第5話「女役」
スタジオに着くと、空気が懐かしかった。
空調の低い唸り。防音扉の重たい感触。廊下に漂う、かすかなコーヒーの匂い。
イベントの喧騒から離れて、ここに戻ってきた。
——ここだけは、「声」だけで勝負できる。
「お、イオリくん」
声をかけられて振り向く。鷹宮さんだった。
「イベント、良かったぞ。最後の挨拶」
「……ありがとう、ございます」
「『声を大事にしたい』ってやつ。響いたって言ってるファン、結構いたぞ」
——声。
ちゃんと届いてた人が、いたんだ。
「いおりちゃーん!」
水瀬さんが手を振りながら近づいてくる。ふわふわした足取り。甘い香水の匂いが、ふわっと漂ってきた。
「イベントお疲れ様! ねえねえ、生アフレコすごかったよ! 私客席で見てたかったもん」
「あ……ありがとう、ございます……」
「声、やっぱりすごいよね。ハルキはいおりちゃんじゃなきゃダメだって思った」
——いおり「ちゃん」。
まだ、そう呼ばれる。
でも、「声がすごい」って言ってくれた。
少しだけ、見てもらえてる気がした。
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収録が始まる。
ブースに入る。ガラスの向こうに、音響監督とミキサーさんが座っている。手元の台本には、今日収録する第12話のセリフが並んでいる。
マイクの前に立つ。
深呼吸。吸う。吐く。
春野ハルキになる。
「——みんな、待たせたな!」
声が響く。自分の喉から出て、マイクに吸い込まれて、ヘッドフォンから返ってくる。
「いいね、イオリくん。そのまま続けて」
音響監督の声。
ここでは誰も「可愛い」とは言わない。「いい声」か「もう一回」か、それだけだ。
シンプルで、厳しくて、でも——心地いい。
ボクの声が、ハルキになる。
画面の中で、ハルキが動く。ボクの声に合わせて、口が動く。
——ここだけは、ボクはボクでいられる。
声だけの自分。それが、いちばん本当の自分な気がした。
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収録が終わった。
「お疲れ様でした」
スタッフさんたちに頭を下げて、ブースを出る。
鷹宮さんが廊下で待っていた。
「今日も良かったぞ」
「……ありがとう、ございます」
「第12話、山場だからな。ハルキの叫び、響いてた」
「鷹宮さんの氷室も……すごかったです。『お前がいなきゃ意味がない』のとこ」
「お、聞いてたか」
鷹宮さんが少し笑った。
「お前に言われると嬉しいな。耳がいいから」
——耳がいい。
そう言ってもらえるのは、素直に嬉しかった。
「イオリくん」
マネージャーの声が、廊下の向こうから聞こえた。
「終わった? じゃあ、事務所行こうか」
——そうだ。
今朝の電話。大きい仕事。驚くと思う。
忘れてたわけじゃない。収録中は意識の外に追い出していただけだ。
「……はい」
鷹宮さんに軽く会釈して、マネージャーの後を追う。
「何かあったのか?」
鷹宮さんが背中に声をかけてきた。
「……わかりません。これから聞きます」
「そうか。——まあ、いい話だといいな」
「……はい」
いい話。
たぶん、だとマネージャーは言っていた。
たぶん。
その曖昧さが、まだ胸の奥でざわついている。
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事務所の会議室。
白い壁。長いテーブル。パイプ椅子。窓から差し込む西日が、埃を照らしている。
マネージャーが向かいに座った。
「まず、イベントお疲れ様。大成功だったよ」
「……ありがとうございます」
「SNSの反響もすごかった。トレンド入りしたし、『ソラノオト』の円盤予約も伸びてる」
「……はい」
「それでね」
マネージャーが、一枚の紙をテーブルに置いた。
「深山潔 監督って、知ってるよね」
——心臓が、止まった。
深山潔。
日本を代表する映像監督で、今一番勢いのあるアニメ映画監督だ。
アニメ映画一作目の『幻影少女』は興行収入100億超え、まさに映像の神。
そして、ボクが最も尊敬する人。
作品は全部観てる。円盤も全部持ってる。インタビューも全部読んでる。パンフレットも、設定資料集も、声優さんたちが語る撮影秘話も。
声優を「役者」として扱う姿勢が好きだった。ビジュアルじゃなく、声で選ぶ。演技で選ぶ。そういう監督だと、インタビューで読んだ。
いつかこの人の作品に出たい。
ずっと、そう思ってた。
「知って、ます……大ファン、です……」
声が震えた。
「だよね」
マネージャーが、紙をこちらに滑らせた。
「その深山監督の新作アニメ映画。オーディションのオファーが来てる」
「——え」
「しかも、深山監督からの直接指名」
脳が、追いつかない。
深山監督。新作映画。直接指名。
「……ボクが、ですか?」
「イオリユウ、ご指名。監督がイベントの映像を見たらしい」
イベントの映像。
あの、キョドキョドしてた映像を。「男です」って言って会場を凍らせた映像を。最後に「声を大事にしたい」って震える声で言った映像を。
——『この声が欲しい』って。深山監督がそう言った?
涙が出そうになった。
「声」を見てくれた……あの、神みたいな人が。
「……っ、ありがとう、ございます……光栄、です……」
声が震える。手が震える。頭が真っ白になる。
夢みたいだ。
夢だ。絶対夢だ。
「それで、役なんだけど」
マネージャーが、少し間を置いた。
その間が、妙に長く感じた。
「——ヒロインの……少女役なの」
「…………え?」
聞き間違いかと思った。
「ヒロイン。15歳の女の子。監督は『イオリくんの声で聴きたい』と」
女の子。
ヒロイン。
15歳の、少女。
「……女の子、役……ですか」
「そう」
沈黙が落ちた。
会議室の空調の音だけが、低く唸っている。
——女役?
なんで、ボクが?女性の声優なんていくらでもいるのに。
「ボク、男なんですけど……」
「知ってる」
「女の子の役を、男のボクが……?」
「監督は、『性別は関係ない、声が欲しい』と」
——声が欲しい。
それは、嬉しい言葉のはずだ。
でも。
頭の中がぐちゃぐちゃになる。
嬉しい。最高に嬉しい。深山監督だぞ。直接指名だぞ。夢にまで見た。
でも——女役?
また「女」として見られるのか。
「女の子にしか見えない声優」が、確定してしまうのか。
イベントで「男です」って言ったのに。
やっと「声」を見てもらえたと思ったのに。
女役をやったら——「やっぱり女じゃん」って言われるんじゃないか。
「……すぐに返事しなくていいよ」
マネージャーが、静かに言った。
「大きい決断よ。考える時間は取れるから」
「……はい」
「台本、読んでみる? 役のイメージ、掴めるかもしれない」
「……はい」
マネージャーが、薄い冊子を差し出した。
『英雄は四月に死ぬ』
それが、タイトルだった。
表紙には、満点の星空を見上げる少女と少年のシルエット。
——15歳の、女の子。
ボクが、演じる?
「持ち帰って、ゆっくり読んで。それから決めればいい」
「……わかりました」
台本を受け取る。
薄い冊子なのに、やけに重く感じた。
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事務所を出た。
夕暮れの街を歩く。オレンジ色の光が、ビルの窓に反射している。
台本を抱えたまま、ぼんやりと歩く。
——女役か。
考えたこともなかった。
ボクは男だ。だから少年役をやる。それが当たり前だと思ってた。
でも、深山監督は「この声が欲しい」と言った。
「声」を見てくれた。性別じゃなく、声を。
それは——嬉しいことのはずなのに。
なんで、こんなに怖いんだろう。
スマホが震えた。
タカシからのDMだ。
『@takashi_cv:いよいよ十二話が近いな』
——ああ、そうだ。
タカシと十二話の収録について話していた。ファン目線で、「今日収録らしいですね」と。
『@iorin_kage:コミックからして十二話は神回。山場だよね』
『@takashi_cv:楽しみだな〜。いおりんの叫び。今から興奮してる』
いおりんの叫び。
ボクの叫び。
『@takashi_cv:そういえば、いおりんて『ソラノオト』が終わった後とか決まってるのかな』
——新しい仕事。
今まさに、その話をしてきたところだ。
でも決まったわけじゃない。ていうか言えない。言えるわけがない。
『@iorin_kage:どうなんですかね。まだ何も情報は出てないと思う』
嘘だ。
また、嘘をついてる。
『@takashi_cv:そっか。まあ、何か来たら楽しみだな。どんな役でも期待してる』
——どんな役でも。
その言葉が、胸に刺さった。
どんな役でも、か。
女の子役でも、そう言ってくれるだろうか。
「いおりんが女役やるの、なんか違う」って、言わないだろうか。
——聞いてみたい。
でも、聞けない。
聞いたら、バレるかもしれない。なんでそんなこと気にするんだ、って。
『@iorin_kage:そうですね。次に何をやるのか楽しみだ』
当たり障りのない返事を打って、スマホを閉じた。
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家に帰った。
部屋の電気をつけて、ベッドに座る。
台本を、膝の上に置いた。
『英雄は四月に死ぬ』
そのヒロイン、蒼穹のエリカ。
表紙の少女が、こちらを見ている気がした。
——読んでみよう。
ページをめくる。
『第一章 空の向こう』
主人公の名前は、エリカ。15歳。空を飛ぶことに憧れる少女。
——空を飛ぶ。
ハルキも、そうだった。空に手を伸ばすヒーロー。みんなの太陽。
エリカは違う。太陽じゃない。むしろ、太陽に憧れる側だ。
地上から空を見上げて、自分もあそこに行きたいと願う少女。
「私も、飛べるかな」
台本の中のエリカが、そう呟いている。
——飛べるかな。
その言葉が、妙に響いた。
ボクも、そうだ。
「男らしく」なりたかった。でもなれなかった。
声だけがボクの武器で、声だけが居場所で。
でも今、その声で「女の子」を演じろと言われている。
矛盾してる。
ボクは男だと言いたいのに、女の子を演じる。
——でも。
エリカの台詞を、小さく声に出してみる。
「私も、飛べるかな」
高い声。ボクの地声。
女の子の声、と言われる声。
——悪くない。
悪くないと、思ってしまった。
エリカの言葉が、ボクの声で響いている。
まだ演技じゃない。ただ読んだだけ。
でも——何かが、合っている気がした。
ページをめくる。
エリカは臆病だ。空を飛ぶことに憧れながら、高いところが怖い。矛盾を抱えて、それでも空を見上げている。
——ボクに、似てる。
男でいたいのに、男として見てもらえない。
声優として認められたいのに、見た目の話ばかりされる。
矛盾だらけだ。逃げたいし、でも逃げられない。
「それでも、私は空を見る。見ることをやめたら、夢も終わっちゃうから」
エリカの言葉が、胸に刺さった。
——夢も終わる。
そうだ。
逃げたら終わりだ。
深山監督のオファーを断ったら。「ボクは男だから」と言って降りたら。
それで——何が残る?
「可愛い」の洪水は変わらない。「女の子にしか見えない」という事実も変わらない。
何も変わらないまま、チャンスだけを失う。
——それで、いいのか?
台本を閉じた。
天井を見上げる。
頭の中が、ぐるぐると回っている。
怖い。
女役をやったら、「やっぱり女じゃん」って言われるかもしれない。
「男です」って言い続けてきたボクが、笑いものになるかもしれない。
でも——
「この声が欲しい」
深山監督の言葉が、頭の中で響いている。
「いおりんの声が好きだ」
タカシの言葉も、響いている。
「可愛い」じゃない。「女の子みたい」じゃない。
「声」を見てくれた人たちがいる。
その人たちに——応えたい。
ボクの声で、応えたい。
(つづく)
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