第15話 親の手

 面談室の扉が閉まった瞬間、空気がふっと抜けた。

 さっきまで胸を押し潰していた重さが、床に落ちていくみたいに。


 私は椅子の背にもたれたまま、しばらく動けなかった。

 息を吸っても浅い。吐いても足りない。

 頑張って、耐えて、言い返さなくて――それでも、心臓だけが遅れて暴れ出す。


「……終わった……?」


 自分の声が他人みたいだった。


 風華が、私の右側で静かに頷く。


「終わった。少なくとも"公式の決着"は付いた。あなたのせいじゃないって、形にした」


 真白は資料を揃えながら、淡々と追記する。


「今後の連絡窓口は学校に一本化。個別接触は全て"違反"として扱えます。つまり、相手が次に何かしてきた瞬間、それは追加の自爆になります」


 千景も腕章を押さえたまま言った。


「風紀も巡回を強化します。次に動いたら即、止めます」


 私は頷いた。

 頷けた。

 でも――胸の奥が、まだ痛い。


 紗羅の母親の顔。

 謙也の親の沈んだ表情。

 「満足?」と聞かれた時の、あの刺さるような声。


 満足なわけがない。

 でも私は、終わらせたい。

 その"終わらせたい"が、ようやく届いた。


 風華が私に手を差し出す。


「帰ろう、柚葉ちゃん」


 私はその手を取った。

 温度がある。指が震えていても、手は離れない。

 それだけで、世界が少しだけ現実に戻ってくる。


 ※ ※ ※


 廊下に出て、歩き出したところで、私はふと立ち止まった。

 スマホが、ポケットの中で重い。

 留守電の声が、また耳の奥で再生される。


『うちの紗羅が泣いてるんだけど』


 ――私の親は、何をしているんだろう。


 その疑問が、急に喉を締めた。

 私は、親に何も言っていない。言えなかった。


 風華が、私の立ち止まった気配に気づいて振り返る。


「どうしたの?」


「……私……親に、言ってません」


 口に出した瞬間、情けなさが込み上げた。

 娘がこんなことになってるのに。

 でも、言えなかった。言ったら壊れそうだったから。


「……心配かけたくなくて」


 風華は怒らなかった。

 驚きもしない。むしろ、納得したように小さく息を吐いた。


「そうか。柚葉ちゃん、ずっと"我慢で守る"人だものね」


 その言葉が、胸に刺さる。

 私は守れていなかった。自分の心も、尊厳も。


 真白が淡々と言った。


「親への共有は必要です。面談が終わった今が一番いい。

 理由は二つ。

 ①今後、追加の嫌がらせが起きた時に"家族の協力"が必要になる

 ②今日の面談内容を、当事者の親が外で歪めて伝える可能性がある」


 千景も頷く。


「保護者が味方に入ると、学校はさらに動きやすいです。柚葉さんの安全確保にも直結します」


 私は唇を噛んだ。

 分かってる。分かってるのに、怖い。


「……怒られそうで」


 私が言うと、風華は静かに首を横に振った。


「怒られない。怒るなら、相手に怒る。大丈夫。――今、電話しよう」


 その一言が、"逃げ道"を消した。

 優しいのに、強い。


 私はスマホを取り出した。

 連絡先を開く。

 母の名前が表示される。


 指が、震えた。


 でも、押した。

 通話ボタンを。


 プルル、プルル――


「……もしもし? 柚葉?」


 母の声。

 いつもの声なのに、今日だけは涙が出そうになる。


「……お母さん。今、話せる?」


「どうしたの? 声、変だよ」


 私は一瞬、言葉が詰まった。

 ここで言えなかったら、また戻ってしまう。


 風華が横で、私の背中を軽く撫でた。

 "言っていい"の合図。


「……学校で、トラブルがあった。私……すごく嫌なことされて……」


 言った瞬間、堰が切れたみたいに喉が震える。


「え……何? 誰が? 柚葉、今どこ?」


 母の声が変わった。

 "心配"じゃなく、"警戒"と"怒り"の声。


 私は、今日の面談でまとめた"事実だけ"を思い出す。

 感情ではなく手順で話す。


「……今、生徒会の先生たちと一緒。同じクラスの子と……その子に関係する男の子に、嫌がらせと、脅しがあって……今日、保護者面談まで終わった」


「保護者面談……? そんなことに、どうして今まで言わなかったの!」


 母の声が強くなる。

 でも、私を責める強さじゃない。

 "間に合わなかったこと"への怒りだ。


「……言えなかった。心配かけたくなくて……」


 沈黙が一拍。


 そして母は、低い声で言った。


「……柚葉。心配かけたくないって言うの、分かる。分かるけど――これは、ひとりで抱える話じゃない。今すぐ迎えに行く。どこにいる?」


 私は息を呑んだ。

 迎えに来る。

 その言葉が、嬉しいのに、どこか怖い。


「……学校。生徒会室の近く」


「分かった。校門前に行く。絶対、ひとりにならないで。いい?」


「……うん」


 電話が切れた。

 私はスマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。


 風華が、私の顔を覗き込む。


「来てくれる?」


 私は頷く。


「……来てくれるって」


「よかった」


 風華がそう言った時、私の胸が少しだけ軽くなった。

 "親は何をしてるのか"――その答えは、私が言っていなかっただけだ。


 そしてもう一つ、胸の奥で答えが育つ。

 私は、これからは言う。

 守られることを、許す。

 

 ※ ※ ※

 

 校門前の空気は冷たく澄んでいた。

 夕方の風が制服の袖を揺らし、私は風華の右側でじっと外を見つめていた。


 ――来る。母が。


 数分後、車が校門の脇に止まる。

 ドアが開いて、母が降りてきた。


 足取りが速い。顔色が違う。

 私を見つけた瞬間、母の目が揺れた。泣きそうなのに泣かない目。代わりに、怒りを押し込めた目。


「柚葉!」


 母は駆け寄ってきて、私の肩と頬に手を当てる。


「怪我は? ……どこか痛い?」


「……怪我はない。心が、ちょっと……」


 言い終わる前に、母の唇がきゅっと結ばれた。

 泣かない。代わりに、私を壊したものを許さない顔になる。


 母はすぐ隣にいる風華へ視線を移す。

 そして、一瞬だけ驚いたように目を見開いた後――ふっと表情を和らげた。


「……風華ちゃん?」


 風華が、少しだけ姿勢を正して一礼する。


「お久しぶりです、おばさん」


 "初対面"じゃない。

 私が小さい頃、家が近所で遊んでいた頃。母も何度か会っている。

 ただ、あまりに久しぶりで、お互い一瞬だけ記憶の扉を探しただけだ。


 母は息を吐いた。


「……大きくなったね。会うの、何年ぶりかしら。……あなたが一緒にいてくれたの?」


「はい。生徒会としても、個人としても。柚葉ちゃんを一人にしないようにしていました」


 母はその言葉を聞いた瞬間、深く頭を下げた。


「……ありがとう。昔からしっかりした子だと思ってたけど……本当に、ありがとう」


 風華は落ち着いて首を振る。


「当然のことをしただけです。柚葉ちゃんは悪くありません」


 母は私の肩を抱いたまま、低い声で言った。


「柚葉。今日のこと、全部は今すぐ聞かない。でも一つだけ。――学校は、動いてくれてるのね?」


「……うん。面談も終わった。処分も……決まった」


 母の目に、一瞬だけ"安堵"が灯る。

 そしてすぐ、"次にやるべきこと"の目になる。


「分かった。じゃあ、ここからは大人の仕事ね」


 その言葉が、私の胸の奥の震えを抑えた。

 私はずっと一人で耐えていた。

 でも今、耐える役を母が引き取ってくれる。


 母は風華を見る。


「風華ちゃん。学校の担当の先生のお名前、教えて。私は"窓口は学校一本"ってことを正式に確認したい。それと、記録の扱いも」


「顧問は村瀬先生、担任は佐久間先生です。今日の面談記録も学校側で保全されています」


「ありがとう」


 母は頷き、私の方へ戻る。


「それと柚葉。相手の親から連絡が来ても、絶対に出ない。あなたが背負う話じゃない。分かった?」


「……うん」


 母は短く頷き、私の額に手を当てた。


「……熱はない。よし。帰ろう」


 私は歩き出しかけて、ふと風華を見た。

 風華は、いつもの凛とした笑顔で微笑んでいる。


 母もそれに気づいたのか、ほんの少しだけ目を細めた。


「……懐かしいわね。小さい頃、柚葉が泣くと、いつも風華ちゃんが先に怒ってた」


 風華が僅かに照れたように視線を逸らす。


「……昔の話です」


「いいえ。今も、同じに見える」


 母は私を抱く腕に、少し力を込めた。


「柚葉。いい人たちに出会えたね」


 私は答えられなかった。

 胸の奥が温かくて、痛くて、言葉が詰まる。


 でも、その温かさは確かに私を立たせている。


 車のドアが閉まる。

 窓の外で、風華が小さく手を振った。


 私は、初めてちゃんと手を振り返した。


 ――ざまぁの決着はついた。

 でも私の物語は、ここからだ。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 

あとがき


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