第2話

 じんくんは本当のお兄ちゃんのような存在だった。

 

 不思議と気を使わなくてもよいし、接していても心が楽な人だ。滅多に会わないし、連絡を取り合うことも滅多にない。疎遠になると、他人行儀になってしまいそうに思う。

 

 けれど、こうして久しぶりに会っても、二人の間の感覚は子どもの頃と変わらないような感じがする。ありのままでいられるんだ。

 

 私にとっては、まさに人間関係のオアシスのような存在だった。


 私は石投げを諦めて、またもとの場所に座り込んだ。まだ一生懸命に石を投げているじんくんの様子も、子どもの頃と変わらないように見えた。


 天を仰ぐと、夏の濃い青の空があった。太陽はもうその姿を山向こうに隠していたが、まだ強い光を放っている。

 それでも目前のうっそうとした木々の間は、もう闇を蓄えていた。


 あの頃も、夕暮れへと色を変えてゆくこのひとときだけは、淋しさを感じた。日が暮れてしまえばまた楽しいことが待っている。楽しい時間と楽しい時間の間に挟まった、サンドウィッチのカラシのようなぴりっとしたせつない時間だった。あと何日この村にいられるのかを指折り数えて、過ぎてほしくない気持ちが押し寄せてきたのも、夕暮れ時だった。


「最近はこの川で遊んでる子ども、あんまり見かけないな」


 そう言って、じんくんは腰を下ろした。


「そうなの?」


「あの頃は、今の季節、この時間帯でも、たくさんの子どもがこの川にいたもんだけどな」


 じんくんの手元で小石がカチカチ音を立てている。


「そうだね」


「この川も、淋しがってるだろうな」


 じんくんは笑った。


「うん。きっと淋しがってる…。」


 じんくんが冗談のように言った言葉でも、その感覚をうれしく思った。


 この川には目に見えないけど、川の魂というようなものがきっとあるんだと思っていた。そう、子どもの時から。


 ふと、じいちゃんの姿が脳裏に浮かんだ。畑に入っていく前に、しばらく手を合わせていた姿だった。ある日、じいちゃんに聞いたことがあった。


「なんで、手を合わせるの?」


「まんまを食べさせてもらっとるからや。どんなもんにも、気持ちがある。だから世話になっとるもんにはお礼を言わんといかん」


 じいちゃんの声や言葉には爽快な力があった。体に直結した声、働く体に直に繋がった言葉、説教じみてなくて、スコーンと突き抜けていた。


「まぁ、今でもこいつの大切な遊び場だけどな」


 じんくんは、私とじんくんの間で寝そべっているタローの体を撫でながら言った。タローは、尻尾を振りはじめた。


 じんくんがポケットに手をやるのと同時に、タローは立ち上がった。じんくんは、ボールを川に向かって投げ入れた。

 その瞬間、機敏な動きでタローは川の中へと入っていった。




 りゅうくんに恋心を抱いたのだろうか。恋というより、憧れに似た気持ちだったような気がする。同じ年齢だというのに、どこか落ち着いていた。今になって思えば、孤高の芸術家の雰囲気をすでに放っていたのかもしれない。同級生の男の子にはない雰囲気だった。

 

 あの時、人懐っこいじんくんは、彼の絵を覗き込みに行って、私と弟も一緒に付いていった。私は、その絵を見た瞬間、しばらくその場を離れがたくなった。彼の描いていたこの川の情景は、とても力強くて、その絵の力に引き付けられた。


「絵が好き?」


 と彼は聞いてきた。近寄りがたいと思っていた私のイメージを打ち砕くような無邪気な声だった。


「え?う、うん…」


 そう返事をして周囲を見ると、じんくんと弟は、もう川の中で遊び始めていた。二人がその場にいなくなっていたことに気づかなかった。動揺しながらも見つめた彼の目に引きこまれた。やさしくてまっすぐな目だった。


 すると、じんくんの大声が響いた。おまえも来いよと誘われた彼は嬉しそうに、照れくさそうに、仲間に加わった。


 それから一緒に日暮れまで遊んだ。別れ際、私は彼の絵に感動したことを素直に伝えた。川の中でくたくたになるまで遊んで、空っぽになった頭から、ぽんと出てきた賞賛の言葉だった。


 すると、スケッチブックから無造作にその絵を切り取ると、わたしに手渡した。


「いいの?」


「いいよ」


 彼はニッコリ笑顔で言った。


「ね、文通しようよ」


「う、うん。いいよ」


 そうやってわたしたちは文通を始めた。毎回、彼からの手紙には画用紙に描かれた絵が一枚だけ入っていた。始めは、感想を書いて返信していたが、次第に私も同じように絵を描いて送るようになった。


 それまでわたしは絵を観ることは好きだったけれど、描くことがそれほど好きではなかった。そして、何より自分には絵心がないと思い込んでいた。


 しかし、彼との文通は絵を描く楽しさを教えてくれた。そして私の胸の中にしっかりと絵を宿してくれた。しばらく続いた文通も自然と回数が減っていって、いつしか途絶えた。




 水に濡れたタローが私の目の前で身震いした。跳ねた水しぶきを受けて私は笑った。じんくんはボールをもてあそびながら、さっきいた場所に座った。


「日が暮れてきたな」


「うん」


 それからしばらく黙ったままでいた。川の音だけが響いて、静かだった。


「川の音って好きだな。」


 ふと私はひとり言が口をついてでてきたみたいに喋った。


「川の音って、石があったり、段差があったり、流れの曲がった所でよく聞こえる…そんな障害物みたいなものがあるからこそ、きれいな音がするんだろうか……、人生もきっとそうなのかな…」


 じんくんは黙っていた。私は、タローを招きよせると、抱きしめながら、湿った毛を撫でた。そして、じんくんの方を見て大きく笑った。


「帰ろう」


 私は勢いよく立ち上がると、大きな動作で、お尻をはたいた。そして、身支度を整えると背伸びをした。


「それでも、その音が好きだからって、その音がきれいだからって、わざと、大きな石を流れに置いたり、流れを変えてしまうようなことはするなよな」


 じんくんは神妙に低い声で言った。


「え?」


「なーんてな」


 じんくんは、そう言って声を上げて笑うと、ひとり歩き始めた。タローがその後を追うと、私はその様子をしばらく眺めてから、その背中を急いで追いかけた。

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