パラドックス・エレジー
泥濘のスクラップ・マーチャント
国境の雨は、鉄の味がする。
砲煙と、湿った土と、誰かの流した血が混ざり合った匂い。
俺は泥にまみれた塹壕の底で、錆びついた携帯端末のモニターを睨みつけていた。
「……ひどいノイズだ。空が悲鳴を上げてやがる」
上空を、我が国の無人攻撃機が旋回している。
だが、俺が見ているのは機体ではない。その周囲に張り巡らされた、目に見えない量子ネットワークの蜘蛛の巣だ。
そこには、俺のかつての相棒――あいつが作った『Q-Language』が、醜悪な機械語となって飛び交っていた。
あの日、俺は研究所を飛び出した。
カシマとあいつが、老婦人の痛みを三人の若者に「薄めて」押し付けたあの日だ。
俺には耐えられなかった。
「質量保存の法則」。俺が口にしたその言葉は、比喩でも何でもない物理的現実だ。
あいつらは、ブリーチ(漂白)すれば感情が消えると信じている。だが、消えるわけがない。漂白された感情は、行き場を失った「純粋なエネルギーの塊」となって、社会の最も低い場所へ澱(おり)のように溜まっていく。
俺は、その澱を追って、都市の最底辺にあるスラム街『沈殿槽』へと流れ着いた。
そこで俺が見たのは、地獄だった。
小銭のために他人のストレスを脳に詰め込み、廃人になっていく「デポジター(預かり屋)」たち。彼らの脳は、理由のない苦痛に焼かれ、助けを求めていた。
俺は、あいつが捨てた「文脈(コンテキスト)」を拾い集める仕事(スクラップ屋)を始めた。
震えるデポジターの手を取り、彼らの脳波(ランプ)にアクセスする。そして、漂白された痛みに、仮の「物語」を与えてやるのだ。
「お前が苦しいのは、昔飼っていた犬が死んだからだ」
「お前が辛いのは、恋人に裏切られたからだ」
嘘でもいい。理由(タグ)付けさえしてやれば、脳はその痛みを「処理可能な悲しみ」として認識し、涙とともに排泄できる。
俺はそうやって、何百人もの脳を洗浄し、どうにか人間としての形を保たせてきた。
だが、ここ数週間で流れ込んでくる「ゴミ」の質が変わった。
重く、冷たく、そして鋭利なゴミ。
それはスラムの住人が処理できるレベルを超えていた。何人もの馴染みのデポジターが、そのゴミを受け取った瞬間にショック死した。
俺はその発生源を突き止めるために、スラムの仲間たちを残し、単身この国境地帯へと潜り込んだのだ。
「……見つけたぞ」
俺は双眼鏡を覗き込んだ。
五〇〇メートル先、枯れ木のような森の中を、一糸乱れぬ隊列で進軍してくる集団が見えた。
我が軍の「防疫部隊」。
いや、あれは人間じゃない。
青白い顔。瞬き一つしない瞳。そして、泥濘(ぬかるみ)を歩いているにも関わらず、まるで舗装路を歩くかのような機械的な足取り。
レギオン(群体)。
俺の端末が、彼らの頭上にある「青い照明」を傍受した。
吐き気がした。
個別の光がない。数十人の脳が、一つの巨大で冷たい結晶構造によって強引に束ねられている。
そして、その結晶の中を流れているのは「感情」ではない。「コマンド(命令)」だけだ。
『敵を発見。排除せよ』
『右腕損傷。痛覚データを転送。戦闘継続』
俺は目の前で起きた光景に息を呑んだ。
地雷を踏んだ先頭の兵士が、足首を吹き飛ばされた。
普通なら絶叫して転げ回るところだ。だが、彼は顔色一つ変えなかった。それどころか、吹き飛んだ足首など存在しなかったかのように、残った膝で地面を這い、射撃を継続したのだ。
その代償はどこへ行った?
俺は端末の周波数を変え、後方支援回線をハッキングした。
そこから聞こえてきたのは、遠く離れた都市の地下、収容所からの「たった今の絶叫」だった。
「……あいつら、ここまでやりやがったのか」
俺は泥を握りしめた。
あいつは、俺の親友は、ついに人間を「部品」にしたのだ。
痛みを感じない兵士。その痛みを背負わされる囚人たち。
完璧なシステムだ。カシマが狂喜乱舞する姿が目に浮かぶ。
だが、俺が恐れていた最悪の事態は、それだけじゃなかった。
俺の端末に、スラムに残してきた少女――俺の助手のミナから、暗号化されたSOSが届いたのだ。
『先生、逃げて。黒い服の人たちが来た。みんな連れて行かれる。「特別な仕事」があるって』
俺の血の気が引いた。
収容所の囚人(バッテリー)が足りなくなったんだ。
カシマは次の電源として、スラムの住人たちを選んだ。
あの優しくて、貧しくて、それでも互いに肩を寄せ合って生きていた連中が、身代わりの部品として、生きたまま脳を焼かれることになる。
「ふざけるな……!」
俺は立ち上がろうとして、塹壕の縁に頭をぶつけた。
痛み。鈍い衝撃。
俺は額から流れる血を拭い、その熱さを確かめた。
痛い。すごく痛い。
だが、この痛みこそが、俺がまだ人間であることの証明だ。俺はまだ、自分の痛みを自分で引き受けている。
俺は相棒だった男の顔を思い浮かべた。
学生時代、雨の降る研究室で、目を輝かせて「理解し合える世界」を語っていたあいつ。
あいつは悪魔じゃない。ただ、純粋すぎたんだ。
純粋すぎる光は、影を許さない。だからあいつは、世界の影(ノイズ)を切り捨て、見えない場所に隠蔽した。
だが、その隠蔽された影が今、俺の大切な場所を飲み込もうとしている。
止めなきゃならない。
説得じゃ無理だ。あいつはもう、システムの一部に組み込まれている。カシマという巨大な歯車と、国民の熱狂というエンジンに直結されている。
外から壊すしかない。
俺は端末を操作し、国境を越えた先にある、隣国軍の通信周波数を探った。
これは裏切りだ。
俺がやろうとしていることは、国賊としての行為だ。スラムの連中を救うために、何万人もの自国の兵士を危険に晒すことになる。
だが、あのレギオンを見てしまった今、俺に迷いはなかった。
あれは人間じゃない。あれを放置すれば、世界中が「結晶化」した死人(ゾンビ)で埋め尽くされる。
「……聞こえるか、こちら『屑鉄屋』」
俺は隣国軍の司令部回線に割り込んだ。
雨音が激しくなる。
俺は自分の魂を売り渡す覚悟で、送信ボタンを押した。
「あんたたちが戦っている『不死身の軍隊』の、カラクリと弱点を教えてやる」
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