第16話 ざまぁの後に残ったもの
翌日。
教室の窓から差し込む光が、やけに眩しかった。
眩しいのに、嫌じゃない。昨日までの私は、光が差すほど自分の影が濃くなる気がして、窓際が苦手だったのに。
私は席に座って、ノートを開く。
授業が始まる。
先生の声。シャーペンの音。ページをめくる音。
――普通だ。
普通のはずなのに、胸の奥が少しだけ熱い。
私の世界は止まっていない。止まらせない。そう決めたから。
でも、完全な"普通"にはまだ戻れない。
ふとした瞬間に、誰かの笑い声が紗羅の声に聞こえる。
廊下の足音が謙也の足音に重なる。
それでも私は、息を吸って、吐いて、机に視線を落とす。
今日の私は、倒れない。
休み時間。
隣の席の子が、小さく声をかけてきた。
「……柚葉。今日、昼……一緒に食べない?」
一瞬、心臓が跳ねた。
"教室で食べる"ことは、私にとってまだ高いハードルだ。
でも私は、昨日真白に言われた言葉を思い出した。
――復讐の次は、願い。
――願いは、選ぶこと。
私は小さく頷いた。
「……うん。ありがとう」
その子がほっとした顔をする。
それだけで、私の胸の中の硬い部分が少し溶けた。
……なのに。
昼休みのチャイムが鳴って、私は弁当箱を取り出したところで、廊下から小さな騒ぎが聞こえた。
「え、うそ、生徒会長だ……」
「なんで教室の前に……?」
ざわ、と空気が揺れる。
まさかと思って顔を上げた瞬間――教室の扉が開いた。
そこにいたのは風華だった。
凛とした姿勢、整った黒髪、空気を切り替える存在感。
教室が一瞬で静まり返る。
先生がいない時間に"会長が来る"というだけで、空気が正される。
風華は私だけを見て、静かに言った。
「柚葉ちゃん。……お昼、こっち」
……こっち。
それは命令じゃないのに、私の身体が勝手に立ち上がりそうになる。
隣の席の子が、気まずそうに弁当箱を抱えた。
「……そ、そっか。生徒会、忙しいもんね」
私は慌てて言った。
「違っ……その……」
言葉が詰まる。
私は教室で食べる約束をした。
でも、風華に呼ばれたら――呼ばれたら、私は行きたい。
"帰りたい場所"が、もう教室じゃなくなりつつある。
風華が、私の迷いを見抜いたように目を細める。
「……無理に連れ出すつもりじゃない。ただ、今日は"生徒会室に来てほしい"理由があるの」
理由。
その言葉で、私は助けられた。約束を破るのではなく、"事情"として動ける。
私は隣の席の子に向き直った。
「……ごめん。今日だけ。明日、教室で一緒に食べてもいい?」
その子は少し驚いて、それから小さく笑った。
「うん。明日ね」
私は胸の奥で息を吐いた。
そして、風華の後ろに付く。
廊下に出る瞬間、背中に視線が集まるのが分かった。
でも、昨日までと違って――それは"悪意"だけじゃない。
"羨望"が混ざっている。
――会長に呼ばれる柚葉。
その言葉だけで、私の立場が変わってしまう。
怖い。けど、今はそれを使うしかない。
※ ※ ※
生徒会室。
扉を開いた瞬間、空気がふわっと柔らかくなる。
浅葱が机の上に肘をついて、満面の笑みで迎えた。
「おかえり、柚葉ちゃん!」
「……ただいま、って言う場所なんですか、ここ」
「うん。柚葉ちゃんの"帰宅先"、ここにしよ。会長の家(生徒会室)」
「勝手に家にしないで」
風華が即座に切る。
でも、声のトーンは厳しくない。
浅葱の軽さを、最初から許している声だ。
真白は机に資料を並べたまま、私を見る。
「昼休みの時間を確保できてよかった。柚葉、あなたの"今後の生活導線"を最適化します」
「生活導線……?」
「要は、あなたが一番心を削られずに過ごせるルート。教室で食べる日、生徒会で食べる日、保健室で休む日。全部、あなたが選べるようにする」
選べる。
その言葉が胸に沁みる。
私はずっと、選べなかった。選んだと思っても、誰かに奪われていた。
千景が、水のボトルを私の前に置いた。
「今日はこっち。冷たすぎない温度にしてある」
「……ありがとうございます」
その気遣いが、静かに刺さる。
千景の優しさは大きくない。
でも、逃げ道がなくなる優しさだ。――私が「大丈夫」と嘘をつけない優しさ。
風華が椅子を引いて、私を座らせる。
「理由って言ったのは――今日、少しだけ"ご褒美"を渡したかったから」
「……ご褒美?」
風華は私の机の上に、小さな紙袋を置いた。
中から出てきたのは、近所の焼き菓子屋の袋。私が昔から好きだった店。
「覚えてる? 保育園の帰りに、たまに寄った」
私は目を見開いた。
懐かしい匂いがして、一瞬で胸が熱くなる。
「……覚えてます。私、あそこのクッキー好きで……」
「知ってる。あなた、いつも最後の一枚を取っておいて、私にくれた」
風華が淡く笑う。
その笑顔が、昔の時間を引っ張り出してくる。
――守られてるだけじゃない。私の"過去"ごと抱えてくれる人だ。
浅葱が割り込む。
「え、なにそれ。幼馴染エモすぎ。
私も柚葉ちゃんの"最後の一枚"欲しいんだけど」
「浅葱」
「はいはい、会長の独占欲~」
真白が淡々と言う。
「独占は関係の安定に寄与します。ただし、柚葉が望む範囲に限る」
私はクッキーを手に取ったまま固まった。
「私が望む範囲……?」
千景が小さく頷く。
「柚葉さんが決めていい。誰と一緒にいたいか。誰に触れられて平気か。どこなら安心できるか」
……触れられて平気か。
その言葉に、私は頬が熱くなる。
風華が静かに言う。
「柚葉ちゃん。今まで奪われたのは、恋人だけじゃない。"あなたの境界線"も奪われた。だから取り戻す。――あなたのペースで」
私は小さく頷いた。
境界線。
私は誰かに合わせて、嫌でも笑って、怖くても我慢して、境界線を擦り減らしてきた。
でも、もうやめる。
私は一枚、クッキーを口に運んで、少しだけ噛んだ。
甘い。
甘いのに、涙が出そうになる。
「……おいしい」
言うと、浅葱が身を乗り出してくる。
「ねえねえ。柚葉ちゃん。今日、放課後ヒマ?"回復会"しよ。カフェ行ってさ、可愛いパフェ食べてさ、帰りにゲーセン寄ってさ」
「浅葱、連れ回す前提で組むな」
風華が突っ込むのに、浅葱は引かない。
「だって回復って、楽しいことで上書きするのが一番だもん。会長だって本当はやりたいでしょ?柚葉ちゃんに、笑ってほしいじゃん」
風華が言い返せず、視線を逸らした。
……図星。
真白が淡々と条件を出す。
「行くなら、"人の目が少ない店"と"帰宅時間厳守"。あと、柚葉が疲れたら即撤退。これが前提」
千景が小さく手を挙げる。
「私も同行したい。……念のため」
浅葱が笑う。
「念のため多すぎて草。柚葉ちゃん、護衛つきVIPじゃん」
私は苦笑してしまった。
でも、笑える。
昨日までの私なら、笑う余裕なんてなかった。
風華が私を見る。
「……柚葉ちゃん、どうしたい?」
――どうしたい?
その問いが、私の胸の奥でゆっくり形になる。
本当は、教室で普通に過ごしたい。
でもまだ怖い。
だから、今日だけでいいから、楽しいことで息をしたい。
「……行きたいです。……みんなと」
言った瞬間、浅葱が勝利のポーズを取った。
「よっしゃ! 回復会成立!」
千景は小さく頷き、真白は淡々とメモを取り始める。
風華は――ほんの少しだけ、嬉しそうに目を細めた。
※ ※ ※
放課後。
四人と私は校門を出た。
並び方が自然に決まるのが、自分でも不思議だった。
風華が隣。
浅葱が前で、歩きながら面白い話を投げてくる。
真白は半歩後ろで、私の表情を見て歩幅を合わせる。
千景は反対側で、周囲の視線と距離を測るみたいに歩く。
私はふと気づく。
これ、護衛じゃない。
――私が怖がらないように、世界を整えてくれている。
カフェに入ると、浅葱が即座にメニューを奪った。
「柚葉ちゃん、これ!ハートのイチゴパフェ!会長はこういうの好きそうでしょ、見た目が清楚だから」
「浅葱」
「え?褒めてるよ?」
風華の耳がまた少し赤い。
私は笑ってしまった。
会長が照れるのが、なんだか可愛い。
真白は淡々と、柚葉にだけ砂糖少なめの温かい飲み物を頼んだ。
千景は席の位置を私が一番落ち着く角にして、さりげなく入口が見える側に座った。
……全部、私のため。
パフェが運ばれてきて、浅葱が言う。
「はい、柚葉ちゃん。最初の一口、あーん」
「えっ」
「冗談……じゃない」
私が固まった瞬間、風華が淡々と遮る。
「柚葉ちゃんが嫌がったら禁止」
千景も小さく言う。
「嫌なら、私が止める」
真白が、冷静に結論を出す。
「柚葉が"いい"と言えば許可。嫌なら不許可。判断は柚葉の意思のみ」
四人の視線が一斉に私に向く。
胸が熱くなる。
私が決める。
私が選ぶ。
私は浅葱のスプーンを見て、少しだけ迷ってから――
「……一口だけなら」
浅葱の目がきらっと光る。
「よし!」
スプーンが近づいて、私は口を開けた。
甘い。冷たい。
そして、恥ずかしい。
「……おいしい」
言った瞬間、浅葱が満面の笑みを浮かべた。
「でしょー!柚葉ちゃん、かわいっ」
風華が、小さく咳払いする。
「……次は私が食べる」
「え?」
私は目を丸くした。
風華がスプーンを取り、同じパフェを一口だけすくって口に運ぶ。
それだけで、浅葱が大げさに騒ぐ。
「うわ、間接キスじゃん」
「違う」
「でも、柚葉ちゃんのパフェ食べたよね?」
風華が一瞬止まり、真白が淡々と補足した。
「会長は"柚葉のもの"を共有することで安心させたいタイプです。幼少期の習慣からくる行動」
「分析しないで……」
千景が小さく言った。
「……私も、間接なら……」
「千景まで!?」
私は赤くなるしかなかった。
でも、嫌じゃない。
むしろ――胸の奥がほどけていく。
私はようやく思う。
これが回復なんだ。
痛い記憶を、楽しい今が上書きしていく。
窓の外は夕暮れで、街の灯りがつき始めていた。
私は、もう一口パフェを食べて、笑った。
四人がそれを見て、それぞれ違う顔をする。嬉しそうに、安心したように、少しだけ悔しそうに。
――私のために、こんなに心を動かしてくれる人がいる。
それだけで、私は明日も教室に立てる気がした。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
あとがき
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