信ボタンを押す。
タップ音が、静かな部屋に響いた。
心臓がうるさい。ドクン、ドクン、ドクン。
——既読、つくかな。
——迷惑だって思われたかな。
——無視されたらどうしよう。
スマホを握りしめたまま、膝を抱える。
エアコンの音だけが低く唸っている。時計の秒針が、カチ、カチ、と刻んでいる。
一分。
長い。
二分。
もっと長い。
——やっぱり、夜遅いし、明日にすればよかったかな。
——でも、もう送っちゃったし。
——取り消し——いや、既読ついたら余計気まずい——
通知が鳴った。
ピロン、という軽い音。
心臓が跳ねる。
『どうした?』
返事が来た。
二文字。シンプル。でも、冷たくはない。
震える指で、続きを打つ。
『オーディションに着ていく服を選びたいのですが、一緒に来てもらえませんか。メンズの服を探したくて……でもボク一人だとよくわからなくて』
長い。長すぎるかな。もっと短くまとめるべきだったかな。
送信。
また沈黙。
——やっぱり変だったかな。
——男が男に服選んでって、おかしいよな。
——気持ち悪いって思われたかな。
——そもそも鷹宮さん忙しいのに——
通知。
『いいぞ。明日空いてる』
——え。
あっさりしてる。
あまりにもあっさりしてる。
『新宿でいいか? 14時に東口で待ち合わせ』
返信が続けて来る。
『深山監督のオーディションだろ? 気合い入れたいよな。わかるわかる』
——わかるわかる。
その軽さに、少しだけ救われた。
『本当にいいんですか?』
『いいから言ってる。変な遠慮すんな』
『……ありがとうございます!』
『おう。じゃ、また明日な』
やり取りが終わった。
スマホを胸に当てて、大きく息を吐く。
——明日。
あの鷹宮さんと。
二人で買い物。
天井を見上げる。暗い部屋に、スマホの通知ランプだけが青く明滅している。
緊張する。
人混みは苦手だ。店員と話すのも苦手だ。
でも——鷹宮さんが一緒なら、なんとかなる気がした。
-----
ベッドに仰向けになって、目を閉じる。
まぶたの裏に、オーディションの光景が浮かぶ。
マイクの前に立つボク。深山監督の視線。
——怖い。
でも、逃げたくない。
明日、ボクは「男らしい服」を探しに行く。
23年間、似合わないと思って諦めてきた服を。
——見つかるかな。
わからない。
でも、探してみなきゃ、始まらない。
エアコンの低い音を聞きながら、いつの間にか眠りに落ちていた。
夢の中で、ボクは白いシャツを着ていた。
似合ってるかどうかは、わからなかった。
(つづく)
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