第1話「緊張」


 会場に着いた瞬間から、もう帰りたかった。


 正面玄関がわからなくて三周した。見つけたけど入れなかった。自動ドアの前で二分立ち尽くした。ガラスの向こうに受付が見える。蛍光灯が白々と光っている。


 後ろで足音がした。コツ、コツ、と革靴の音。近づいてくる。


 心臓が跳ねる。振り返れない。振り返ったら目が合うかもしれない。


 足音が止まる。ボクの真後ろで。


 ——入らなきゃ。


 自動ドアが開く。空調の風がふわっと顔に当たる。会場特有の、埃っぽいような、少し冷たい空気。


 一歩踏み入れる。後ろの人も続いて入ってきた。足音が床に響く。ボクの足音と、その人の足音。コツ、ペタ、コツ、ペタ。革靴とスニーカー。どっちが自分のかわからなくなる。


 シュン、カタン。


 自動ドアが閉まる音が、妙に大きく聞こえた。


 受付に人がいる。話しかけなきゃいけない。


「あ、あの……」


 声が出ない。いや出たけど聞こえてない。空調のゴーという音に掻き消された。受付のお姉さん、ボクに気づいてない。パソコンのキーボードをカタカタ叩いてる。


 もう一回。


「あの……っ」


「はい?」


 キーボードの音が止まる。目が合った。逸らす。逸らしちゃ駄目だ。でも見れない。首元を見る。首元も変か。ネームプレートがある。ネームプレート見とこう。


「イオリ、です……今日の、イベントの……」


「ああ、イオリさんですね! お待ちしておりました!」


 受付のお姉さんがニコッと笑う。営業スマイルだ。わかってる。でもそれにすら心拍数が上がる。ドクン、と胸が鳴る音が自分でも聞こえる気がする。


「女性楽屋はこちらに——」


「あ、あの、ボク、男、なんですけど……」


「……え?」


 沈黙。


 空調の音だけが響いている。ゴー。ずっとゴー。その音が急に耳障りになる。


 やってしまった。また気まずい空気を作ってしまった。ボクが変なこと言ったみたいになってる。いや実際変なんだ。見た目が悪い。ボクの見た目が全部悪い。


「も、申し訳ありません! 男性楽屋はあちらです!」


「いえ……大丈夫、です……」


 大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない。でも「大丈夫じゃないです」って言ったらどうなる? 困らせる。もっと気まずくなる。だから「大丈夫です」しか言えない。


 廊下を歩く。壁際を選ぶ。中央は怖い。自分の足音がペタペタと響く。


 静かな廊下だと足音が目立つ。もっと静かに歩きたい。でも意識すると余計に音が大きくなる気がする。


 遠くから別の足音が聞こえる。コツ、コツ、コツ。こっちに向かってきてる。


 人とすれ違うかもしれない。すれ違ったら挨拶しなきゃいけない。挨拶できるかわからない。できなかったら「感じ悪い新人」認定だ。終わる。キャリアが終わる。


 足音が近づく。心臓がうるさい。ドクン、ドクン、ドクン。


 スタッフさんとすれ違う。


「おはよ——」


 言えた。言えたか? 音になってたか? 相手は軽く会釈してくれた。足音が遠ざかっていく。コツ、コツ、コツ……。聞こえてたっぽい。よかった。よかったのか? 声小さすぎて失礼だったかも。ああもう全部わからない。


 男性楽屋のドアの前に立つ。


 中から微かに音がする。紙をめくる音。誰かいる。


 ノックしなきゃ。でも中に誰かいる。いたら話さなきゃいけない。


 三十秒、ドアの前で固まる。手のひらが汗ばんでる。冷たい汗。指先が痺れてる感じがする。


 意を決して、ノックする。コンコン。自分のノックが弱すぎた気がする。聞こえたかな。もう一回叩くべきか。いや二回叩いたらしつこいか——


「……失礼、します」


 ドアを開ける。


 中にいたのは、同じ事務所に所属する声優で、今日の共演者である鷹宮翔さんだった。


『ソラノオト』で春野ハルキのライバルキャラ・氷室レイを演じている人気声優。台本を膝に置いて、ペラリとページをめくった。さっき聞こえた紙の音はこれだったのか。


 ボクよりずっと背が高い。たぶん180はある。肩幅も広いし、顎のラインもシャープだ。低くて深みのある声。笑うと爽やかで、黙ってると知的に見える。


 ——これが俗に言う、イケメン。男だよな。


 THE・男性声優。ボクがなりたかったもの、全部持ってる人だ。


「お、イオリくんか」


 ——くん。


 くん付けだ。鷹宮さんに男扱いしてもらえる。それだけでちょっと救われた自分が惨めだった。


「よろしくな、今日」


 鷹宮さんがこっちを見てる。


 返事。返事をしなきゃ。


「よ、よろしく、お願い、します……」


 声が分割された。なんで一文を普通に言えないんだボクは。


 鷹宮さんはニコッと笑って、それ以上何も言わなかった。気を遣ってくれてるんだと思う。ありがたい。ありがたいけど、沈黙が怖い。楽屋の中が静かすぎる。空調の音すら聞こえない。シーン、という音が耳の奥で鳴ってる気がする。


 この沈黙はボクが何か言うべきなのか? 待ってていいのか? 鷹宮さんは台本に目を戻した。ペラリ、とまたページをめくる音。邪魔しちゃいけない。でも黙ってるボクをどう思ってるんだろう。「暗いやつ」って思われたかな。思われたよな。


 楽屋の隅に座る。一番端。壁際。窓から少し離れた、薄暗い場所。ここならあまり視界に入らない。存在感を消せる。


 椅子に座る。ギシ、と小さく軋んだ。その音が恥ずかしい。


 台本を広げる。読んでるフリ。文字は見えてるけど頭に入ってこない。視線を固定する場所があるだけでいい。


 しばらくして、ドアがノックされた。


 コンコン。


「いおりちゃーん、いる?」


 ビクッ。


 肩が跳ねた。椅子がまたギシッと鳴った。絶対見られた。キモッて思われた。思われたに決まってる。


 ドアが開く。キィ、と小さく軋む音。


 入ってきたのは水瀬あおいさん。『ソラノオト』のヒロイン役で、ボクの先輩にあたる人気女性声優だ。


 ドアが開いた瞬間、ふわっと甘い香りがした。柔軟剤か、香水か。フローラル系の、女の子の匂い。楽屋の空気が一瞬で変わる。


 声優なのにって言うのは失礼かもしれないけど、声優なのにとても美人だ。


 目が合う。合ってしまった。逸らす。逸らしたら失礼か。でも見つめ返すのもおかしいか。どこ見ればいいんだ。口元? 口元ずっと見るのも変態っぽいか——


「やっぱりここだった! 楽屋、分かりにくかったでしょ?」


「あ……」


 返事。何か気の利いたことを。場を和ませる一言を。


「……はい」


 それだけ。それだけかよボク。


「緊張してる? 大丈夫大丈夫、みんな最初はそうだから!」


 水瀬さんがボクの隣にストンと座った。


 椅子が軋む小さな音。近い。距離が近い。さっきの甘い香りがもっと近くなる。


 待ってボク汗かいてないか。朝シャワー浴びたけど、緊張で変な汗出てるかも。脇が湿ってる気がする。臭かったらどうしよう。「この子臭い」って思われたら終わりだ。いやその前に「この子」じゃないんだけど——


「いおりちゃん、肌きれいだよね〜。何使ってるの?」


「え……特に、何も……」


 会話だ。会話が発生している。続けなきゃ。何か言わなきゃ。えーと、えーと——


「…………」


 何も出てこない。沈黙が降りる。三秒。五秒。ページを捲る音がまた響く。地獄だ。


「えー、羨ましい! やっぱり若いっていいなあ」


 水瀬さんが勝手に続けてくれた。助かった。助かったけど申し訳ない。会話のキャッチボールが一方的な球拾いになっている。


 違う。そもそも違うんです。ボクは女子じゃないんです。


 でも言えない。言ったところで「そうだったね、ごめんね」で終わって、五分後にはまた「いおりちゃん」に戻る。経験済みだ。


「ねえねえ、今日の衣装どうする? 私ワンピースにしたんだけど、いおりちゃんは?」


「あ、ボクは……普通の、服で……」


「見せて見せて!」


 断る言葉が出てこないまま、水瀬さんがボクの衣装袋を覗き込む。ナイロンがシャカシャカと音を立てる。


 中に入ってるのは、母親が選んだ白いブラウスと、ベージュのワイドパンツ。自分ではシンプルかつユニセックスにしたつもりだった。


「可愛い〜! いおりちゃんに絶対似合うよこれ!」


 ——可愛い。


 そうじゃない。可愛いを目指してないんだ。普通に、普通の男として見られたいだけなんだ。


「あ、ありがとう、ございます……」


 でも笑うしかない。笑顔作らなきゃ。あ、引きつってる気がする。不自然だって思われたかな。愛想笑いバレバレかな——


「あ、私そろそろ戻るね! また後でね、いおりちゃん!」


 水瀬さんが出ていく。手を振ってる。振り返さなきゃ。


「……あ、はい……」


 遅かった。もう背中向けてる。タイミング逃した。


 パタン、とドアが閉まる。


 甘い香りが薄れていく。楽屋がまた、静かになる。


 ボクは振ろうとした手を、そっと膝の上に戻した。


 -----


 リハーサルが始まった。


 舞台に出る。照明が眩しい。白い光が目を刺す。思わず目を細める。


 客席は空っぽだけど、それでも緊張する。本番はここに何百人も入る。考えるだけで胃が痛い。


「それでは、春野ハルキ役のイオリユウさん、お願いします」


 名前を呼ばれた。声がマイクを通してスピーカーから響く。自分の名前なのに、他人の名前みたいに聞こえる。


 心臓がうるさい。ドクン、ドクン、ドクン。耳の奥で脈打ってる。


 マイクの前に立つ。


 ——ここだけだ。ここだけが、ボクの居場所。


 深呼吸する。吸う。吐く。マイクが呼吸音を拾わないように気をつける。


 春野ハルキになる。明るくて、真っ直ぐで、みんなの太陽みたいなヒーロー。


 ボクには絶対になれないもの。でも「声」だけなら——


「——みんな、待たせたな! 太陽王子・春野ハルキ、ただいま参上!」


 声が響く。スピーカーから跳ね返ってくる。自分じゃないみたいな、明るい声。


 パチパチパチ。スタッフさんたちが小さく拍手してくれた。


「いいですね、イオリさん! やっぱりハルキくんの声、ぴったりです」


「あ……ありがとう、ございます……」


 褒められた瞬間、声が元に戻る。小さく、弱く、萎む。マイクがその落差も拾っている気がして、恥ずかしい。


「……相変わらず、ギャップがすごいな」


 鷹宮さんが小さく笑った。低い声が空気を震わせる。アフレコで何度も一緒になってるから、ボクのこの落差は見慣れてるはずだ。見慣れた上で、毎回こうやって笑う。馬鹿にしてるんじゃない。たぶん純粋に面白がってる。それはそれで複雑だけど。


「むしろ声優らしくていいと思うぞ」


「……そう、ですか?」


「最近は役も可愛い、中身も可愛い。そんな声優が増えたからな」


 確かにそうだ。今はビジュアルも重視される時代。アイドル声優なんて言葉もある。ボクみたいに、見た目と役がかけ離れてる方が珍しいのかもしれない。


「その点、お前は声と中身のギャップで勝負できる。武器だよ」


「は、はあ……」


 褒められてるんだと思う。たぶん。


「まあ、お前も見た目は可愛いけどな」


「——」


 言葉が出なかった。


 鷹宮さんに悪気はない。わかってる。客観的事実として言っただけだ。


 でも「可愛い」だ。鷹宮さんですら、そうなのだ。


 ボクを男として見てくれてる数少ない人だと思ってた。「くん」付けで呼んでくれるし、普通に接してくれる。


 でも結局——見た目の印象は、そこなんだ。


「……ありがとう、ございます」


 受け入れるしかない。否定しても、覆らない。二十三年で学んだことだ。


 -----


 リハーサルが終わった。開演まであと三十分。


「ちょっと、お手洗い行ってきます……」


 誰に言うでもなく呟いて、楽屋を出た。聞こえてたかな。聞こえてなかったら無断で消えたことになる。でももう一回言うのも変だし。もういい。行こう。


 廊下を歩く。自分の足音がペタペタと響く。さっきより人の気配が増えてる。遠くでスタッフさんたちが動き回る音。台車のガラガラという音。誰かの笑い声。


 トイレを探す。わからない。スタッフさんに聞けばいいのに聞けない。五分くらい廊下を彷徨って、やっと見つけた。


 扉を開ける。消毒液の匂いがツンと鼻を突く。


 個室に入って、鍵を閉める。


 カチャリ。


 その金属音だけで、少し安心した。


 便座に座り込む。冷たさが太ももに伝わる。消毒液の匂いが充満している。嫌いじゃない。この無機質な匂いは、誰もボクを見ていないことの証明みたいで。


 換気扇の音が低く唸っている。ブーン、という持続音。それ以外は何も聞こえない。


 ここだけが、今唯一の安全地帯だ。


 スマホを開く。SNSを見なきゃいいのに、見てしまう。エゴサをやめられない。怖いのに確認したくなる。傷つくってわかってるのに指が動く。


『いおりんの顔出し楽しみすぎる』

『絶対可愛い子だよね声的に』

『いおりんがボクっ子なの萌える』

『ハルキくんの中の人、どんな美少女なんだろ』


 ——美少女。


 ボクは男なんだ。


 プロフィールに書いてある。何度も言ってる。


 なのに、誰も、見てない。


『初顔出しで男でしたーってドッキリだったら面白いのにw』

『さすがにそれはないでしょw』

『男で声変わりしてない人いたら逆にすごい笑う』


 笑いごとなんだ。ボクの存在が。


 スマホを閉じて、膝を抱える。


 体育座りをすると落ち着く。物理的に自分を小さくすると、なぜか少しだけ安心する。根拠はない。たぶんおかしい。


 逃げようか。


「体調不良で」って言えば——


 無理だ。スタッフさんにも共演者にも迷惑がかかる。ここまで準備してくれた人たちを裏切れない。それに、アニメに泥を塗ることになる。『ソラノオト』を好きでいてくれるファンを、がっかりさせることになる。


 わかってる。わかってるけど。


 スマホで「イベント 体調不良 途中退場」を検索しようとしている自分がいる。逃げ道を探してる。最低だ。


「……帰りたい」


 声に出したら、狭い個室に反響した。余計に惨めになった。


 壁に頭を預ける。タイルのひんやりした感触。気持ちいい。このまま壁に溶けて消えられたらいいのに。


 換気扇のブーンという音だけが、ずっと鳴っている。


 コンコン。


「いおりちゃーん? 大丈夫?」


 心臓が止まるかと思った。


 なんでわかったの? どうやって見つけたの? 怖い。怖いけど返事しなきゃ。黙ってたら心配される。心配されたくない。


「そろそろ時間だよー」


 水瀬さんの声だ。扉越しでも、あの柔らかい声はすぐわかる。


「……はい、今、出ます」


 声が震えた。バレたかな。泣いてると思われたかな。泣いてないけど。泣きそうだったけど。


 立ち上がる。足が震えてる。膝に力が入らない。


 深呼吸。吐く。吸う。吐く。鳴らないように、静かに。


 鍵を開ける。カチャリ。さっきと同じ音なのに、今度は終わりの合図みたいに聞こえた。


 ドアを開ける。笑顔。笑顔を作る。大丈夫なフリ。いつもやってる。得意なはず。


「すみません、ちょっと緊張、しちゃって……」


「わかるわかる〜! でも大丈夫、いおりちゃんなら絶対うまくいくよ!」


 ——いおりちゃん。


 その呼び方が、もう苦しいんだ。


 言えないけど。


 -----


 舞台袖に立っている。


 あと五分で、幕が開く。


 客席のざわめきが聞こえる。ガヤガヤ、ザワザワ。何百人もの声が混ざり合って、波みたいに押し寄せてくる。


 何百人ものファンが、「いおりん」を待っている。


「可愛い女の子」を、期待している。


 心臓がうるさい。ドクン、ドクン、ドクン。耳の奥で脈打ってる。自分の鼓動しか聞こえなくなる瞬間がある。手が冷たい。指先の感覚がない。息が浅い。呼吸の仕方を忘れそうになる。


 隣には鷹宮さんと水瀬さん。二人とも落ち着いてる。慣れてるんだろう。プロってすごい。ボクなんかがここにいていいのか。場違いなんじゃないか。今からでも「やっぱり無理です」って言ったら——言えるわけない。


「緊張してる?」


 鷹宮さんの低い声が、ざわめきを切り裂いて耳に届く。


 目を見れない。胸元あたりを見る。高い。この人の身長がうらやましい。


「……めちゃくちゃ、です」


「出ちまえばなんとかなる。いつも通りでいい」


「いつも、通り……」


「お前はいつもキョドってるだろ。今日もそれでいいんだよ」


 それはフォローなのだろうか。よくわからない。でも少しだけ、肩の力が抜けた気がした。


 ピンポンパンポーン。


 チャイムの音が響く。


『まもなく開演です。出演者の皆様、スタンバイをお願いします』


 アナウンスの声がスピーカーから流れる。


 幕の向こうで、歓声が上がった。


『いおりーーーん!』

『いおりん!早く会いたい!』

『絶対に可愛い!』


 声が、波みたいに、壁みたいに、押し寄せてくる。


 ——まだ顔も見てないのに、もう「可愛い」。


 笑えてくる。笑えない。


「いくよ、いおりちゃん」


 水瀬さんが背中に手を添える。手のひらの温かさが、服越しに伝わる。優しい先輩だ。本当に。だからこそ「いおりちゃんって呼ばないでください」なんて言えない。


 一歩、踏み出す。


 足が動かない。いや、動いた。動いてる。靴の底が床を擦る音がする。ボクの意思とは関係なく、体が前に進んでる。


 光が見える。眩しい。白い照明が目を焼く。


 客席の歓声が、もっと大きくなる。


 キャーッという黄色い悲鳴。誰かが「いおりん!」と叫んでいる。


 ——ボクは今から、「可愛い女の子」として消費される。


 わかってる。


 わかってて、それでも、足を止められない。


 光の中へ。



 (つづく)

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