第8話 明日あなたの世界を取り戻そう

 顧問室の扉を開けた瞬間、また空気が切り替わった。

 廊下のざわめきが遠のき、代わりに静かな緊張が室内を満たす。先生の机の上には赤ペンと書類、開きっぱなしの指導要録。そこに、私たちが持ち込むのは――"噂"じゃなく、"事実"だ。


「どうした、春波。追加報告か?」


 村瀬先生は椅子を回してこちらを向いた。

 風華が一礼し、淡々と要点だけを置く。


「はい。先ほど、二年女子の発言を確認しました。『柚葉が逆恨みで暴れた』という噂の根拠は"見た"ではなく"紗羅から聞いた"という伝聞でした。風紀委員の立会いもあり、記録しています」


 千景が一歩前に出て、補足する。


「本人は取り巻きの一人です。言い分は『紗羅がそう言っていたから』。具体的な目撃はありません」


 先生の眉間に縦皺が入った。


「……なるほど。虚偽の流布が伝聞で回っている、と」


 真白が資料の端を揃えながら言う。


「はい。ここで噂を放置すると、当事者である柚葉の立場が不利に固定されます。学校として"調査中であること"を早期に示す必要があります」


 先生は短く頷き、机の上のメモ帳に何かを書き込む。


「分かった。明日、紗羅と取り巻きをセットで呼ぶ。謙也も再度同席。"噂の出所"と"二次加害"は別件として整理する。君たちの記録があるなら、話は早い」


 私は、ほんの少しだけ息が楽になった。

 昨日まで、私は世界から切り離されていた。誰にも信じてもらえない気がしていた。

 でも今は――学校が動く。先生が、規定の言葉で守ってくれる。


「それと春波、新井の安全確保はどうする」


「生徒会補助として動かします。名目で守り、単独行動を避けさせます」


「よし。新井、いいか」


 先生が私を見た。

 私は背筋を伸ばす。


「君にお願いしたいのは一つだけ。"一人で抱え込まないこと"。噂で煽られても反応しない。相手に直接接触しない。――守れるか」


「……はい」


 返事は出た。

 でも胸の奥の悔しさがまだ熱い。言い返したい、睨み返したい、叫びたい。

 その全部を飲み込んで、私は頷く。


 先生はそれを見て、少しだけ表情を和らげた。


「辛いだろうが、君は間違っていない。ここから先は大人が責任を取る」


 その言葉に、視界が滲みかけた。

 泣きたくないのに、安心が涙腺を押す。


 風華が横から、私の手首にそっと触れた。

 "今は泣かなくていい"と、温度だけで言われた気がした。


 ※ ※ ※


 顧問室を出た帰り道、私は風華の右側を歩いた。

 廊下の角を曲がるたび、すれ違う生徒の視線が刺さる。

 でも、さっきまでと違う。


 私の背後には千景。

 少し遅れて真白が資料を抱え、浅葱はわざと明るい声で話しかけ、周囲の空気を"私たちのもの"に塗り替えていく。


「会長、明日の聴取さ~、紗羅ちゃん絶対泣くよね?」


「泣くでしょうね」


「うわ、会長の即答こわ。最高」


「浅葱」


「はーい」


 浅葱の軽口が、私の緊張を少しだけほぐす。

 この人は、空気を操るのが上手い。噂の戦場を歩くタイプの強さだ。


 生徒会室に入ると、真白がホワイトボードを引っ張り出した。

 迷いなく、明日の流れを整形していく。


【明日の目的】

① 噂の出所を"伝聞"として確定

② 取り巻きの虚偽発言を停止(事情聴取・指導)

③ 紗羅本人に「言った/言ってない」を言わせる

④ こちらは"感情ではなく手順"で通す


 書かれた文字は短いのに、鋭い。

 私はその前で、拳を握ったり開いたりしてしまう。

 いまだに、心臓が落ち着かない。


 風華が私の視線を受け止める。


「柚葉ちゃん。明日は"戦場"だけど、あなたが前に出る場面は少ない。あなたの仕事は、事実を短く言うこと。そして、動揺しないこと」


「……動揺、します。絶対」


 思わず弱音が出た。

 謙也の顔を見るだけで、胸が痛い。紗羅の泣き顔を見るだけで、怒りが燃える。


 風華は、否定しなかった。


「する。それでいい。動揺するのは、人間だから。問題は"動揺を相手に見せること"。そこだけ、私が止める」


「止める……?」


 私が聞き返すと、風華は当たり前みたいに頷いた。


「あなたの表情が崩れそうになったら、私が話を切る。あなたに休憩を入れる。席を替える。全部、私が判断する。――あなたは、私を見てて」


 胸が、また熱くなる。

 "私を見てて"じゃない。

 "私を見ている"のは、風華の方だ。


 浅葱がニヤついて口を挟む。


「会長、守護がガチすぎ。柚葉ちゃん、これさ、ほぼ囲い込みだよ?」


「違う」


 即答のはずなのに、風華の耳がほんのり赤くなる。

 私は視線を逸らした。胸がうるさい。こんな時に。


 真白が淡々と続ける。


「百合っぽい話は後で。いまは案件。……柚葉、あなたに一つ確認。紗羅からのメッセージ、"絵文字"が付いていた?」


「……はい。キラキラとか、ハートとか」


「そのテンションは重要。攻撃の意図が読み取れる。『冗談だった』と言い逃れされても、文面の客観性で潰せる」


 千景も頷く。


「風紀としても、悪質性が高い。本人が泣いても関係ありません」


 私は、喉の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。

 泣かれたら、私は崩れると思っていた。

 でもこの人たちは、泣き顔に惑わされない。泣き顔を"手段"として扱う。


 風華が言った。


「紗羅は、泣く。でもそれは"盾"。私たちは盾の裏の手を見に行く」


 浅葱が笑う。


「いいねえ。ざまぁがちゃんと"戦略"になってる」


 真白がボードに最後の一行を書き足した。


【柚葉の勝ち条件】

"悪者"を外され、事実が公式に確定すること


 私はその文字を見て、深く息を吸った。

 派手な復讐じゃなくていい。

 私が壊された場所を、正しい形で取り返せればいい。


「……私、明日。ちゃんと話せるかな」


 ぽつりと漏れた言葉に、風華が私の方へ体を向けた。

 距離が近い。目が合う。逃げられない。


「話せる。もし話せなくても、私はあなたの代わりに立つ。だから――今日は休む。ご飯を食べる。眠る」


 命令みたいに言うのに、優しい。

 私は頷くしかなかった。


 ※ ※ ※


 帰り道。校門へ向かう途中、噂のひそひそ声がまた聞こえた。

 でも、私の足は止まらない。


 風華が私の右側で歩き、浅葱が反対側で軽口を叩き、少し後ろで真白が無言で守り、千景が周囲の視線を牽制する。


 ――この隊列が、そのまま答えだった。


 私はもう、孤立していない。

 私を"チョロい女"と笑った人たちに、これから見せる。


 泣いて終わる私じゃない。

 正しく、取り返す私を。


 風華が、校門の前で立ち止まり、私にだけ聞こえる声で言った。


「明日、あなたの世界を取り戻そう」


 その一言が、胸の奥で確かな火になった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 

あとがき


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