遠隔の受難
開戦から一ヶ月。
国営放送のニュースキャスターは、興奮を抑えきれない様子で「完全なる勝利」を連日報じていた。
画面には、我が軍の「防疫部隊」が、隣国の首都へ向けて破竹の進撃を続ける映像が流れている。
そして、最も強調されるテロップは常に同じだ。
『我が軍の死傷者、ゼロ』
市民たちは熱狂していた。
彼らにとって、この戦争はあまりにも都合の良いエンターテインメントだった。
自国の兵士は一人も傷つかず、ただ不衛生な敵だけが「浄化」されていく。
ブリーチされた彼らの脳内では、それが魔法のような奇跡ではなく、当然の権利として処理されていた。
だが、私は知っている。
物理法則において、エネルギーは消滅しない。移動するだけだ。
「ゼロ」という数字の裏側に隠蔽された、膨大な「負債」の送り先を。
都市の地下深く、かつて地下鉄の車両基地だった場所は、今や「第三種データ処理センター」という無機質な名称で呼ばれる軍事施設に改装されていた。
私はメンテナンスのためにそこを訪れた。
重厚な防音扉が開いた瞬間、鼓膜を劈(つんざ)いたのは、データサーバーの冷却ファンの音ではない。
絶叫だった。
人間の喉から絞り出される、限界を超えた悲鳴の合唱。
広大なコンクリートの空間に、数千台の簡易ベッドが並んでいる。
そこに拘束されているのは、オレンジ色の囚人服を着た受刑者たちだ。殺人犯、強盗、詐欺師――社会から「不要」と断じられた彼らの首筋には、太い黒色のケーブルが突き刺さっている。
彼らの身体には、傷一つない。
だが、ある者は背中を海老反りにさせて痙攣し、ある者は見えない炎に焼かれるように転げ回り、ある者は虚ろな目で泡を吹いて失禁している。
「……現在、稼働率は九八パーセントです」
案内役の施設長が、タブレットを見ながら事務的に報告した。
「前線の進撃スピードが予想以上に速く、敵の抵抗も激化しています。一分間に受信する『被弾パケット』は平均で四〇〇件。……処理が追いつきません」
私はベッドの一つに近づいた。
若い男が、自分の右腕を押さえて泣き叫んでいる。
「痛い! 腕がない! 俺の腕が!」
彼の右腕はそこにある。だが、数百キロ先の前線で、彼とリンクされた兵士が腕を吹き飛ばされたのだ。その「幻肢痛」という名の現実が、彼の脳を焼き焦がしている。
これが、「死傷者ゼロ」の正体だ。
兵士が受けるべき銃弾の衝撃を、肉の盾となって引き受ける身代わりたち。
ここでは「死」さえも転送される。兵士が即死級のダメージを受けた瞬間、リンクされた囚人の脳幹がショック死を起こし、兵士は無傷のまま次の戦闘へ移行する。
「……人手が足りないと言いたいのか?」
私が尋ねると、施設長は困ったように眉を下げた。
「ええ。このペースでは、あと一週間で『在庫(ストック)』が尽きます。囚人の脳(ハードウェア)にも耐久限界がありますから。連続した激痛転送で、次々と廃人化して使い物にならなくなっている」
その時、施設の奥からカシマが現れた。
彼は耳栓を外し、この地獄絵図の中で平然とサンドイッチを齧っていた。
「聞いた通りだ、CTO。前線の『レギオン』は無敵だが、彼らを支えるバッテリー――この肉人形たちがショートしかけている」
「……進軍を止めるしかない。これ以上は虐殺だ」
「止まるわけがないだろう。国民は『完全勝利』を求めている。今さら『兵士が痛いので休みます』なんて言えるか?」
カシマはパンの屑を払い、冷徹な目で私を見た。
「解決策は一つだ。サーバーの容量を増やす」
「囚人はもういないぞ」
「『囚人』の定義を変えればいい」
カシマは指を鳴らした。
背後のモニターに、都市のスラム街――あの『沈殿槽』の地図が表示された。
「国家衛生維持法の特例措置が、今朝可決された。『社会的に生産性のない浮浪者』や『不法居住者』を、戦時特別労務者として徴用する」
私は息を呑んだ。
彼は、あのスラムの人々を、クズミが守ろうとしていた人々を、この痛みの処分場に連れてくると言っているのだ。
「待て! 彼らは罪人じゃない! ただ貧しいだけだ!」
「社会の痛みを引き受けるのが彼らの仕事(デポジター)だっただろう? それが民間のストレスから、軍のダメージに変わるだけだ。待遇は悪くないぞ。国のために役立てるんだ」
カシマの論理は、結晶のように硬く、そして狂っていた。
彼にとって、人間はもはや「感情のコンテナ」でしかない。空っぽのコンテナがあるなら、そこに溢れた汚水を注ぎ込むのは「効率的」なことなのだ。
「……クズミが、黙っていないぞ」
私が絞り出すように言うと、カシマの目が微かに細められた。
「ああ、彼か。……彼が国境付近で何を嗅ぎ回っているか、把握しているよ。邪魔をするようなら、彼も『処理』しなきゃならないな」
カシマは私の肩を叩いた。
「急いでくれ、CTO。スラムからの『新規サーバー』搬入は今夜から始まる。接続設定の書き換えを頼むよ」
彼は去っていった。
残された私は、数千人の悲鳴の只中で立ち尽くしていた。
遠隔の受難。
安全な場所からボタン一つで敵を殺し、その痛みさえも他人に押し付ける。
この卑劣なシステムを維持するために、私は今夜、罪のない人々を回路に繋ぐプログラムを書かなければならない。
私の視界の端で、一人の囚人が激しく痙攣し、そして動かなくなった。
モニターの「接続数」が一つ減り、即座に新しい囚人に切り替わる。
その事務的な命の消費音が、私自身の心が壊れる音のように聞こえた。
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