第7話 後悔しても遅い
扉が閉まったあと、生徒会室の空気がわずかに揺れた。
さっきまでの"他人事の噂"が、今は「記録」と「証言」になって机の上に落ちている。形になった瞬間、私はやっと呼吸ができるようになった気がした。
でも同時に、胃の奥が冷える。
――紗羅が、もうここまで仕込んでいる。
私が泣いて沈む未来を、最初から予定表に書いていたみたいに。
浅葱が、録音を止めてスマホを軽く振る。
「はい、今の発言ログ確保。伝聞って出たのがデカい。『見た』じゃないって自白だもん」
真白は淡々とメモをまとめ、紙の端を指で揃えた。
「伝聞で他人の名誉を傷つけた。二次加害の典型。この子を責めるより、発信源を公式に引きずり出す材料になる」
千景が腕章を軽く押さえ、低い声で言う。
「風紀の立場でも"注意"じゃ済まないです。今のは完全にライン超えてる。……会長、明日じゃなくて、今日のうちに動けませんか?」
風華は即答せず、少しだけ考えるように目を伏せた。
その沈黙が、怖いくらい頼もしい。感情じゃなく、最短距離で勝ち筋を選んでいる沈黙だ。
「……動ける。けど、順番を間違えない」
風華は机に指を置き、静かに言った。
「相手は"空気"で柚葉ちゃんを潰そうとしてる。だから、空気で殴り返したら同じ土俵。
私たちは"公式"で上書きする。先生を巻き込み、規定で縛る」
私は唇を噛んだ。
頭では分かる。だけど、悔しさがどこかで暴れたがっている。
「……私、さっきの子に言い返したかった。『見てもないくせに』って」
風華が私を見た。責めない目だった。
「言い返していい。――でも、"あなたの勝ち"はそこで取らない。言い返して気持ちが晴れても、相手は『ほら、柚葉は攻撃的』って言える。だから、言い返したい言葉は全部、後でまとめて"公式の場"で言うの」
その言い方が、ずるい。
私の怒りを否定しないまま、使い道だけ変えてくる。
浅葱が楽しそうに言う。
「そそ。怒りは燃料。使い方を間違えなきゃ最強。柚葉ちゃん、今日は"我慢の日"じゃないよ。"勝ち筋を育てる日"」
真白がボードに追記する。
【第三手】紗羅本人の発言を固定
・虚偽流布の経緯
・拡散の意図の有無
・取り巻きへの指示の有無
その文字を見て、私は背筋が伸びた。
紗羅の"余裕"を、言い訳不能な形に変える。
それが、ざまぁの本体だ。
風華が立ち上がる。
「千景、風紀委員会の当番表。今日の放課後、まだ残れる人は?」
「私含めて二人です」
「じゃあ今から顧問に追加報告。『虚偽の流布が伝聞だった』って証言が出た、と。その上で、明日"紗羅と取り巻きの聴取"をセットで組む」
私は思わず聞き返した。
「取り巻きも……一緒に?」
風華は頷く。
「ええ。紗羅が『知らない』で逃げるための盾だから。盾ごと外す」
浅葱が指を鳴らす。
「うわ、会長こわ。好き」
「浅葱」
「はいはい、すみませーん」
ふざけたように見えて、浅葱の目は真剣だった。
冗談で空気を軽くしつつ、戦闘態勢を解かないタイプ。こういう人が味方だと、世界は強くなる。
私がぼんやりしていると、真白がスマホを差し出してきた。
「柚葉。さっきの件で、あなたの端末に触れたくないなら、これを使って」
「……え?」
「連絡用。生徒会の予備端末。あなたの私用端末は触れられるほどリスクが上がる。
紗羅側が"端末を覗いた"と騒いだ時の火種も潰せる」
火種。
そこまで考えるのか、と私は息を呑んだ。
「……ありがとうございます」
受け取ると、手のひらにひんやりした重みが乗った。
私の心臓を守るための"道具"。それがあるだけで、世界が少し整理される。
その時、廊下側からまた声が聞こえた。
さっきより小さいけれど、確実に私の名前が混じっている。
「柚葉ってさ、なんか怖いよね」
「逆恨みってマジ?」
胸がざわつく。
でも私は立ち上がらない。視線も向けない。
風華が、私の目線の高さに合わせるように少し屈み、低い声で言った。
「……今、心臓が速い?」
「……はい」
「いい。速くていい。でも、歩く時は私の右側。離れない。今は"見せ方"も戦略」
右側。
指定されただけなのに、その言葉が妙に胸に残った。守られる位置。隣の席。居場所。
私が頷くと、風華は一瞬だけ微笑んだ。
ほんの少し、安心したみたいな笑み。
真白が時計を見る。
「顧問への追加報告、今なら間に合います。千景、同行を」
「はい」
千景が扉に手をかけた瞬間、浅葱が「ちょい待ち」と言って私の方へ向き直る。
「柚葉ちゃん。明日から、絶対に"個別の呼び出し"に応じないで。 『話がある』とか『誤解だ』とか。そういうの、全部罠」
「……分かりました」
「あと、もし向こうが泣いたり、謝ったりしてきても、そこで"許す"って言わない。許すかどうかは、心じゃなくて、状況が確定してから決める。オッケ?」
私は、少しだけ目を丸くした。
浅葱は軽いのに、怖いほど現実的だ。
「……オッケ、です」
浅葱は満足そうに笑う。
「よし。じゃあ、明日が本番。紗羅はきっと、"被害者の顔"で来る。謙也は面倒くさそうに来る。でもその時、こっちは"記録と規定"で黙らせる。ね、風華?」
「ええ」
風華の返事は短い。
短いのに、背中を押す強さがある。
※ ※ ※
顧問室へ向かう廊下。
私は風華の右側を歩いた。近すぎて、制服の袖がときどき触れる。そのたびに、妙に意識してしまう。
私、何やってるんだろう。
こんな状況なのに、隣にいるだけで落ち着く。
風華が、小声で言った。
「……柚葉ちゃん。今日はもう、十分戦った」
「まだ、何も取り返してません」
風華は首を横に振る。
「違う。今日、あなたは"潰されない"って証明した。噂が回っても、あなたは一人じゃないって、周りに見せられた。それだけで、相手の計画は崩れる」
計画。
紗羅の計画。
私は拳を握った。
「……明日、私のことを馬鹿にした分、全部……」
言いかけた私に、風華が遮らず、ただ静かに頷いた。
「全部、返す。ただし、あなたの手は汚さない。――私たちが、正しく返す」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
涙じゃない熱。前に進むための熱。
顧問室の前に着く。
千景がノックをし、先生の返事が返ってくる。
「……入りなさい」
扉が開く。
そして私たちは、次の一手を打つために、また"公式の場所"へ足を踏み入れた。
紗羅は、まだ自分が勝っていると思っている。
噂で私を潰せると思っている。
――でももう、遅い。
私は、ひとりじゃない。
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あとがき
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