第2話:寄宿舎の掟と、不敬を裁くマシュマロの眼光

1.浄土の残照と、硝煙の記憶


 黎明の光が、名門・聖ルミナス女学院の寄宿舎「白亜館」の尖塔を淡く、しかし厳かに染め上げていく。石造りの壁を這う蔦は朝露に濡れ、冷え切った空気の中には、どこか厳粛な祈りのような静寂が満ちていた。


 かつて、新宿の夜を漆黒の闇と硝煙、そして暴力の鉄則で支配した天堂組の若頭、鬼崎剛。現在は身長140cmの、どこからどう見ても愛くるしい「もちもち」とした少女、ニーナとして生きるその魂は、今、極道時代よりも遥かに厳格な、そして甘美な回想の海に深く沈んでいた。


 瞼を閉じれば、昨日の放課後の情景が、1コマ1コマのスローモーションとなって脳裏に鮮明に再生される。


 温室。そこは湿った土の生命力と、百合の花の芳香が混じり合う、この腐りきった現世における唯一の浄土であった。


 鉢植えの影。ニーナはそこに、かつて敵対組織の幹部を暗殺するために潜んだ時以上の、異常なまでの隠密性をもって身を潜めていた。かつてはドスやチャカを手にしていたその掌は、今はただ、尊き光景を網膜というフィルムに焼き付けるためだけに存在している。


 その視線の先にあったのは、世界で最も尊く、気高い二人の姿だ。


 サヨ姐さんが、慈愛に満ちた手付きで白いバラのトゲを落とす。その横で、金髪の悪役令嬢・ルナ姐さんが「……見ていられないわ。そんな手つきじゃ、トゲに刺されて指が真っ赤になってしまうじゃない」と、不器用に、しかし誰よりも繊細な仕草で手伝う光景。


 ルナ姐さんの象徴たる黄金のツインテールが、夕陽を浴びて絹糸のような輝きを放ち、サヨ姐さんの柔和な横顔にわずかな影を落とす。触れ合うか触れ合わないかという、数ミリの絶望的な、しかし希望に満ちた指先の距離感。


「……あぁっ、これや。この『不器用な優しさ』と、それを全て包み込む聖女の慈愛。これこそがサヨルナの真髄や」


 ニーナは己の魂が限界まで圧縮され、宇宙の特異点へと昇華する感覚を覚えていた。


 かつて、若頭に昇進したばかりの頃――対立組織との大規模な抗争の最中、ニーナ(鬼崎)は腹を深く刺され、降りしきる雨の夜、場末の安アパートに潜伏していたことがあった。


 傷口を塞ぐ医療キットもなく、ただ古いタオルを噛み締めて痛みに耐えるだけの夜。裏切りが日常茶飯事の泥沼の中で、明日をも知れぬ命を繋いでいたのは、スマホの画面の中でだけ笑う「サヨとルナの食事シーン」だった。


 画面の中でルナがサヨに差し出した一切れのケーキ。その些細な「分け合い」が、血の匂いにまみれた鬼崎にとっては、どんな高級な酒よりも、どんな権力の盃よりも尊かった。


「……あの時、ルナ姐さんがサヨ姐さんに差し出した一切れのケーキが、ワイにとってはどんな高級な酒よりも、どんな手柄よりも尊かった。あの画面の光がなかったら、ワイはあの夜、ただの人斬りとして魂まで死んどったんや」


「……サヨ姐さんは光、ルナ姐さんはその光を反射する鏡。二人が揃って初めて、この地獄のような現世に救いが生まれるんや」


 その「救い」が今、物理的な現実として目の前にある。ニーナは身を切るような感謝と共に、深々と嘆息した。



 ◇



2.もちもちの受難と、カタギへの仁義


 しかし、回想という名の桃源郷から引き戻される瞬間は、常に残酷な肉体の現実と共に訪れる。


「……なんや、この布。今日も今日とてワイを舐めとるんか」


 寄宿舎の自室、全身鏡の前で、ニーナは己の「もちもち」とした指先を呪っていた。


 セーラー服のスカーフ留め。シルクの滑らかな布地が、丸っこい白玉団子のような指先を嘲笑うかのように、するりと逃げていく。


 鬼崎剛として生きていた頃、組の看板を背負い、ネクタイの結び目一つで30人の部下の背筋を正させた男が、今や一本の布切れに「カチコミ」をかけられ、敗北寸前に追い込まれているのだ。


「おいスカーフ、ワレ。大人しくせぇ言うとんのが分からんのか。……三秒や。三秒以内に綺麗に収まらな、雑巾にしてそこらの床磨きにしたるからな」


 前髪の隙間から放たれる眼光は、鏡の向こうの自分自身を射貫くほどに鋭い。内面から漏れ出る「若頭の殺気」は、平和な寄宿舎の空気を切り裂くドスそのものだった。


 その殺気に当てられた同室のモブ少女、ルルが、ベッドの中でガタガタと震え、毛布を頭から被った。 「キ、キザキさん……朝から、誰と、戦ってるの……? 怖いよぉ……」


 ルルの啜り泣きに近い声を聞いた瞬間、ニーナの心臓が「ひっ」と跳ねた。


(……いかん。カタギを怯えさせるんは、ヤクザ以前に、漢としてのクズや。新宿の犬ですらやらん外道な真似を……!)


 ニーナは即座に表情をマイルドに(ニーナ基準では。実際には凄みが消えただけだが)戻すと、鏡の前から「ぽてぽて」と歩み寄り、膝をついてルルと同じ目線に腰を落とした。


「……悪いな、ルル。喉の調子がちょっとアレやったんや。……ほら、これ。朝の気付け薬や。食べて元気出し」


 ニーナが懐から取り出したのは、昨日売店で仕入れたばかりの、宝石のように美しい色とりどりの金平糖だった。


「……えっ。あ、ありがとう……ニーナちゃん。これ、昨日完売してたやつ……」


 ルルの目に宿っていた恐怖が、困惑と、そしてわずかな好奇心へと変わる。


「おう。甘いもん食えば、大抵のことはどうでもようなるもんや。……ワイのことは気にせんでええ。二度と変な声は出さん。カタギに顔向けできんような真似は、死んでもせんのがワイのポリシーやからな」


 ニーナはもちもちした頬を少しだけ緩め、ルルの頭を不器用に一度だけ撫でると、そのまま「ぽてぽて」と部屋を出た。ルルの背後に「……実は、すごく優しい子なのかな?」という淡い信頼の芽を残して。



 ◇



3.売店のおばちゃんとの「闇の朝礼」


 食堂へ向かう前、ニーナには寄宿舎における重要な「挨拶回り」があった。


 購買部のカウンター。そこの売店を取り仕切るおばちゃんは、ニーナにとって「情報のプロ」だ。かつて新宿の喫茶店で耳をそばだて、組の動向を探っていた頃の経験が、この平和な学院生活でも遺憾なく発揮されていた。


「おばちゃん、ご苦労さん」


 ニーナは昨日入手した、限定高級スイーツの引換券を、極道の上納金を納めるかのような無駄のない所作でカウンターへ置いた。


「あらニーナちゃん。いつも律儀ね。……あら、腰? そうなのよ、最近痛くて」


「おばちゃん、それは冷やしすぎや。風呂上がりにこのツボを押すとええ。あと、この湿布はワイのいた組……やなくて、知り合いの医者が推奨しとったやつや。使い。体、大事にせな」


 おばちゃんの愚痴を親身に聞き、適切な医療知識(抗争時の応急処置の応用)を伝授する。これもまた、カタギとの良好な関係を築くための「仁義」である。


「助かるわぁ。……そうそう、ニーナちゃん。今朝、あそこのグループの子たちがね、タバスコを大量に買っていったわよ。サヨちゃんのポタージュにいたずらする気みたい」


「……おおきにな、おばちゃん。恩に着るわ」


 一瞬でニーナの眼光が零下まで下がる。聖域の食事を汚す不届き者。それは、ニーナにとって万死に値する「不敬」であり、カチコミの正当な理由であった。


「……聖域のメシを汚す奴は、ワイが胃袋ごと東京湾に沈めたる。それが百合ゲーオタクの仁義や」



 ◇



4.食堂のシノギ、不完全なポケット凄み


 食堂の裏、配膳室へと続く薄暗い廊下。そこでは、昨日ニーナに詰め寄った取り巻きの少女たちが、小瓶を手に卑劣な作戦を練っていた。


「サヨのポタージュ、これ全部入れたら真っ赤になるわね。どんな顔して飲むかしら」


「ルナ様に見捨てられる瞬間が楽しみねw。あんな田舎臭い聖女、消えちゃえばいいのよ」


 下卑た笑い声が、廊下に響く。


 その瞬間、影が伸びた。140cmの、しかし10tトラックに匹敵する威圧感を纏った影だ。


「……おい。朝からそんな景気のええもん用意して、誰の『喉』を焼くつもりや?」


 三下の少女たちが悲鳴を上げそうになるのを、ニーナの視線が制圧した。


 ニーナは漆黒のセーラー服のポケットに、両手を深く突っ込んでいた。肩を落とし、顎を引き、相手の喉元を食い破るような、極道が最も恐れる「いつもの構え」。


 ――だが、悲しいかな。ニーナの腕は短く、もちもちしすぎている。


 実際には、ポケットの底に指先すら届いておらず、ただ無理やり布を下に引っ張っているだけという、身体的な限界に直面していた。


(……くっ、この服、ワイの腕の長さを計算に入れとらんのか。指先しか入らん。……肩が凝るわ! 早くビビって逃げぇや!)


 内側ではそんな悲痛な叫びを上げつつも、外側では「不自然なほど動かないポケットの中の手」が、三下たちの恐怖を煽る。


「……そのポケットの中……何を隠してるの……!? 武器じゃないでしょうね!?」


「何が入っとるかは、地獄で仏さんに聞けや。……3秒や。3秒以内にその小瓶を置いて消えな。さもなきゃ、あんたらを椅子に縛りつけて、『喉』焼いたるからな。……3」


 新宿を震え上がらせた「鬼面」の眼光が、前髪の隙間から一閃。


 三下たちは腰を抜かし、タバスコの瓶を床に叩きつけて、文字通り脱兎のごとく敗走した。


「……ふぅ。やれやれ、スカートでの凄みは効率が悪うていかんわ。重心が安定せん」


 ニーナは指先しか入っていなかった手をポケットから抜き、しびれた肩を回した。



 ◇



5.シノノアの衝撃、極妻の器


 しかし、不穏な足音はまだ止まらない。


 背後から、凍てつくような冷徹な声がニーナを呼び止めた。


「……貴女、さっきから不審な動きをしているわね。何者かしら?」


 振り返るとそこには、紺色の長い髪を夜の帳のようにたなびかせた、氷の美少女が立っていた。


 天才美少女、シノ。


 ニーナの脳内HDDが爆速で回転し、オタク知識という名の「勢力図」を弾き出す。


(……出たな! 紺色の死神こと、シノ姐さんや! ワイの最推しはサヨルナやが、このシノ姐さんと、彼女を『シノちゃん』と呼んで唯一振り回せる天然癒やし系のノア姐さんの『シノノア』カプも、ワイの中では『神の二番手』として盃を交わしとるんや……!)


 シノの切れ長の瞳が、ニーナを射抜く。


「貴女、さっきからノアの周囲を異様な目付きで凝視していたようだけど。……私のノアに何かするつもり?」


 シノは、ニーナが三下を監視していた鋭い視線を、ノアを狙う不審者のものだと完全に勘違いし、その独占欲を爆発させていた。


(……おいおい、シノ姐さん。その『ワイの女に手を出すな』と言わんばかりの気迫、まさに極妻ごくづまの器やで。……本物や。シノノア、本物やんけ!)


 ニーナは尋問されているにもかかわらず、そのカプの「解釈の一致」に感動して打ち震えていた。


 極道の世界での「執着」は、常に裏切りや死と隣り合わせだった。信頼していた兄弟分に背中を撃たれ、孤独な闇の中で死を覚悟した夜。誰も信じられず、己の影にすら怯えていたあの頃の鬼崎にとって、ゲームの中でシノがノアに対して見せる、狂気的ですらある「純粋な執着」は、救いそのものだった。


「……シノ姐さんの執着は、血の匂いがせん。それは相手を生かすための、魂の結び目や。裏切りが当然の世界で、ここまで一途に誰かを想えるのは、奇跡やで。ワイらみたいな『いつ死ぬか分からん泥沼』におるモンにとって、その一途さは眩しすぎて直視できんかったんや」


「何、震えているの……? 不気味な子ね」


 まるで汚物でも見るかのような瞳でこちらを見てくるシノ姐さん。今日も通常運転やな。


「……いや。姐さんの独占欲が、あまりにも『筋』が通っとると思ってな。感心しとったんや。ええシノギ(絡み)しとるわ、ほんま」


 そこへ、「シノちゃーん! 朝ごはん行きましょう?」とノアが駆け寄り、シノが瞬時に『負け顔』になるのを網膜に刻む。


 シノにマークされつつも、ニーナは「ええもん見せてもろた」と心の中で合掌した。



 ◇



6.聖域の朝食、後方腕組みの真髄


 さて、ここからが本番である。


 ニーナは食堂に到着すると、目立たぬよう柱の影を「ぽてぽて」と移動し、最奥の席を確保した。


 そこは、サヨ姐さんとルナ姐さんのテーブルを真後ろから拝める、ニーナが名付けた「聖域の後方腕組み席」。


 三下どもを沈めたおかげで、サヨ姐さんの前のポタージュは、純白の輝きを保っている。


「……サヨ。これ、昨夜食べ損ねた最高級のクッキーよ。湿気る前に食べなさいよね! 貴女が可哀想だから、わけてあげるのよ! 別に、貴女のために買ったわけじゃないんだからねっ!」


 ルナ姐さんが、顔を真っ赤に染め、黄金のツインテールをバサバサと振り乱しながら、小箱を乱暴に(しかし壊さないように)サヨ姐さんの前に突き出した。


 サヨ姐さんは、その箱を受け取ると、慈母のような微笑みを湛えた。


「ルナ様、今日もありがとうございます。ふふ、まだ温かいですね。わざわざ今朝、買いに行ってくださったのでしょう?」


「な、ななな……何言ってるのよ! 余り物だって言ってるでしょ! この、天然聖女!」


 ツインテールが、動揺に合わせて左右に激しくスイングする。その軌道は、ニーナの目には最高級の弾道を描く芸術作品に映った。


 ニーナは柱の影で、短すぎる腕を必死に胸の前で交差させ、己のアイデンティティたる「後方腕組み」を完遂した。腕が回らず、実際には胸の下で手が遊んでいるような状態だが、ニーナの精神は完全に「見守る壁」と化していた。


(……これや。この『嘘のつき方が下手な金髪ツインテ』と『全て分かってて微笑む聖女』。そしてタバスコの汚染から守り抜いた純白のスープ……。これがワイの生きてる証や。これを見るためなら、ワイ、何百回でも生まれ変わるで……!)


 食堂には、二人の尊い会話が花のように咲き乱れている。サヨルナは王道の光を放ち、少し離れた席ではシノ姐さんが甲斐甲斐しくノア姐さんの口元を拭いている。


(……ワイが守りたかったんは、この『静寂』なんや。チャカの音も、怒号も聞こえん、ただポタージュを啜る音だけが響くこの世界。これがワイの、最後のシノギ(推し活)や)


 新宿の喧騒では決して得られなかった「平和」が、このもちもちした体で、今、守り抜かれた。ニーナは満足げに、しかし誰にも見られぬよう、もちもちした頬を緩めた。


「サヨ姐さんはルナ姐さんと。シノ姐さんはノア姐さんと。……全カプを定位置(極楽)へ。不敬な輩はワイがこの手で更地にする。それが不肖ニーナ、鬼崎剛の仁義や」


 満足の朝食を終え、ニーナは再び「ぽてぽて」と歩み出した。


 背後では、「あのチビ、三下を瞬殺したらしい」


「シノ様を震え上がらせた裏ボスよ」という不名誉極まる噂が広まっていくが、ニーナは気にも留めない。


 廊下で会ったルルが、「ニーナちゃん、今朝はお菓子、ありがとう。……また、お話しできるかな?」と小さな声で言った。


 ニーナは「……おう」と短く返し、前髪の下で、カタギに顔向けできる人生の喜びを、静かに噛み締めるのだった。サヨルナ、シノノア。この二大看板の「盃」を守り抜くため、ニーナの戦いはこれからも続く。


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極道の若頭(35)、百合ゲーのモブに転生して推しカプを後方腕組みで見守る 駄駄駄(ダダダ) @dadada_dayo

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