第4話「裏垢」
イベントから三日が経った。
ボクは自室のベッドで、スマホの画面を眺めていた。
いわゆるエゴサーチだ。
カーテンの隙間から漏れる光が、天井に細い線を描いている。エアコンの微かな駆動音。それ以外は、何も聞こえない。
シーツの冷たさが、背中に張り付いている。三日間、ほとんどこの部屋から出ていない。風呂には入った。でも、それだけだ。
SNSのタイムラインをスクロールする。
『いおりん可愛すぎて泣いた』
『天然美少女じゃん……男とか信じられない』
『いおりんの性別はいおりん、これ真理』
『守ってあげたい系ボクっ子最高』
——可愛い。天然。美少女。
わかってた。わかってたけど。
スマホを持つ手に、力が入る。画面の光が目に刺さる。明るすぎる。部屋が暗いから、余計に眩しい。
スクロールを続ける。親指が画面を滑る。同じような投稿が、延々と続いている。「可愛い」の洪水。「美少女」の嵐。
胃の奥が、きゅっと縮む感覚。
——そして、指が止まった。
『@takashi_cv:俺は、見た目よりもいおりんの「声が好き」になった。それを思わず叫んでしまった』
あの人だ。
イベントの最後、確かに聞こえた声。「可愛い」の洪水の中で、たった一つだけ違う言葉。
発言主@takashi_cv の発言を辿る。心臓が少し速くなる。
『@takashi_cv:いおりんの声、マジで良かった。ハルキの「ただいま参上」で鳥肌立った。見た目じゃなくて声で勝負できる人だと思う』
——声で、勝負。
その言葉が、胸の奥に刺さった。
刺さって、じんわりと温かくなった。
気づいたら、スクリーンショットを撮っていた。カシャ、という音が静かな部屋に響く。
公式アカウントでリツイートしようか——いや、無理だ。「中の人がエゴサしてる」ってバレる。キモいって思われる。声優がファンの投稿を監視してるみたいで、引かれる。
でも、何か言いたかった。
この人に——ありがとう、って。
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じつはボクには裏垢がある。
@iorin_kage。フォローはたったの12人。フォロワーも9人。アニメの感想を呟くだけの、誰でもない自分。
プロフィールには何も書いていない。アイコンは初期設定の卵のまま。誰がこのアカウントを運営しているか、誰にもわからない。
——誰でもない自分。
その匿名性が、今は少しだけ心強かった。
ベッドの上で体勢を変える。スプリングがギシッと軋む。仰向けから横向きになって、スマホを両手で持ち直す。
震える指で、リプライを打つ。
『@iorin_kage:横からすみません、自分もあの瞬間鳥肌立ちました。生アフレコの声量と、普段とのギャップがすごかったです』
送信ボタンを押す。
タップ音が、やけに大きく聞こえた。
心臓がうるさい。ドクン、ドクン、ドクン。これなら、まさか本人が打ったとは思われないはず。
変なこと言ってないよな。気持ち悪くないよな。いきなりリプ飛ばすの、迷惑じゃないよな——
通知が鳴った。ピロン、という軽い音。
『@takashi_cv:わかります!! あのギャップこそ声優の真骨頂ですよね。最近ビジュアル重視の風潮あるけど、やっぱり声だよなって』
——わかってる。
この人、わかってる。
気づいたら、返信を打っていた。指が勝手に動いている。フリック入力の音がカタカタと鳴る。
『@iorin_kage:ハルキの「待たせたな」、収録版より0.3秒くらい溜めが長かったんですよね。ライブ感というか、観客に届けようとしてる感じがして』
送信してから、ハッとした。
——0.3秒の溜め。
それは、ボク自身が意識してやったことだ。収録のときより少しだけ間を取って、客席の空気を吸い込んでから声を出した。
そんな細かいこと、誰も気づかないと思ってた。
通知。ピロン。
『@takashi_cv:は??? わかる人いた??? あの溜め気づいたの俺だけかと思ってた お前何者だよ(褒めてる)』
——何者。
その質問に、正直には答えられない。
でも、嘘をついてる気分でもなかった。
ラリーが続いた。
ハルキの演技の話。氷室レイとの掛け合いの話。第7話の「お前は俺の太陽だ」のシーンで、ハルキが少しだけ声を震わせた理由。音響監督が「ここは泣かせにいくな」って言ってたらしい、という噂の真偽。
——噂じゃない。本当だ。
そう言いたくて、でも言えなくて。
代わりに、ファンとして知ってそうなことだけを返した。
『@iorin_kage:あのシーン、ハルキの呼吸音が入ってるの気づきました? マイクに入るか入らないかギリギリのライン。あえて残したんだと思います』
『@takashi_cv:気づいてなかった……今聴き直してる……マジだ呼吸入ってる……お前マジで何者???』
気づいたら、一時間が経っていた。
窓の外が暗くなっている。いつの間にか陽が落ちていた。カーテンの隙間から漏れていた光は消えて、部屋はスマホの画面だけが光源になっている。
目が乾いている。瞬きすると、少しだけ痛い。
『@takashi_cv:いや〜話せて楽しかった。声優オタクでここまで話合う人久しぶり。また語ろうぜ』
『@iorin_kage:こちらこそ。また話しましょう』
スマホを置く。枕元に、ことり、と小さな音を立てて。
天井を見上げる。薄暗い部屋に、スマホの通知ランプだけが明滅している。青い光が、二秒おきに点いて、消えて。
——気が合うな、この人。
「いおりん」としてじゃなく。「可愛い美少女」としてでもなく。「誰でもない自分」として、話せた。
声の話を。演技の話を。ボクが本当に話したかったことを。
それが——少しだけ、嬉しかった。
タカシのアカウントをフォローした。
13人目のフォロー。
……なんか、縁起悪い数字だな。
でも、そんなことはどうでもよかった。
フォロー通知が飛んで、タカシが気づいて、フォローバックが来た。
『@takashi_cv:フォローありがとう! またいおりんの話しような』
——いおりんの話。
ボクのことだ。でも、ボクじゃない。
この人は「イオリユウ」のファンと話していると思っている。ただのファン同士だと思っている。
——嘘を、ついている。
そう思うと、少しだけ胸が痛んだ。
でも——
これでいいのかもしれない。
「いおりん」としてじゃ、絶対に話せない話がある。「可愛い」のフィルターを通さない、本当の声の話。演技の話。ボクが何を考えて、何を大事にしているかという話。
それを——誰かと、共有したかったんだ。
ずっと。
それからの数日、ボクとタカシの会話は続いた。
声優の話。アニメの話。演技論の話。
タカシは声優オタクだった。見た目より声を重視するタイプ。ボクが尊敬する声優を同じように尊敬していて、ボクが好きな演技を同じように好きだと言ってくれた。
深夜二時。
部屋は真っ暗で、布団に潜り込みながらスマホを見ている。画面の光だけが、布団の中を青白く照らしている。
『@takashi_cv:最近のビジュアル重視の風潮、正直どう思う?』
タカシからのDM。
掛け布団の中は温かい。自分の体温で、小さな空間が蒸れている。その温かさが、少しだけ安心する。
『@iorin_kage:……複雑です。声優は声が本業だと思うけど、ビジュアルが武器になる人もいる。でも否定はできない』
『@takashi_cv:でもお前、いおりんの「声」を評価してたよな』
『@iorin_kage:はい。あの生アフレコは本当に良かった。見た目関係なく、声だけで心を動かされた』
『@takashi_cv:それだよ。俺はそれが言いたかった。声で勝負できる人が、ちゃんと評価される業界であってほしい』
——声で勝負。
タカシは知らない。ボクがその「いおりん」本人だということを。
でも、だからこそ——この言葉は、本物だった。
「可愛い」のフィルターを通さない、純粋な評価。
それが——たまらなく嬉しかった。
外で、車が通り過ぎる音がした。エンジン音が近づいて、遠ざかって、また静寂に戻る。
深夜の静けさの中で、スマホの画面だけが光っている。
『@iorin_kage:いおりん、これからどうなりますかね。次の役とか』
『@takashi_cv:気になるな。少年役が上手い人だから、また少年かな。でも幅広い役を見てみたい気もする』
『@iorin_kage:たとえば?』
『@takashi_cv:わかんね。でもあの声、ポテンシャルあると思うんだよ。型にはまらない声っていうか』
——型にはまらない声。
考えたことがなかった。
今のボクは「少年役の男性声優」だ。それ以外の自分を、想像したことがなかった。
でも——声に、型なんてあるのか?
声は、声だ。
男の声。女の声。少年の声。少女の声。
そういう「型」を、誰が決めたんだろう。
『@iorin_kage:型にはまらない、か。面白い視点ですね』
『@takashi_cv:だろ? いおりんには期待してる。声で殴ってくるタイプの声優になってほしい』
——声で殴る。
いい言葉だな、と思った。
スマホを閉じて、布団から顔を出す。ひんやりした空気が頬に触れる。
天井を見上げる。暗闘。何も見えない。
「可愛い」の洪水は、まだ続いている。たぶん、これからも続く。
でも——その中に、「声」を聴いてくれる人がいる。
タカシみたいな人が、いる。
それだけで——少しだけ、頑張れる気がした。
明日はアフレコだ。
『ソラノオト』の収録。ハルキの声を、また響かせる日。
——ボクの声で、勝負する。
それが、今のボクにできる、たった一つのことだった。
-----
翌朝。
スマホが鳴った。
振動音がベッドの木枠に響いて、ブブブ、と低い音を立てている。
マネージャーからだ。こんな早い時間に珍しい。
カーテンの隙間から、薄い朝日が差し込んでいる。時計を見る。七時十五分。
『おはよう、イオリくん。今日の収録の後、事務所に寄れる?』
「……はい、大丈夫ですけど。何か、ありましたか」
声が掠れている。寝起きの声。まだ喉が温まっていない。
『オファーが来てる。大きい仕事』
心臓が跳ねた。
大きい仕事。それだけで、手が震える。スマホを持つ指先が、冷たくなる。
『詳しくは会って話すけど——たぶん、驚くと思う。心の準備しといて』
「……驚く?」
『うん。いい意味で、だと思う。たぶん』
たぶん。
その曖昧な言い方が、逆に怖かった。
『じゃ、収録頑張って。また後で』
通話が切れた。ツー、ツー、という電子音が、耳に残る。
スマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
——大きい仕事。驚く。心の準備。
何だろう。
何が来るんだろう。
胸の奥が、ざわざわと騒いでいる。
期待なのか、不安なのか、自分でもわからない。
——とにかく、今日の収録だ。
まずは、ハルキの声を届ける。
それ以外のことは、後で考えよう。
スマホを置いて、ベッドから起き上がる。シーツがサラサラと音を立てる。
カーテンを開けると、眩しい朝日が差し込んできた。
目を細める。光が、まぶたの裏を赤く染める。
——今日も、声で勝負する。
そう自分に言い聞かせて、部屋を出た。
(つづく)
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