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文化祭が近づいている。
私の学校の文化祭では、毎年クラスごとに特色のある垂れ幕を作り、それを校舎の屋上から吊るすことが恒例となっている。当然ながら、クラス内でも絵心のある子がその製作に駆り出されるわけだが、私は絵なんてこれっぽっちも得意じゃないのに、その作業に携わっている。
理由は簡単だ。菜由が私を半ば強引に巻き込んだのである。ねーやろうよー絶対楽しいって……などと延々ダル絡みされて、私もついに折れてしまった。
なお、私が初めて菜由と物理的に衝突したあの日の休み時間、菜由は他の友達から「トイレットペーパーが無い」とSOSコールをもらって、トイレに急行していたらしい。私は彼女のせいでトイレに行けなかったというのに、なんと因果なことだろう。
そんな気持ちもあったから、誘いを受けた直後の私が拒否反応をおぼえるのは、当たり前の話だった。
「あなたの〝楽しい〟は信用ならない」
「ひっどいなあ。まあまあお姉さん、一度試してみたら癖になりますって」
詐欺師のような台詞だった。
でも、菜由は私がひどい絵を描いて、他の子から馬鹿にされるのを楽しもうとしているわけではなさそうだ。直感でそう思っただけだけれど。
それに、実際に作業へ加わってみると、たとえ絵がうまくなくても意外と作業へ没頭できることに気づいた。もともとコツコツと積み重ねることが性に合うタイプだという自覚もあったが、私はそのうち、隣でああだこうだと楽しそうに一人で喋っている菜由を差し置いて、ひたすらに筆を走らせていた。
「里英ちゃん、あんなに自分のことコテンパンに言ってたのに、普通にうまいやん」
「そうかな。私、自分の描いた絵を他人に見られたのは初めてだよ」
「そうだって! だって見てみ? あたしなんてこのザマよ」
へらへらしながら菜由が指差したのは、お世辞にも上手とは言えないような絵。きっと、それでも周りのクラスメイトたちは「ソンナコトナイヨ」と言ってあげるはずだ。但し私は、そこまで配慮できるほど人間ができていない。
「ありがとう、堂本さん」
「はぇ?」
「なんだか少し、自信がついた」
菜由は「いやいやいや! ひどない!?」と愉快そうに笑っている。相変わらず声の大きな子だ……と思った瞬間、私は自分の口元がわずかに緩んでいることに気がついた。
菜由の明るさに押されて、私がいつも引き結んでいた唇の張力が弱まっていく。やがては揺れはじめる。強い風に煽られた垂れ幕のように抗いがたく、為すすべもなく。
でも、菜由ではない他の子に同じことを言われていたら、どうだっただろう。今ほどに心が揺れる感覚をおぼえただろうか。
おそらく、そうはならなかったはずだ。悔しいけれど、きっと私は「堂本菜由に褒められたこと」に対して喜びを感じているから。打算や計算を孕んでいない、純粋な彼女の言葉が、私の心をかき乱しているから。
ただ。
「堂本さん」
「んー?」
「もう少し、脚を閉じた方がいいと思う」
向かい側からスカートの中が丸見えになっていることに気づいて「ぎゃあ」と絶叫する菜由と、再び絵を描くことに集中し始めた私のコントラストが、他のクラスメイトたちにはよくウケているらしい。どうでもいいけれど。
★
翌日も、例によって垂れ幕の製作が続く。私のクラスは比較的進捗が良いみたいで、この調子で行けば、少なくとも同学年六クラスの中で一番に完成できそうな領域までたどり着いている。
掃除当番を終え、作業部屋である美術室へ向かう途中の廊下で、私は菜由が他のクラスの女子に呼び止められているところを見かけた。
「ねえ菜由。久々にさ、この後カラオケ行かない?」
「あーごめん。今日は作業あるんよね」
「作業? 誰とさ」
「里英ちゃんと」
一瞬、心臓を鷲掴みされたような感覚に陥った。最近は菜由が絡んでくるようになって、ようやくクラス内でも私の苗字がたまに聞こえる程度にはなったけれど、他クラスの子が私の名前なんて覚えているはずがない。私は所詮、明るい場所を歩くことなど許されぬ、路傍の石みたいな存在。それを今更思い知らされたくはない。
――と思ったところで、ふと考えた。いま、菜由はなんと言ったか。
作業がある。里英ちゃんと。
菜由は自分の予定に、山下里英というクラスメイトを組み込んでくれている。具体的な個人名まで添えてくれているのが、その証だ。
今の私に、それ以上の何が必要だというのか。他の誰も気づいてくれなくたって、菜由だけは私を見てくれている。そう思えば、そんな子いたっけ……と隣のあの子から仮に言われたとて、恐ろしくはない。私は彼女に認知されているという事実に安堵する。なんなら私だってあの子のことは知らないし――。
一気に自信に満ち溢れたかに思えたが、次の瞬間、私は菜由の隣にいるあの子が「えーなになに、妬けるやん」と笑いながら、さも当然のように菜由に腕を絡ませるのを目撃してしまった。上には上がいる。井の中の蛙。裸の王様。目にも留まらぬ速さで様々な慣用句が走馬灯のように駆け巡っていく。
今の私では、あの子のようにはなれない。
なにより不快だったのは、菜由が「だぁーもう、妬かなくていいんだって、離せってばぁ!」と言いつつも、満更でもない笑顔でその子にじゃれついていたことだった。
私は彼女の恋人でもなければ、親でもきょうだいでもない。
なのに、どうしてこんなに腹が立つのだろう。そもそも、何に対して――?
その後、何事もなかったかのように菜由と美術室で合流して、いざ作業に入ってからも、答えは出ないままだった。
「里英ちゃん、なんか嫌なことでもあったん?」
菜由はいつも基本的に、話す相手との距離が近い。対象に男女の別はなくて、それで何人もの男子を勘違いさせてきたような話も小耳に挟んだけれど、女子に対しては尚更距離が近かった。今も、肩が触れ合いそうな距離に身を寄せてきて、私が半ばやけくそに撫でつける筆先を見つめている。
私がにべもなく「別に」と言い放っても、菜由は引き下がろうとしない。
「またまたぁ」
「何もないよ」
「何もない人の絵のタッチじゃないやん。芸術は爆発だー、とでも言いたげだよ?」
へへへへ……と菜由はその後もいつも通り、私に終始明るく接してきた。
けれども、今日の私の胸に差した翳りは消し去れなかった。それもそのはずだ。
光が強く差すほど、闇は同じだけ濃さを増す。
その事実に、光源そのものである彼女が気づくことなど、不可能だったから。
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