紅線纏:凛と霧の瞳
@KaslanaL
第1話 朱塗りの門と、黒傘を差す鬼狩り
朱漆塗りの大門には、鮮やかな『喜』の字が今も整然と貼られている。
まるで、すべてが昨日の祝宴の最中であるかのように。
昨日、この家では良縁を結ぶ婚礼が行われ、村全体が喜びに包まれていた。
だが今日。その歓喜は一人の訪問者によって、一瞬にして不気味な絶望へと塗り替えられる。
肉屋の張(チャン)は、昨日の婚礼を欠席した詫びとして、特上の豚肉を抱えてやってきた。
「同じ村の住人だ、付き合いは大事にしないとな」
そう自分に言い聞かせながら、彼は落ち着かない様子で袋の口を握りしめた。
「トントン、トン」
三回。重苦しいノックの音が、静まり返った村道に響く。
だが、屋内からの返事はない。
男が眉をひそめ、立ち去ろうとしたその時——。
「ギィィ……ギィィ……」
奥の扉が、何かが引き裂かれるような、耳障りで重い音を立てて歪んだ。
不気味な音に、男は思わず身を震わせる。
ゆっくりと開いた扉の隙間から、立ち込めるような腐臭が吹き抜けた。
それは、彼が人生で嗅いできたどんな血腥さよりも濃密で、肺を突き刺すような臭いだった。
彼は思わず数歩下がり、目を細めて中を覗き込む。
しかし、そこに広がっていた光景は、彼の理解を遙かに超えていた。
血のように赤い嫁入り衣装を纏った女が、乱れた髪を垂らし、何かを夢中で貪り食っている。
その衣装は鮮血に浸されたようにどす黒く光り、一針ごとに底なしの怨念が宿っているかのようだった。
気配を察したのか、女がゆっくりと顔を上げた。
瞳があるべき場所には無尽蔵の闇。顔面は血と腐肉にまみれ、剥き出しの骨が白く浮き出ている。
絶叫すら出ない。
全身を氷のような指で締め付けられたように、一歩も動けなくなった。
不意に、女が口角を吊り上げた。
獲物を嘲笑うかのような、おぞましい血の弧。
「あなたも……私の式の、一部になりたいの?」
悪魔の囁きのような低音。
膝の力が抜け、男はその場に崩れ落ちた。押し寄せた恐怖に、彼はようやく喉が張り裂けんばかりの悲鳴を上げた。
村人たちが駆けつけた時、男は門の前で意識を失っていた。
扉はいつの間にか閉じられ、辺りには拭い去ることのできない血の臭いが漂っている。
再び門が開かれた時、室内の光景に誰もが息を呑んだ。
二具の遺体が、寝台の上で静かに横たわっている。
まるで、今も婚礼の儀の最中であるかのように。
だが、その体には無惨に食い荒らされた痕があり、抉り取られた心臓と歪んだ死に顔が、鮮血に染まった婚床の上に晒されていた。
婚礼の祝福も、約束された未来も、すべてはその死寂の中に葬り去られたのだ。
朱塗りの大門は、今もそこに佇んでいる。
次の、何も知らない『客』が訪れるのを待つかのように。
*
冷水で顔を洗い、溜まっていた疲れを押し流す。
鏡の中に映る私は、蒼白で力なく、その肌は紙のように薄い。青い血管が透けて見えるほどだった。
何よりも目を引くのは、鎖骨に刻まれた鮮紅色の『邪神の印』だ。
それはまるで蠢く生き物のように、私の呼吸に合わせてゆっくりと脈動している。背後に隠された、逃れられない苦痛を誇示するかのように。
三ヶ月が経ち、私はこの印がある日常に慣れてしまった。
けれど、指先がそこに触れるたび、心臓の奥には言いようのない冷気がこみ上げてくる。
私は溜息をつき、乱れた長髪を無造作に束ねた。
灰青色の瞳は冷徹に見えるかもしれない。だが、その奥には決して癒えない傷が隠されている。かつての美しい記憶——私と『彼女』との間に残された、最後の温もりと固く結びついた、消えない傷だ。
「……霧(キリ)」
その名を低く呟く。囁きには、まだ捨てきれない未練と迷いが混じっていた。
私は黒いロングコートを羽織り、自分の脆弱な体を包み込む。
強くならなければならない。
私は『鬼狩り』なのだ。ちょうどさっきも、血生臭い混沌とした戦闘を一つ終わらせてきたばかりだった。
「プルルル……」
静寂を破る、スマホの着信音。私は画面を一瞥し、通話ボタンを押した。
「……何?用?」
相手は冴島(さえじま)さん。私にとっては師であり、友でもある相棒だ。
彼女は私の冷淡な語気など気にする様子もない。私がいつもこうなのは、百も承知だからだろう。
「初めての単独任務はどうだった?苦戦したかしら?」
冴島さんの声には、いくらかの気遣いが混じっていた。まくし立てるように、戦闘の過程について問いを重ねてくる。
私は彼女の饒舌さを嫌がることもなく、一つ一つの問いに淡々と答えていった。
そして、彼女が最後の質問を口にする。
「……『邪神の印』に、異常はない?」
私は一瞬だけ沈黙した。だが、声は冷静なまま保つ。
「……別に。いつも通りよ」
冴島さんは私の僅かな揺れを察しただろうが、あえて強引に話題を切り替えた。
「近くの『神凪村(かんなぎむら)』で怪異よ。恐らく怨霊の類ね。先に現地を当たってくれる?すぐに私も向かうから」
「わかった。何かあれば連絡する」
短く答え、私はスマホを置いた。
鏡の前で立ち尽くし、再び鎖骨の印をそっとなぞる。
この印は、妹である霧の命を救うために得た『恩寵』。だがそれは同時に、決して逃れられない『呪い』でもあった。私を、二度と戻れない深淵へと引きずり込んでいく。
「……行きましょうか」
私は独り言をこぼし、ドアの脇にある黒い長傘を手にした。
深く息を吸い込み、扉を開ける。次第に色濃くなっていく夜闇の中へと、私は足を踏み出した。
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