第2話 鼠たちの狂宴
神凪村(かんなぎむら)は、深い山々に飲み込まれるようにして存在していた。外界とはほぼ隔絶されたこの辺境に辿り着くまで、私は相当な労力を費やす羽目になった。
(……冴島さんは、一体どこからこんな場所の怪異を嗅ぎつけてくるのかしら)
心の中で毒づきながら、私は名もなき小さな村へと足を踏み入れた。
村人たちは互いに顔見知りなのだろう。見慣れない顔、そして場違いな私の格好は、瞬く間に無数の視線を集めた。
あちこちで聞こえる低い囁きや、好奇の目。だが、私はそんなものを気にする余裕はなかった。手元の『探鬼羅針(たんきらしん)』に意識を集中させる。磁針はまるで出口を失った羽虫のように、激しく、かつ不規則に振り切れていた。
村の至る所で怨気が交差している。悪霊が各地で暴れ回り、陰気が四散している証拠だ。これでは羅針盤がまともに機能しない。
だが、そんなことは予想の範疇だった。鬼が猟師を大人しく待っているはずがない。羅針盤を取り出したのは、あくまでこの場所に『異質』が実在することを確認するためだ。
私は右手の親指と中指を重ね、古の呪文を低く唱える。
途端に、鎖骨の邪神の印が肌の下で蠢いた。
先ほどまで狂ったように揺れていた磁針が、ピタリと止まる。そして私にしか見えない一本の『黒い糸』が羅針盤の先から伸び、村の深奥を指し示した。
その先にあるのは、現在もっとも怨気が濃い場所。恐らくは、奴が最後に獲物を仕留めた地点だ。
私が迷いなく歩き出すと、村人たちの目に恐怖と動揺が走った。
まるで沸騰した鍋のように村がざわつき始める。私を止めようとする者もいたが、彼らは言葉を発する前に、何らかの根源的な恐怖に押し潰されたように口を噤んだ。
「……早く村長に知らせろ!」
一人の低い声を皮切りに、村人たちは蜘蛛の子を散らすように村長の家へと走り去った。先導者を求めて縋り付くような、無様な逃走劇。
私は彼らに一瞥もくれず、ただ黒い糸を追った。その反応は、ここにあるものが本物の『鬼』であることを確信させるに十分だった。
やがて、埃を被ったあの朱塗りの大門が姿を現した。
門枠に残された破れかけの『喜』の字が、ひどく目に刺さる。長い間、誰もこの場所を訪れなかったことを物語っていた。
私は黒傘の柄を強く握り、不測の事態に備える。
迷いはなかった。右足に力を込め、大門を力一杯蹴り飛ばす。
——バァン!
門は呆気なく開いた。だが、予想していた襲撃はない。
広がっていたのは、耳が痛くなるほどの静寂。人っ子一人いない庭には、肌を刺すような冷気だけが淀んでいた。
私は傘の柄を掴んだまま、鞘となっている傘の中から古の符文が刻まれた長刀を音もなく引き抜いた。鞘を腰に固定し、慎重に歩を進める。
そして、家屋の木戸を再び蹴り破った。
目の前には、完全な暗闇。
まとわりつく空気は重い網のように、私の胸を圧迫する。
だが、私の灰青色の瞳はすでに闇に馴染んでいた。躊躇なく踏み出す一歩が、凍てついた床に反響する。
刹那。
静寂を引き裂いたのは、耳を刺すような祭囃子(まつりばやし)の音だった。
高く、そして歪にねじれた旋律。祝祭の調べを装った、吐き気を催すような音色だ。
私は足を止め、刀の柄をさらに強く握りしめた。
暗闇の中で、判別もつかない無数の影が蠢き始めた。
「……っ」
息を呑む。視線の先に現れたのは、影から這い出してきた数えきれないほどの『鼠(ねずみ)』の群れだった。
毛は抜け落ちて腐り、その紅い瞳にはどろりとした悪意が宿っている。
驚くべきは、その姿だ。
鼠たちは一匹残らず、血に染まった小さな『花嫁衣裳』を纏っていた。鮮烈な赤が闇の中で不気味に浮かび上がる。彼らは鋭い牙を剥き出しにし、重なり合う二具の遺体へと群がって、その肉を貪っていた。
遺体はすでに腐敗が進み、見る影もない。だが、赤い嫁入り衣装を着た女の死体だけは判別できた。空洞になった瞳を見開き、まるで私に救いを求めているかのようだ。だが、その顔はすでに死の腐敗に侵食され、剥き出しになった血肉から耐えがたい腐臭を放っている。
鼠たちは死体の上を跳ね回り、肉の一片一片を食いちぎる。その咀嚼音に合わせて、どこからか歪んだ祭囃子の音が響く。まるでこのおぞましい婚礼にリズムを刻んでいるかのように。
怪異の調べと、肉を断つ音が混じり合い、闇の中で狂気的な楽章を奏でる。高く、低く、耳の奥まで侵食してくるその旋律に、心臓が凍りつくような感覚を覚えた。
不意に、一匹の鼠が顔を上げた。
紅い瞳がじっと私を射抜く。それは言葉にできないほどの悪意に満ちた、品定めをするような視線だった。
それを合図に、他の鼠たちも次々と顔を上げる。死体の山を取り囲む闇の中で、無数の紅い光がまたたき始めた。彼らは口を僅かに開き、鋭い牙を覗かせながら、低い唸り声を上げる。まるで命令を待つ兵士のように。
刹那。
影の中から一際巨大な赤目の鼠が、稲妻のような速さで飛び出してきた。
狙いは私の背後。鋭い爪を立て、血色の牙を剥き出しにして肉薄する。
だが、私の感覚はすでにその危機を捉えていた。
反射的に身を翻す。それと同時に、刀身が空を切り、冷たい一閃を描いた。
長刀は容赦なく鼠の体を迎え撃ち、その肉を鮮やかに両断する。
飛び散る鮮血。裂けた傷口から内臓が噴き出し、腥い血の塊が重い音を立てて床に転がった。
ピタリと、咀嚼音が止まる。
空洞のような闇の中から、底知れない怨念と飢えを孕んだ視線が私に集中した。
私は慌てない。懐から一枚の呪符を取り出し、指先で火を灯した。
爆ぜる焔が天へと昇り、周囲の陰気を一時的に焼き払う。
「……炎の味はどうかしら?」
私の声は、氷のように冷たく響く。
長刀を軽く構え直すと、鎖骨の印が歓喜に震えるように激しく脈動し始めた。この呪いもまた、獲物を待ちわびているのだ。
鼠たちがたじろぐ。火の光と私の気圧に押され、彼らの動きに迷いが生じた。急き立てるような祭囃子の音が焦燥を煽り、爪が床を擦る音が不快に響く。
私はその醜悪な怪物たちを、冷めた眼差しで見下ろした。
呪符を四方に振るえば、流星のような火の粉が闇を照らし、おぞましい鼠たちを追い散らしていく。
私は腰を落とし、微かな光を頼りに目の前の遺体を観察した。
新婚の夫婦だったのだろう。ボロボロになった婚礼衣装が痛々しい。心臓は抉り取られ、顔面は骨が見えるまで食い荒らされている。
怨霊の憎しみはこれほどまでに深いのか。死してなお、彼らを解放するつもりはないらしい。
けれど——。
怨霊が殺める者が、必ずしも真の仇とは限らない。理性を失った怪異は、歪んだ論理に従って無実の人間を復仇の犠牲者に仕立て上げる。
私はその惨状を見つめ、胸の奥をかすめる悲しみを覚えた。
何度も見てきた光景。けれど、こればかりはどうしても慣れることができない。
私はさらに二枚の呪符を取り出し、静かに投げ下ろした。
宙で燃え上がった火は、花びらのように二人の遺体へと舞い落ちる。
烈火が亡骸を包み込み、魂を縛っていた怨念を清めていく。
「……せめて、安らかに眠りなさい」
橙色の炎に照らされて、私の影が孤独に揺れる。
それはまるで、私の魂もまた、この闇の中で一緒に燃えているかのようだった。
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