第3話
りゅうくんが亡くなったことを知ったのは、今年に入ってからだった。年賀状の返信が彼の母親から来た。その葉書には彼の死が簡潔に告げられていた。
私の年賀状は、りゅうくんの両親にとって悲しみを再確認させてしまっただろう。彼の不在を改めて突きつけてしまっただろうと心苦しくなった。無知は、時に残酷になりうる。
文通が途絶えて以来、音信不通だった私たちが、再び年賀状を送りあうようになったのは、りゅうくんからの手紙がきっかけだった。私が就職した年だった。彼は美大を卒業した後、世界中をバックパッカーで旅しながら絵を描いていることが綴られていた。急いで描いたようなスケッチ画にはハワイの風が封じ込められていた。
私は地元の公立の美大を卒業し、デザイン会社で働き始めていた。小さな会社だったため、ちょっとした事務の仕事もこなしていた。私の方は、就職してから、忙しい仕事に日々疲れ果て、仕事以外に絵を描くことから遠のいていた。突然送られてきた彼の手紙は、絵を描くことを忘れるなというメッセージだったのかもしれない。
それからふと思い出したように、旅先からスケッチが送られてきた。なぜ彼がまた絵を送ってくるようになったかはわからない。もしかして、彼は純粋に絵を楽しんで描いていた子どもの頃の自分自身を取り戻りたいと願っていたのかもしれない。私に絵を送ることで、その頃の自分自身を思い出そうとしていたのだろうか。
その真意を聞いてみたかった。話してみたかった。彼の最後の便りに書かれた“いつかまた会いましょう”という願いも、一生叶えることはできなくなってしまった。
彼の存在はこの世からなくなって、彼の目を見ることも、彼の手を握ることも、彼の声を聞くことも、もうできなくなってしまった。彼は彼という存在を通して新しい絵をこの世に生み出すこともできなくなってしまった。
彼の肉体は、この世界で形を変えてしまったんだ。たとえ形は違ってもこの世界のどこかでまた巡ってゆくのだろう。彼が吐いた最期の息は、風の中でこの世界を巡ってゆくのだろう。そして、彼の魂はきっとまた新たな旅を続けるのだろう。
もしかしたら、また別の形で出会うこともあるのかもしれない。しかし、りゅうくんという存在とはもう永遠に逢うことはできない。その悲しみはどれだけ想像力を働かせても、痛いほどに心に沁みたんだ。
蚊取り線香がやんわり役目を果たしながら、わたしに夏の匂いをしみこませていく。わたしは、縁側に座ってお風呂上りの心地よさを味わった。夜の空気には、もう秋が入り混じっていた。次の季節へと切り替えていくために、秋の喜びを濃縮した予告編が夜空を駆け巡っていく。
空一面の星空を久しぶりに見ることのできる幸福感は、首の痛みさえ感じなくさせる。人は死んでしまうと、星になるという人がいる。そうなら、この空はいつしか光だけになる。
「飲むか?」
じんくんが缶ビールを肩越しに差し出した。よく冷えていることが、耳たぶから伝わる。
「ありがとう」
受け取って火照った頬に当てた。じんくんは、となりであぐらをかいた。プルトップの和音の後、静かに缶を傾け合い、再会の祝杯を飲んだ。
「普段あんまり飲まないけど、今すんごくおいしい。」
「よかった。…そういえば、さっき、言ってたりゅうくん?」
「うん」
「あれからずっと交流があったのか」
「あれからしばらく文通をしてて、中学生になったら、終わっちゃった。でもね、就職した年にまた手紙をくれたの。びっくりしたけど、うれしかったな。絵を描くことを思い出させてくれた。りゅうくんのおかげで、今私は絵を描くことができているんだ」
「そっか」
「ねぇ、じんくん、今、急に死んじゃったら、すごく悔しい?」
じんくんは急いでビールを飲む込むと、私のほうへ顔を向けた。
「え?」
「事故とかで…誰にも何にも言えず、したかったことも中途半端で」
「悔しいだろうな…言葉にならないくらい、想像できないくらい…どうしたんだ?」
「ごめん。急に」
「りゅうくん?」
私の様子に何かを察知したじんくんは、恐る恐る尋ねた。
「うん」
「亡くなったのか?」
「うん」
じんくんはしばらく動きを止めていた。
「事故だったんだって。詳しいことはわからない」
わたしは、ビールを飲み干した。
「私、すんごく悲しくなって」
「おれも、あの時、少しだけ遊んだだけなのに、なんかすごく悲しい」
わたしは、話したとたん、夏にみなぎる力が抜けていった。そして、目だけを上げて星空を見つめた。じんくんは、体を倒して寝そべった。
「彼、描きたい絵がたくさんあっただろうに、やりたいこと、行きたい場所がたくさんあっただろうに…それができなくなってしまった…りゅうくんとして…」
涙が流れていた。縁側が薄暗くて良かった。
「あー、こんな悲しいことが、この世界には繰り返されてる。どこかで、何かすごく悲しいことが起こっていて、知らない内に、この世界がまた形を変えていっている」
涙声になりそうになったので、思わず口を閉じた。涙は静かに流れ続けた。私は、鼻をすすることも、涙を拭うこともせず、空を眺め続けた。
「だから、会社辞めたんか。なんでかなって、ちょっと思ってた」
あの時、私は悲しみのすぐ側でうずくまっている奇跡があることに気づいた。
絵が描ける手があること、目があること。この体があるおかげで、絵が描けるということ。その果てしなく深遠な恩恵は、まさに奇跡のなにものでもない。当たり前にしてたけど、当たり前ではなかった。
そう気づいた時、私は、描こうと思った。この体が与えられているうちに、描きたい絵を、好きな絵を描こう、この世界からできるだけたくさん頂いておこうと思った。いつまでそうできるかなんて私にだってわからないのだから。
そして、もしも叶うならば、彼ほどの才能はないにしても、彼と一緒に、彼の分も、描きたいとさえ思った。そして、彼は私に、言葉ではなく、絵そのものから絵を描く楽しさを教えてくれた。彼の描く絵には、絵を描く楽しさや喜びが塗りこめられていて、放射していたんだと思う。そんな絵を私も描けたらいいなと思う。
「おれ、じいちゃんが死んだ時、しっかり生きろよって言われた」
「亡くなる時?」
「いいや、じいちゃんの死に目には逢えなかった。死んだ後、お通夜の晩、ロウソクの番してた時…夢だったんだろうけど、じいちゃんに言われたことは確かなんだ」
「うん」
「あの頃、会社でそれなりに成果も上げて、頑張ってたつもりになってたけど。しっかり生きろって言われた、そう言われたと思った自分の心を見た時、なんか、じいちゃんの言う”しっかり”とは生きてないなって思った。わかんないけど、そう思った。誰かが死ぬって、何かしらすごいメッセージを残していくよな。正真正銘、命がけの何かを残していく。その人の生と死をもって…すんごい力で、すんごいもんを残していく。それを感じること、聞くことが、ひとつのほら、供養ってのになんのかな」
じんくんは大きく息を吐いて、そのまま黙った。
次の日の朝、まだ薄暗いうちに、私は一人川へと向かった。少しひんやりとする澄んだ空気の中を、私は歩いた。朝焼け色にほんのり染まる雲の端を見て、涙が溢れそうだった。
私は、彼の実家を訪ね、お参りさせてもらおうかと、何度も思った。しかしどうしても行けなかった。だから、せめてこの思い出の場所で、彼の冥福を祈ろうと思った。彼と出会い、それが最初で最後となったこの川が、私にとって彼を一番近くに感じられる場所だったからだ。
川原は、まだ夜の雰囲気を放っていた。私は少し恐ろしくなった。それでも、意を決して川原を降りると、あたりは紫色に染まっていて、ほっと安心感に包まれた。
私は、昨日いた場所に辿り付くと、目を閉じた。そして流れに向かって手を合わせた。ぎゅうっと目をつぶって、祈った。彼の幸せを心いっぱいに祈った。彼が残してくれた命がけの贈り物を、私はずっと大切にしていこう。それが、私に絵を宿してくれた彼への恩返しになると信じて。
しばらくすると、パッと明るくなる一瞬が瞼の裏からわかった。山際から太陽が姿を現した。その光をとてもうれしく思った。太陽の方へと目を細めると、少し微笑んだ。
そして、私は、キラキラと輝き出した水面にそっと昨日描いた絵をあずけた。川音がレクイエムとなって、絵は光を浴びて流れていった。祈りをのせて、流れていった。
永遠なる祈りをのせて ヒノカ・ヒミ @HinokaHimi
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